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二ヶ領用水は南武線「宿河原駅」の近くを走る小さな用水路だ。そこを挟む桜並木はそれなりに有名で、春になると綺麗なデートスポットに早変わりする。
高校生同士の交際期間なんて今思えばあっという間に終わりを告げる。四季折々のイベントを一巡できる二人がどれ程いようか。あの日晴れていたとしても五月に付き合った俺達が翌年の花見まで付き合っていた可能性は低い。
だからこそ、夢想した。もしあのまま時が経ち、高校三年生の春に二人でここを歩いたらどんな話をしていたのだろう。
「それ『アレクサンダとぜんまいねずみ』でしょ? 私も昔好きだったんだ」
美樹と話す様になったのは学校の図書室だったことを思い出す。何かの授業の際、図書室で本を探すことになりボンヤリと背表紙を撫でていたら昔読んだ絵本に目が留まった。
何の気なしに手に取ってみると懐かしくて、つい本棚の陰に隠れて読んでいたところで声をかけられた。
どんなやり取りがあったのかは覚えていないが、その後俺が子供の頃に読んでいた『こども大百科』を二人で並んで開いていた。物心つく前の俺は誕生石のページが何故か印象的で何度も繰り返し眺めていだと話す。
「四月は白のイメージが強いんだ。たぶんこのページのダイヤモンドが印象深いんだと思う」
今思うと何でそんな話をしたんだろう。しかし、彼女はそれに共感し、そこから急激に仲が良くなったのを思い出す。人と仲良くなるきっかけなんて本当に些細なことだ。
その日ではなないと思うが、付き合う前に一緒に下校したことがあった。美樹は図書室でのやり取りが面白かったのか、曜日や数字を始め、様々なものに何色のイメージを持つかを夢中になって話していた。
今でこそ共感覚といった言葉があることを知っているが、自分に特殊能力があると思い込みたい思春期の俺達は、何か運命的なものを感じ取っていたのか、そう思い込みたかったのか。幸いにして美樹は顔も仕草も可愛らしく、高校生の俺が好きになるのは自然なことで、ありがたいことに美樹もそう思ってくれていた。
桜はどうしたってピンク色のイメージが強い。しかし匂いでいえば微かに甘いソースの匂いだな。屋台の並ぶ花見通りを一人歩き、そんなことを思う。
こういった出店で美樹が何に興味を持つのかを俺は知らない。
コートとマフラーが要らなくなった四月。首筋を撫でる風はまだ微かに冬を感じさせたが、奥に潜む柔らかさから無垢な白さが感じ取れた。
マスターの作るホットケーキは見た目がシンプルで変わり映えしないはずなのに何故か癖になる。不思議なコーヒーを淹れる人だ、ホットケーキに特殊なものを混ぜていてもおかしくはない。死者を弔うという裏メニューの為に店を訪れる人は極一部。純粋にコーヒーを味わいに来ている人が三割ぐらいか。実に半数以上の客はこのホットケーキを目当てにしているぐらいにファンは多い。
その証拠に甘いものが苦手な俺がこうも愉しみになっている。
「それを言われたところで私は食べられないんだけど。浩平くんってそういうところあるよね」
「桜を見ながら美樹と何を話したいかを考えていたんだ。で、俺は美樹が好きな食べ物を知らないし、美樹はマスターのホットケーキが美味いことも知らない」
「つまり、どういうこと?」
「このテーブルに座りながら出来なかったデートをしよう。出店があったら何を食べたいかを教え合いたいし、また他愛ない物のイメージカラーなんかも共有しあってもいい。昔読んだ絵本や好きだった映画について話すのも楽しそうだ」
「それもいいけど私は浩平くんの今日までの十年間を聞きたいかな。二七歳だと高校を卒業して大学にも行ったのかな? その後どんな女性と付き合ったのか、いつから煙草を吸っているのか、今この仕事をしている経緯、浩平くんのことなら何でも知りたい」
