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その花の名(2)


「……ハルカ、何をしているのか、聞いてもよろしいですか?」

「アディート、助けて!!」


 ある日の朝。

 いつも通り、朝食後にわたしの部屋へとやって来たアディートは、常ならぬ部屋の惨状を目の当たりにして、そのまま硬直してしまった。

 決して狭くはないけれど、追いかけっこには向いていない部屋の中。そこを必死に走り回っているわたしと、楽しそうにわたしを追いかけている人物を見て、アディートは困惑した顔でわたしに声を掛けてきた。

 わたしは救世主であるアディートに、思いっきり飛びついた。これで助かる、そう思ったのだ。

 わたし程度のチビが飛びついてきたところで、鍛え抜かれた身体の持ち主であるアディートは何ら揺るがない。

 ちゃんとわたしを抱きとめてくれたアディートは、困惑した顔のまま、わたしとわたしを追いかけていた人――わたし付きの侍女である、サラさんを見比べた。


「……これは一体、何があったんだ?」

「アディート様、ちょうどよかった。そのままハルカ様を捕獲なさっていてください」

「?! ア、アディート、離してっ!」

「ハルカ? 大丈夫ですから。落ち着いて、暴れないでください。

 ――どういうことだ? 何故、部屋の中に衣服が散乱していて、ハルカはお前から逃げている?

 ……それに、その手に持っているものは何だ?」


 捕獲、という恐ろしい言葉に暴れだしたわたしを優しく抱きとめたまま、アディートは訝しげな顔でサラさんを見た。

 アディートは、時々大勢の護衛の前から突然行方を眩ませる、はた迷惑な殿下の優秀な捕獲係だ。

 平民のアディートが殿下の側近になった際、執拗に嫌がらせをしてきた貴族たちですら、アディートが殿下を捕まえる、その鮮やかすぎる手腕に感嘆して、彼に惜しみない拍手と賞賛の言葉を贈ったという、そんな恐ろしい逸話が残っているほど、逃げる人を追いかけて捕まえるのが上手い。

 わたしは救世主に飛びついたつもりが、実は最も危険な人に飛びついてしまっていたことに気がついて、思わず青ざめた。

 しかし、そんなわたしの様子には気がつかないで、アディートはあちこちに衣服が散らかった部屋を、眉を寄せて見回した。


「アディート様、ハルカ様の素敵なドレス姿が見たくはありませんか?」

「……は?」

「今日は、アディート様のお誕生日ですよね?」

「…………そう、だったか?」

「ええ。王太子殿下がわざわざ昨日の夜、わたくしに教えに来てくださったのです」

「昨夜、殿下が私をわざわざ時間を指定して寝室に呼び出しておきながら、何故か部屋にいなかったのはそのせいか……」

「その際、殿下はそれはそれはお優しいお顔で、是非とも忠実なる臣下であり無二の友であるアディート様の喜ぶ顔が見たいとおっしゃいまして」

「……嘘だ。絶対に嘘だな、それは。その時の殿下の顔、悪人の笑顔だっただろう」

「お優しい殿下はわたくしに、この衣装一式――今、部屋の中に散乱している素敵なドレスの数々をくださったのです。どれも最高級の品々ですわ。

 『この中の気に入った服を明日ハルカに着せて、アディートに放り投げてみろ。あいつのことだから、きっと涙を流して喜んで受け取るに違いない』

 ――王太子殿下は、輝くばかりのお美しい笑顔でそうおっしゃいましたわ。

 一介の臣下に対して、このような思いやりに満ち溢れた贈り物をなさるなんて、王太子殿下はなんと心優しく、寛大なお方なのでしょう」

「感心するな、そのような悪趣味な命令!! 殿下の妙な遊びにハルカを巻き込むんじゃない!

 大体お前はハルカ付きの侍女だろうが! 彼女を困らせるな!!」  

「ええ。ですが、わたくしもまた、王城に仕える者。つまり、王族の方が主君ですもの。

 王太子殿下のお望みは、アディート様がお喜びになること。そして何より、アディート様の喜びはハルカ様の喜びでもありますわ。ですから、今日はいつもの可愛らしい巫女服ではなく、この素敵なドレスをハルカ様にお召しになっていただこうとしたのですけれど、ハルカ様が恥ずかしがってお逃げになるので、このような状態になってしまったのです」

