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大学受験の合格発表の日に快晴である必要がない。もし不合格であれば今後晴れる度に思い出してしまうかもしれないから。
向かいに座る貝塚志穂子は当事者であるにも関わらず落ち着いてコーヒーの匂いを楽しんでいる。
「先生、半年間ありがとう」
家庭教師と生徒という関係がもうすぐ終わる。あと数分を残し、もう話すことも無くなってしまうのだろう。
「本当によく頑張ったよ。悔いはないか?」
「そうだね、前の私だったら大学生になりたい、良い会社に就職したいって言ってたんだろうけど、そういうのはないかな。気持ちの整理をする時間は十分にあったからね」
ここのコーヒーが飲めなくなっちゃうのは残念だけど、とはにかむ彼女は年齢よりも大人びて見える。自分より十歳は年下のはずなのに、比べてどうにも恥ずかしくなる。いつまでも大人になれない自分に嫌気が差した。
溜息交じりに煙草の煙を吐き出すと、志穂子はわざとらしく咳き込んだ。
「あんまり吸い過ぎちゃダメだよ? あ、でもいっぱい煙草吸ってれば、その分早く会えるのかな」
身を乗り出していたずらっぽく笑う顔は、自分の若さと可愛らしさを自覚している。よく晴れた日にはこの眩しさを思い出したい。
カチカチと鳴る時計の針が存在感を増した気がする。音が大きくなるわけもないのに。名残惜しさと焦燥感が胸を絞り、肺に残った煙を吐き切らせた。
「じゃあね、先生。向こうで待っているよ」
「おう、そのうち挨拶にいくよ。お疲れ様」
日向が突然陰るように、志穂子はスッと姿を消す。時刻は正午。生前第一志望として受験勉強に明け暮れた大学の合格発表の瞬間に彼女は成仏した。
インターネットで合格発表のページに接続する。回線が込み合っているのか思う様に表示されない。
スマホの画面を机に伏せて再び煙草に火をつける。煙草とコーヒーの匂いがまた少し嫌いになった。
「お疲れ様。向こうで親御さんが待っているぞ」
喫茶店「アン」のマスターが階段を下りてくる俺に労いのホットコーヒーを淹れて、奥のテーブル席を指し示す。
今か今かと待ち侘びていたのか、俺が視線を向ける時には深々と頭を下げていた志穂子の父親と、ハンカチで目元を抑えた母親が席から立ち上がっていた。
「志穂子の為に半年間ありがとうございました。本当に最初は失礼な態度を取ってしまい、誠に申し訳ございませんでした」
「いえ、お気になさらないでください。あの、お掛けになってください」
何度繰り返しても遺族とのやり取りには恐縮してしまう。俺もそろそろいい年なのだからスマートにこなしたいところなのだが、どうにも堂々と振る舞えない。
「志穂子は……、無事旅立てましたでしょうか……」
鼻水をすすり、つかえながら志穂子の母親がそれだけは聞かせてほしいと言わんばかりに喉を締めながら尋ねてくる。
「ご安心ください。志穂子さんらしく元気な明るい笑顔で旅立たれましたよ」
娘の死から数えきれない涙を流しただろうに、志穂子の母親は嗚咽した。背中をさする父親を見て、ご両親は今日から前を向いていけそうだぞ、と胸の中で志穂子に報告をする。
労いのホットコーヒーには少し多めの砂糖が入っていたが、俺はこの一杯を飲む瞬間だけ自分の仕事を肯定できた。
志穂子の両親を見送り、冷たい空気と一緒にドアを鳴らす鈴の音が店内の隅々に行き渡る。
「半年間は長かったな。志穂子ちゃんに感情移入しちゃって辛かったんじゃないか?」
コーヒー豆を挽く手を止めてマスターが新しい灰皿をカウンターに差し出してくれた。
「そうだな、普段は長くて三か月ぐらいの付き合いだからな。今は平気でもふとした瞬間に気持ちを持ってかれるかもしれない」
この喫茶店にはマスター特製のコーヒーと無駄に手の込んだホットケーキ目当てじゃない客が少なからず訪れる。
それが先程の志穂子の両親のような「死者を成仏させたい」という人達だ。
マスターは成仏させたい死者の生前の様子を出来る限り細かく聞き、その魂にピッタリのコーヒーを淹れてあげる。その薫りに呼ばれるように死者がこの店に訪れるので霊感のある俺が話を聞いてあげて成仏させてあげれば、晴れて依頼完遂ということだ。
謝礼と称して少なくない金額を払う遺族が多い為、ありがたいことに俺もマスターも食うに困らない生活は送れていた。が、お金を受け取る度に胸に刺さった楔がコツンと叩かれる。ずぶずぶと深く入り込んでいくわりに、いつかバキンと音を立てて割れるのではないかと、自己嫌悪しながらもこうして仕事を続けていた。自分がいかに偽善者なのかを自覚させられる。
「十五時から新しいお客さんが来るが、ちゃんと覚えているか?」
「ああ、大丈夫だよ。それまでちょっと散歩でもしてくるさ」
「今回も目を通さなくていいんだよな?」
マスターが事前に遺族からカウンセリングした情報をまとめた書類をぴらぴらとはためかす。
「いいよ。遺族と本人で言っていることが結構違ってたりするんだよ」
三十分前には戻るよ、と煙草の火を消して席を立つ。
ドアの鈴が鳴り、よく晴れた日の光が目に飛び込んできた。
まるで暗い黄泉へのトンネルから抜け出したかのように自分の場違いさに背筋が伸びる。