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大負けしたパチンコ屋から「アン」への道を歩いて帰る。
自分の仕事にいくばくかの罪悪感を持っていると、とても裕福な暮らしをする気にはなれず、きっちりと計算した生活費を口座に残しつつ、余剰はギャンブルで消化してきた。当たれば一時の享楽を、負ければ自己嫌悪を上塗りし懺悔も込めて仕事に向き合う。そんな生活をもう何年も繰り返してきた。
おそらく十年前のあの日から俺は何も変わっちゃいない。自殺するほど破滅的でもなければ、夢を見る程楽観的には生きられない。ただ漫然と毎日を過ごしつつ、自分を肯定する為に遺族から感謝の言葉をいただき、死者を弔うことで許しを得たつもりになっていた。
いつか来るかもしれない終わりの日。
毎日毎日怯えながらも、早く楽にしてくれと泡を吹きながら息が止まる直前の快感を味わっているようで。春を思わせる日中の暖かさを無下にしながら狭くなる視界をただただ歩いた。
予定通り三十分前に「アン」の扉を開く。
ドアが鳴らす鈴の音がいつもより響いて聞こえたのは、おそらく鈴のせいではなくこれから起こる事を予期した第六感が力強くドアを開いてしまったのだろう。
快晴の日に限って終わりは突然やってきた。
人生で二度と会いたくない人を挙げるとすれば二人いる。
あの時バイクを運転していた男と、目の前に座るこの人だ。
森田美樹の父親とは十年前に葬式で出会ったきり、もう二度と会うことはないと思っていた。しかし、いつかこの店にやってくるのだろうなとそれ以上に確信をしていた。
「あなたが霊と話せるという……、どこかでお会いしたことありますか?」
「……お久しぶりです。十年前に美樹さんのお葬式でご挨拶させていただきました。雑賀浩平です」
眼鏡の奥で見開かれた目は正直で、気まずさと嫌悪感が吹き出していた。とはいえ、彼も会社員として年を重ね、本音を取り繕う術を身につけている。客として取るべき態度と依頼する立場であることを一瞬で理解したようだが、俺への敵意は新鮮さを保っていた。
「ああ、あの時の……、その節は娘がお世話になって……。いや、しかしこんな形で再会するとは……」
美樹の父親がチラリとマスターを見やるも、一流の狸であるマスターは俺を信じろと言わんばかりに背中を押す笑みだけ浮かべ、それ以上の干渉を拒む。この親父はいつもこうだ。
美樹の父親は何か言いたげだったが、喉まで出かかった言葉を精査している間に取るべき態度がわからなくなってしまったのか、宜しくお願いします、と一言頭を下げて店を後にした。
再び、鈴の音が店内に余韻を残す。
お湯が沸く音が仕事の始まりをつげ、初めて薫るコーヒーの匂いが後戻りできないことを教えてくれた。
「いらっしゃったら二階に案内するから、お前は先に行ってろ」
出された俺用のコーヒーと新品の灰皿は、自決用の拳銃と弾丸に見える。
あの日、雨が降っていた。
横転したバイクが美樹に激突し、打ちどころが悪かった美樹は病院での治療も虚しく息を引き取った。
十年前の八月四日。あれから九回訪れた八月四日はよく晴れており、なぜあの日だけ雨が降ってしまったのかと、やり場のない怒りを空にぶつけざるを得ない。
いつの間にか灰皿には吸い殻が三つも出来ている。気が付けば四本目の煙草はもう半分ほど短くなっていた。動揺している自分に嫌気がして残る煙草をぐりぐりと揉み消すと、
「あれ、まだ残っているのに。もったいないなあ」
横を通り抜けながら声を掛けられる。何度頭で再生したかわからないその声は、想像よりは高く、予想以上に気持ちを浮つかせ、当時俺を惑わせた髪から香る甘い匂いが沈殿していた記憶を巻き上げた。
よいしょ、と向かいの席に座る彼女は幼く見え、自分が年を取ったことを再認識させられる。
「浩平くんってこんな大人になるんだね。髭は剃った方がいいと思うよ」
今ここが下校途中のデートであればどんなにいいか。もう一度彼女とやり直すことが出来ればどんなに幸せか。
あれだけもう一度会いたいと想い、この仕事では会いたくないと願った彼女を前に、動揺が隠しきれず口元に手が伸びる。指先からする煙草の匂いが、埋めることのできない十年の月日を突きつけた。
「本当だったんだね、亡くなった人と話が出来るの」
「あの頃はこんなにハッキリとは話せなかったよ。煙草を吸うと霊感が増すんだ」
煙草を吸うようになった原因は君にあるんだ、と言われて彼女が喜ぶ訳もなく、まして俺も八つ当たりがしたい訳ではない。
限られた美樹の時間を、俺は仕事だと頭を切り替えて出来るだけドライに対応する。
「美樹は何か心残りがあったのか?」
「浩平くんにちゃんとお別れが出来なかったことかな」
冗談だよ、そんな怖い顔しないで、と明るくあしらう姿に胸がささくれ立つ。
この十年の全てを、記憶も達成も苦労も、無かったことにしてもいいから。見栄と焦りで汚れた恋心だけで彼女に向き合いたい。
そんなことを考えながらも、近々訪れる美樹との別れを意識して出来るだけ感傷に浸らず済ませたいと思う。
「春になったら桜を見に行こう、って約束したの覚えてる? 二ヶ領用水沿いの」
「懐かしいな。覚えているよ」
「浩平くんが告白してくれたのがGW明けだったからお花見は出来なかったんだよね。行ってきて、感想を聞きたいの」
お願い、と顔の前で手を合わせるが、そうすることで俺が言うことを聞いてくれるはずだという確信が透けて見える。断られる筈のないお願い。何をされても嬉しくなる自分が情けなくなる。
「感想を言うだけでいいのか?」
「うん。私は一緒に行けないから。出来るだけ鮮明に、私とどんなことを話そうと思ったのかも聞かせてほしい。このテーブルに座りながら出来なかったデートをしよう」
喉が締まり、口の端が強張る。どうにか形だけ返事をし席を立つ。
滲む視界が目頭をかゆくする。瞬きの度に溢れる涙で気持ちが焦る。
今まで俺は美樹のことをズルズルと引き摺っているんだと思っていた。
なんてことはない。本人を前にして気がついた。引き摺るどころか今日まで生きられたのは彼女が手を引いていてくれたんだ。
ただ会えなかっただけで別れられていなかったことに気付く。そして、本当の別れは目と鼻の先まで迫っていた。