「だ、だって! サラさん、何でか1番露出が多いドレスを持って迫って来るんだもん!!」 


 わたしだって、朝になってこの日がアディートの誕生日だと聞いて、びっくりしたのだ。

 何かお祝いをしてあげたい、でも何をしたらいいのかわからない。

 そう思っておろおろしていたわたしに、いつもは淡々とした表情のサラさんが、珍しくも綺麗な笑顔をわたしに見せて、優しく言ったのだ。


 わたくしがお手伝いいたしますから、大丈夫ですわ、と。


 最初は何のことだか分からなかったんだけど、いつもより数段生き生きとした表情のサラさんがわたしに見せたのは、色とりどりのドレスの数々。

 ……それを着てアディートを出迎えろ、というのはまぁ、分かった。納得はしなかったけど、理解はした。

 でも、20着以上あったドレスの中で、何故かサラさんがわたしに勧めてきたのは、肩と背中と胸元がぱっくり開いた、淡いピンク色のドレスだった。


 たくさんのレースとフリルのついた、『お姫様』という感じのドレスなんだけど、よくよく見たら……なんというか、実にきわどいデザインだった。

 なんだろう……。すっごく可愛いんだけど、なんとなく『エロい』ドレス。

 スカート部分の丈は背中側は長いのに、前に向かってだんだんと短くなっていって、前面は何故か太腿が見える長さだし、肩と背中と胸元がばっちり開いている。可愛らしいフリルやレースがたっぷり付いているだけに、余計に卑猥に見える、そんなドレスだ。

 おまけに殿下はドレス一着一着の付属品も、全て用意したらしい。その淡い桃色のドレスに合った、ヒールの高い華奢な靴、花柄のレースのストッキング(しかもガータータイプ)、首元や髪を飾る宝石を散りばめたリボンや花の飾り。


 とっても高級そうなそれらの品々を見て、この世界に飛ばされるときには全くの無反応だったわたしの本能が、「何か」が危ないと大声で叫んだため、わたしは必死にサラさんの魔の手から逃げまくっていたのだ。


「……お前は『それ』をハルカに着せたいのか?」


 サラさんの持っているドレスを見て、複雑そうな顔で問うアディートに、サラさんはにっこりと笑って言った。


「アディート様は、この素敵なドレスをお召しになったハルカ様を今日一日、独占したくはありませんか? 殿下が今日はアディート様とハルカ様は『休日』扱いにするので、お2人で≪好きに過ごせ≫とおっしゃっていましたよ?」


 何、それ。今日1日、そんな恥ずかしい格好をして、アディートといなくちゃいけないの?

 泣きそうになってアディートを見上げると、アディートは端整な顔を歪めて、何かをブツブツ呟きながら、視線を宙に彷徨わせていた。

 何かを迷っているその態度に、普段はあまり表情を変えないサラさんは、えらくにこにこしたまま言葉を続けた。


「ああ、そういえば。殿下は、こうもおっしゃっていましたわ。 

 『まぁ、涙を流して喜んでハルカを受け取りはするだろうが、アディートは≪騎士の中の騎士≫だから≪絶対に大丈夫≫だろうよ』……と」


 その言葉を聞いた瞬間、どういうわけだか、ピクリとアディートのこめかみが引き攣ったのを、わたしは見た。

 アディートは何ともいえない表情をして、暫くの間サラさんを睨んでいたけど、結局、


「……親愛なる主君であり、無二の友である殿下の好意を、私が無碍に扱うわけにはいきませんね」


 何かを吹っ切った笑顔で、わたしにサラさんの手中にあるドレスを着るように「お願い」してきた。


 アディートの笑顔に弱いわたしに、彼の笑顔の「お願い」を断れるはずがない。

 わたしはその日、とっても上機嫌なアディートの隣で死ぬほど恥ずかしい思いをしながら、色々と危ない感じのドレスを着て2人きりで過ごしたのだった。

 ちなみにわたし付きの侍女であるはずのサラさんは、わたしを2時間ほどかけて着飾らせて、やけに満足そうな笑顔をしてさっさと自分の部屋に下がっていった。……ちょっぴり恨めしかった。


 アディートに必死に頼み込んで、その日は何処にも出かけず、一日中わたしの部屋にいたんだけど、なんていうか……アディートは、本当に上機嫌だった。でも、「後で殿下にはきっちり報復……いや、お礼をしなくてはいけないな」と言っていた。とっても綺麗な、優しい笑顔で。……ちょっと怖かったな、あの笑顔……。


「こういう風に、誰かに『誕生日』を祝ってもらったのは、実は初めてなんだ」

 

