――<文字が掠れていて読めない>――
「今日も今日とて――<文字が掠れていて読めない>――な一日だ」
一人の村人が、歌うように独り言ちながら畦道を歩く。
それに合わせるように、春の風を受けた草花が優しく揺れている。
小さい、一つかみ程の村ではあるが、日照りに見舞われることも大雨に見舞われることもない――<文字が掠れていて読めない>――だ。
「これも――<文字が掠れていて読むことができない>――だな」
ふと遠くを見ると、子供が二人楽しそうに走り回っているのが見えた。
うち一人は己の娘である。
今年で十一になる、目の中に入れても痛くない可愛い娘。
もう一人の子供とは五つか六つ年が離れているので、走り回っていると言うよりは、その子が雛鳥のように後をついて回っている。
その微笑ましいさまは、まるで親子の様だ。
いや、子供の方はそれに近い感情を抱いているのかもしれない。
(あの子が来てから、もう三年くらいか……)
◇◇◇
粉雪が舞う寒い日のこと。
今よりも幼かったあの子を背負った母親がふらついた足取りで、この村へとやって来た。
貧しい身なりを気の毒に思った、村人の家の隣に住んでいる婆様がわけを尋ねると、『旦那が死に、親しい者たちからは騙され、家も財産も一切合財を失い、あてどなく旅をしている』とのことだ。
か細く嗚咽を漏らす母親を見て、婆様はますます気の毒に思った。
「可哀想にのぅ。今夜一晩、泊って行きなせぇ」
自然と、そんな言葉が口から飛び出していた。
『隣』と言っても、自分の家と婆様の家の間には少し距離がある。
婆様は、随分前に爺様を亡くして子供もいない。
一人暮らしが寂しかったのだろう。
もう一晩、もう一晩、もう一晩……、母子が婆様と一緒に暮らすようになったのは必定だった。
自分も含め、他の村人たちも二人を快く受け入れた。
母子も、穏やかでのんびりとした村の空気にすぐに馴染んだ。
仲の良い二人を、村人の娘は羨ましそうに眺めていた。
村人の母親は産後の肥立ちが悪く、娘を生んですぐに亡くなったのだ。
それを察してか、母親は娘に大層よくしてくれている。
婆様が亡くなった後も、母子は隣の家にいた。
◇◇◇
(いつの間にか、大きくなったもんだ……)
枯れ枝のように痩せ細っていた頃があったとは思えないくらい、元気に駆け回るその子を見て、自然と涙ぐむ。
「あっ、おとうだ!」
「おーい!」
こちらに気が付いたのか、二人は大きく手を振った。
振り返そうとした手が、ハタと止まる。
二人の後ろに、――<文字が掠れていて読めない>――。
それは、この村の神様だった。
自分が生まれるずっと前から、村の外れの祠に住んでいる神様。
しかし、塞の神なのか山の神なのか、はたまは――<文字が掠れていて読めない>――か、ハッキリと知る者はいない。
わかるのは、優しく勇敢な神様であると言う事だけだ。
姿こそ幼いが、見た目に反してとても強い。
村人たちは、絶対の信頼を寄せている。
(でも、そう言い聞かされてきただけで、『神様』なのかは――)
そこまで考えて、首をブンブンと振る。
自分は一瞬とはいえ、なんて罰当たりなことを考えてしまったのだ。
それこそ、天罰をもらってしまう。
どのような存在であれ、『神様』のお陰でこの村が――<文字が掠れていて読めない>――なのは間違いないのだ。
それに、ああして子供たちに混ざって遊ぶ姿は、何とも微笑ましい。
老若男女問わず、守って下さる。
この間も、○○の家に子供が産まれたことを、とても喜んでいた。
赤子を見つめる目は、慈愛に満ちたものだった。
(それで、いいじゃないか……)
もとより、小心者で考えることが苦手な村人は、そう自信を納得させる。
(この――<文字が掠れていて読めない>――がずっと続くのなら……)
「おーい、楽しそうだなー」
中途半端に止めていた手を、大きく振った。
自分の中に芽生えた『何か』を、振り払うように。
それから一年、あの日の考えが取り越し苦労だったと安堵するような――<文字が掠れていて読めない>――が続いた。
大粒の雨が降り注いでくる、あの日までは――。
ページが破れている。
「なんじゃあ?ありゃあ……」
「ひえええぇ、ば、化け物じゃ……」
「――<文字が掠れていて読めない>――様、どうかお助け下せぇ……」
「お願ぇします。どうかどうか……」
ページが破れている。
ページが破れている。
「あ、ああ、なんて事じゃ、――<文字が掠れていて読めない>――が……」
ページが破れている。
ページが破れている。
「これから、一体どうしたら……」
「もう、――<文字が掠れていて読めない>――の所為で畑は滅茶苦茶だ」
「……」
「……」
「仕方ない。い――<文字が掠れていて読めない>――」
「そうだな。そうしよう……」
「でもよぅ、誰にすんだ……」
「…………」
ページが破れている。
「可哀想じゃが、仕方ねぇ……」
「許せ」
「これできっと、元に戻る」
「その筈じゃ……」
ページが破れている。
ページが破れている。
「また、――<文字が掠れていて読めない>――を寄越せって」
「…………仕方ない」
「次は誰だ」
ページが破れている。
ページが破れている。
「おかあ、お腹空いたよぅ……」
「どうしよう、どうしよう!このままじゃ……」
「このまま乳がでないと、この子は……」
「おい、もう息は……」
ページが破れている。
「こんな生活、いつまで続くんだ……」
「『神様』が負けさえしなければ」
「そうじゃ、アイツの所為じゃ……!!」
「これ、滅多なことを――」
「でも、本当のことだろう?」
「…………」
ページが破れている。
「本当は、アイツも――<文字が掠れていて読めない>――の仲間なんじゃねぇのか?」
「でもよぅ、今は石にされちまったんだぞ?」
「んだんだ」
「仲間割れさ。――<文字が掠れていて読めない>――を分けるのが惜しくなったんだ」
「…………!そ、そうか」
「ああ、皆を油断させて機会を狙っていたんだろうさ」
ページが破れている。
ページが破れている。
「なんでぇ、『神様』じゃなかったのかよ」
「そうだそうだっ!この役立たずがっ!!」
「へっ!仲間に裏切られるなんて世話ねぇなぁ……!!」
「当然の報いじゃ」
ページが破れている。
ページが破れている。
「子供を返せっ!」
「田を返せっ!!!」
ページが破れている。
ページが破れている。
「あん?誰だおめぇさん」
「ははは、できるもんならやってくれよ……!」
ページが破れている。
「なんと、――<文字が掠れていて読めない>――が灰になった……」
「やった……。これで、終わったんだぁ」
「あれ?何処さ行った?」
「消えちまった……」
「――<文字が掠れていて読めない>――ってとこに帰ったのか?」
「で、でも、あの傷じゃあ……」
「ああ、そんなっ!!」
「ありがとうございます!ありがとうございます!!――<文字が掠れていて読めない>――様っ!!」
「貴方様こそが、本当の――<文字が掠れていて読めない>――です!」
「子々孫々まで、貴方様のことを語り継ぎましょう……!!」
ページが破れている。
ページが破れている。
ページが破れている。
ページが破れてい――。
「………………………………………………………………………ごめんなさい」