「そうだな……。話したい事は山ほどあるけど、格好悪くて女々しくて嫌な俺を見せることになるな」
「それを見せてほしいの。好きな人と話し疲れちゃったから成仏できる、なんて幸せじゃない?」
ファミレスで始発まで話し込むっていうデートもしてみたかったんだ、と言って肘をつく美樹に幼さは感じなかった。
十年前ではなく、今ここにいる美樹に再び恋をしていた。
煙草を吸い切ってからどれぐらい時間が経っただろう。
何杯も飲んだコーヒーのおかげで繰り返しトイレに席を立つが、一向に立ちあがらない美樹に気が付く度に住む世界が違うことを気付かされる。
マスターは嫌な顔をせずコーヒーを淹れてくれ、繰り返し飲むグラスやカップを都度用意してくれた。
尽きることのない話題。あり得たかもしれない過去。叶うことのない未来。
話をしていて余計に辛くなるのはわかっているが、全てを出し切らずに終わりを迎えてしまうのが怖くて、脈絡もなく思いつくまま話し続けた。
カフェインで鞭打つ身体にも限界が近づき、目の奥が微かに熱くなり、足は妙な浮遊感で力が入らず、何度も何度も舟を漕ぐ。
一度眠ってしまえば美樹は今度こそ俺の前から消えてしまう。
成仏してしまえば、この不思議な能力があったとはいえ二度と話すことが出来なくなってしまう。
あと少し。あと少しだけ。意識が飛びかけながら一瞬で見た夢の内容を口にし始める俺を見て、美樹は責める事なく微笑む。
「さすがに話し込んだねー。もうそろそろ終わりにする?」
眠気に抗い、片目だけ瞑る。徐々に視界が狭くなるが、ちゃんと声は聞こえている。俺はまだ起きている。
「ずっと胸につかえてたものが取れた気がするの。もう一度今日を始めからやり直して、もう一度浩平くんとお喋りできたら楽しいんだろうけど、しばらくいいかなって思えるぐらいには満たされた。ありがとね」
「……成仏するってどんな感じなんだ?」
そんなことを聞きたいんじゃない。きっちり今度こそお別れをして、お互い別々の道を歩まなきゃいけないんだ。なのに頭は霞がかかって今まで通りの世間話をしてしまう。
「そうだなあ……、日曜日にベッドに入る感じかな。休みが終わっちゃうと思うとまだ寝たくないし、起きたら土曜日の朝だったらいいのに、なんて考えちゃうけど今は『明日はもっと楽しいことがあるかも』って晴れやかな気分で眠れそう」
手を組み腕を伸ばして大きく胸を張る姿は猫のようだ。
「素敵な日曜日だったよ。ありがとね、浩平君。お休みなさい」
ハッと目が覚めるとテーブルに突っ伏して眠っていた。
カフェインの取り過ぎか、煙草の吸い過ぎか、頭は重く身体の節々が軋む。
自分が寝ていたのは五分程度なのか、それとも五時間程度なのか。全く見当がつかない。
片付けられたコーヒーカップと灰皿。時計の針は六時を示していた。
覚醒しきっていない頭を奮い立たせ、階下に降りるとマスターに声をかけられる。
「お疲れ様。美樹ちゃんは帰ったぞ。森田さんも俺が対応してもう帰られたよ」
今日はそれでも飲んで帰って休んだらどうだ、とホットコーヒーを淹れてくれる。
いつもより砂糖が多く入っている気がした。
喜怒哀楽に当てはまらないこの感情に名前をつける必要はない。人生で二度と味わう事がないものに、人と分かち合うつもりのないものに呼び名はいらない。
「少し男前になったな」
「嫌味にしか聞こえないぞ」
コーヒーカップがソーサーをカタカタと鳴らす。鼻を啜る音が他人事のように聞こえた。
「嫌味なもんか。男は見た目と精神年齢が近いほど格好いいんだ」
珍しくレコードをかけるマスターの気遣いに甘えて、俺は再び煙草を手に取る。
ピアノとベースの音がコーヒーをさらに甘く感じさせた。