 アディートは苦笑して、そんなことを言った。

 あの日は、わたしとアディートが想いを通わせた後だった。わたしが自殺をしかけたあの夜以来、アディートは2人きりのときにだけ、わたしに対する敬語をやめてくれるようになったのだ。 


「今までは、誕生日なんて無意味なものだと思っていたんだが……。案外、嬉しいものだな」

  

 そう言ったアディートは、本当に嬉しそうだった。

 だからわたしは、「これから毎年、わたしがお祝いしてあげるよ」と言ったのだ。

 アディートは、微笑んでわたしを抱きしめた。

 あの時少しだけ、微笑んでいるはずのアディートが泣いているように思えたのは、どうしてだろう。

 

 アディートに「家族」といえる存在がいないことを彼の口から聞いたのは、その日から少し経ってからのことだった。 



***********************************



 アディートは、とても貧しい場所で生まれ育ったのだと言っていた。


 もう2度と故郷――日本に帰れないわたしは、1度だけ、アディートの故郷に行ってみたいと言ったことがある。

 でも、アディートはそれを聞いて、とても怖い顔をして「駄目だ」と言った。「あんな場所はハルカが行くようなところではない」と言って、それからすぐに顔を歪めてわたしに謝罪した。もう2度と家族の元に帰れないとわかった後でも、わたしが故郷のことを忘れられないでいることを知っていたから。

 わたしはアディートの謝罪に慌てて首を振って、彼に謝った。

 わたしの方がアディートに対して無神経なことを言ってしまった、そう思ったから。


 アディートは、わたしの小さい頃の話をよく聞きたがった。

 向こうの世界――地球の話を聞きたい、というよりも、わたしがどんな風に育ったのかが気になっていたようだった。わたしに家族のことを思い出させるのはできるだけ避けたいようだったけど、彼はわたしの小さい頃の、他愛もない話の数々を聞いては、とても優しく微笑んでいた。

 でも、アディートは絶対に、わたしに自分の小さかった頃の話をしてくれなかった。アディートの生まれ故郷のことも、ほとんど教えてくれなかった。


 地球の中では、平和な国である日本。

 そこで安穏と生きてきたわたしと、そうではなかったアディートとの違いは、こういうときに浮き彫りになった。

 

 アディートは、自分の故郷のことが大嫌いだった。嫌い、というより嫌悪とか、憎悪に近かった。

 彼が自分から故郷の話をしたのは、殿下がアディートの名前について教えてくれたときと、殿下と出会ったときのことをわたしに教えてくれたときくらいで、あとはいつも笑顔で話をはぐらかされてしまった。

 だから、わたしもすぐに、アディートの生まれ故郷のことは『触れてはいけないこと』なんだと理解した。

 理解はしたけど、でも、少しだけ寂しかった。

 アディートは、自分の生まれ故郷のことが本当に嫌いで、その辛い記憶を、絶対にわたしに教えてくれなかったから。


「ハルカが謝ることはないよ。あの場所は……私があの場所で生まれて、そして育った、ということを、あまり思い出したくないんだ。私が自分の名前を嫌いなのは、恥ずかしいのもあるが……故郷のことを、思い出すからなんだ。あまり、いい思い出がないから」

 

 そう言って苦笑するアディートは、優しかった。わたしの無神経な発言を、全然責めなかった。

 でも、わたしにはその優しさが辛かった。

 わたしとアディートは生まれも育ちも全然違うんだから、アディートが自分の知られたくない事情をわたしに隠したがるのは仕方のないことだ。それは、ちゃんとわかってる。でも、アディートの苦しみがわたしには絶対に理解できない、そう拒絶されているようで、少しだけ寂しかったんだ。


 

 「家族」がいない、という話をしてくれたとき、アディートは殿下と初めて出会ったときのことを教えてくれた。


 殿下はその日、アディートの住んでいた地区を視察に訪れていたらしい。

 当時の殿下は14歳で、今よりも中性的な雰囲気だったのだそうだ。今の殿下は確かにすっごく綺麗だけど、見た目はしっかりとした「男」だ。でも、その当時の殿下は、ぱっと見では男か女かよく分からない雰囲気だったそうだ。


 殿下は昔から立派に公務をこなしていたんだけど、その当時から既に護衛の騎士を巻いて、1人でフラフラするのが好きだったそうだ。アディートが殿下と初めて出会ったときも、殿下は護衛の騎士たちを巻いて、1人でいたらしい。アディートが住んでいた地域はあんまり治安がよくなかったから、1人で道を歩いている、とっても綺麗な殿下を見て、アディートは驚いたそうだ。

 

 ……殿下って、本当に立派で有能で、皆に慕われてるのに、たまにとっても意地悪だし、ちょっと変人だからなぁ。アディートも、びっくりするよなぁ。


 アディートはその頃、毎日の貧しくて苦しい生活に疲れきっていて、自分が今、どうして生きているのかもわからない状態だったらしい。

 自分が生きているのか、それとももう死んでいるのか。その境界線が曖昧になっていて、常に無気力だった当時のアディート。そんな彼に再び生きる力を与えたのが、2人が初めて会った時に殿下がアディートに言った「ある言葉」なんだそうだ。


 ……その言葉を、アディートはどうしてもわたしに教えてくれなかった。


 殿下と私の秘密なんだ。

 当時はそうでもなかったけれど、今考えると、情けないし恥ずかしいから。 


 そう言って、アディートはむくれるわたしを宥めたんだ。



 綺麗で頭が良くて有能で、たまにとっても意地悪でちょっと変人な殿下のことが、アディートは本当に大好きだった。アディートは、殿下の妙な遊びに巻き込まれたり、わたしが殿下にからかわれて真っ赤になったときには、よく殿下のことを叱りつけたりしていた。でも、2人とも、そういった触れ合いが本当に楽しそうだった。


 殿下にとってアディートは、かけがえのない臣下であり、親友だった。

 アディートにとっても、殿下はかけがえのない主君であり、親友だった。

 

 ……だからアディートは、自分の身を挺して、殿下を守ったんだ。


 早く帰って来てねって、約束したのに。

 怪我しないでねって。殿下とあんまり仲良くしちゃ駄目だよって。

 わたしがあの日そう言ったら、笑って頷いてくれたのに。


 アディートはまだ、わたしの元に帰って来てくれない。

 彼はもう、死んでしまったから。

 この世界に来てからずっと、当たり前のようにわたしの側にいたあの人は、わたしのこの世界での支えになりたいと、そう言ってくれたあの人は――もう、何処にもいないんだ。

 わかっているのに、わからない。

 理解しているはずなのに、理解できない。

 どうしてあの人が、もう、この世界にいないんだろう。

 どうしてこの世界の人間ではないわたしが、まだ、この世界にいるのだろう。

 わたしが今、この世界にいる意味は、一体なんなのだろう。 

 


 殿下がわたしの左手を取って、薬指に嵌めている指輪を、手袋を嵌めている指先でそっと撫でた。

 わたしが殿下を見ると、彼は綺麗な翡翠の瞳を細めて、「『アディート』の花か」と呟いた。


「……この花は、アディートそのものだな。どんなときも、お前のそばにいる」


 静かな声だった。

 どんな感情がそこに篭められているのか、わたしには、よくわからなかった。


 ――ああ、殿下の言葉がようやく聞き取れるようになった。


 わたしは殿下の手のひらの上にある、自分の左手を見つめた。

 金の指輪は何も語らない。

 『アディート』の花が存在していても、この指輪はアディートではないのだから。

 ただ、わたしのそばにいてくれるだけ。

 それだけだ。


「私とアディートが初めて会ったときも、この花が道端に咲いていた。アディートと初めて会ったのは、暗くて汚らしい場所だったがな。……それでも、この小さな青い花とアディートだけは、美しかった。名前のことで何回もあいつをからかってやったが……。本当に、この花はアディートそのものだな」


 殿下がわたしの左手を解放して、それからわたしの頬を優しく撫でた。

 

 ――悲しそうだな。


 殿下は、とても悲しそうだった。

 でも、わたしには、殿下になんて言葉をかけたらいいのかわからなかった。

 だから、彼に何も言えなかった。


 アディートの胸に剣を突き立てて、まだかろうじて動いていた彼の心臓を止めたのは、殿下なんだ。

 アディートは殿下に剣を突き立てられたとき、何故か、微笑んでいたそうだ。

 ……アディートのそんな顔を見て、殿下はどんな気持ちだったのだろう。彼の胸に剣を突き立てたとき、殿下は何を考えていたのだろう。

 

 知りたかったけれど、知りたくなかった。

 

 まだ、アディートはわたしの元に帰ってこない。

 だって、アディートは死んでしまったのだから。

 

 それでもわたしの心はまだ、彼の帰りを待ち続けている。

 わたしの左手の薬指。そこに嵌められた金の指輪。

 そこで静かに咲きつづけている、何も語らない『アディート』の花と共に。



 語る人のいなくなってしまった、その花の名の意味。

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