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その花の名(1)

「『アディート』も『ルクス』もお花の名前なんでしょ? 殿下が教えてくれたよ。

 なんか、可愛くっていいね」


 いつだったか、そんなことをアディートに言ったことがある。

 

 アディートが作ってくれた単語表を見ながら、意味と綴りを必死に覚えているわたしに、政務の合間を縫ってひょっこりやって来た殿下が植物事典を片手に、そう教えてくれたのだ。


 殿下が見せてくれた、植物事典。

 そこには、写真みたいに鮮明で綺麗な色々な植物の写生画と、その下にびっしりと細かい文字で、その植物ひとつひとつについての説明が書かれていた。説明文の文章は、そのときのわたしには残念ながら全くわからなかった。でも、殿下がふたつの花を指で示してわたしに教えてくれたんだ。


 涙の雫のような形をした花弁。それが16枚合わさった、小さな、青い可憐な花。

 大振りのハート形の花弁。それが8枚合わさった、真っ赤な色の綺麗な花。


 青い花の名前が『アディート』、赤い花の名前が『ルクス』。

 『アディート・ルクス』――アディートは、花の名前をもつ人だった。


 植物事典の文章の中にある他の単語は全然分からなかったけど、『アディート』と『ルクス』という2つの単語だけは読み取れたから、わたしは嬉しくて、アディートにそんなことを言ったんだ。

 今から思えば、年上の立派な男性、しかも騎士である人の名前を「可愛い」なんて褒めるのは、すごく失礼なことだった。でも、そのときのわたしは、アディートの名前を難解な文章の中から見つけることができて、ちょっと浮かれていたのだ。

 

 アディートはわたしの言葉に、呆気に取られたような顔をして押し黙った。そして数瞬の後、彼はわたしの顔を見て――まるで花が綻ぶように、優しく、綺麗に笑った。彼は本当に嬉しそうな顔で、わたしに笑いかけたんだ。


「そうですか? 私のような男が花の名前なんて、似合わないでしょう?」

「ううん! そんなことないよ!」

「ハルカにそう言われると、嬉しいですね」


 ありがとうございます、と言って笑う彼に、わたしはとっても嬉しくなって、幸せな気持ちになったのだけど。

 その様子を見ていた殿下が人の悪い笑みを浮かべて、植物事典の『アディート』の花の頁を開いたまま、「知っているか? ハルカ」と言ってきた。


「『ルクス』は春になったら王都のそこら中に咲く花でな。年頃の娘が髪飾りにしたり、花冠を作るのに使ったりするんだ。それでな? この『アディート』という花はな――」

「私の生まれ育った場所に咲いていた花なのですよ、ハルカ」


 殿下の言葉を爽やかな笑顔で無理矢理遮って、アディートが言った。

 そして、彼はその笑顔のまま丸めた書類の束で容赦なく殿下の頭を叩いた。

 スパーン、といい音がして、わたしはびっくりして彼らを見つめた。アディートが殿下を言葉ではなく行動で叱り付けるのは、とっても珍しいことだったから。


「アディート、お前な……。私がせっかく、ハルカの知識を増やしてやろうとしているのに」 

「余計なお世話です、殿下。私の名前の花の話ですからね、私がハルカに話しますよ。あなたは何もおっしゃらなくてよろしい。さあ、いい加減、執務室に戻ってください。最近あなたの休憩時間が長すぎると、補佐官たちが嘆いていましたよ」


 つまらなさそうな顔の殿下を部屋の外へと押しやって、それからアディートはわたしに向き直ると、またにっこりと笑ってくれた。


「助かりましたよ、ハルカ」

「え?」

「こんな体格のいい男が花の名前なんて、恥ずかしいでしょう? いつも殿下にからかわれて、困っていたんですよ。私もあまり、自分の名前が好きではなかったんです。でも、ハルカが褒めてくれたので、少し自分の名前が好きになりました。これで、次から殿下にからかわれても、うまくあしらうことができそうです」


 アディートの言葉と、彼の心の底からほっとしたような表情に、わたしはなんだか可笑しくなって、声をあげて笑ってしまった。

 殿下は時々とっても意地悪だから、生真面目な性格のアディートは、反応に困るのだろう。

 そんなことを思って笑うわたしを、アディートは少し不思議そうな顔で見つめていた。


 ああ、『アディート』の花について。

 アディートに、たくさん話を聞いておけばよかった。


 わたしの指輪に彫られた花の名前。アディートの耳飾りに彫られた花の名前。

 『アディート』――アディートの生まれ育った場所に咲いていたという、小さな青い、可憐な花。


 以前、アディートにもらった栞には、その花が押し花にされていた。

 王都にある雑貨屋で売っていたのだと、そう言っていた。

 自分と同じ名前の花ですから、少し恥ずかしいのですが。

 照れくさそうにそう言って、わたしにくれたのだ。

 あの栞は、どこにやったのだろう。

 大切に使っていたはずなのに、思い出せない。


 アディートに、話を聞きたかった。

 殿下が話すのを彼が無理矢理遮った、『アディート』についての話。

 今なら自分で調べることもできるけれど、でも、アディートの口から直接教えてほしかった。

 アディートが、殿下が話すことすら嫌がった話だったから。

 困った顔をしながら、わたしに教えてほしかった。



 アディートと、もっとたくさん話をすればよかった。

 わたしはアディートについて、知らないことがまだまだたくさんあるんだ。

 何人くらい恋人がいたのか、とか。

 殿下が初恋の相手だっていう噂は本当なのか、とか。

 どんな食べ物が好きで、どんな色の服が好きなのか、とか。

 殿下とわたし、どっちが大事なのか――これはあんまり聞きたくないかも。でも、知りたい。

 

 知りたいんだよ、アディート。あなたのことを、もっとたくさん知りたい。

 これからゆっくり時間をかけて、あなたのことをたくさん知っていければいい、なんて。

 そんなことを思っていたけど。

  

 アディートと、話がしたい。 

 彼のことをもっと知りたい。  

 わたしのことを、もっと知ってほしい。 


 でも、アディートがまだ、わたしの元へ帰って来てくれないんだ。



***********************************



 アディートが死んで、3週間が過ぎた。

 わたしにそう教えてくれたのは、殿下だった。

 この国では、1週間は7日間。そして1か月は、5週間だ。

 あっという間の3週間だった。そしてきっと、あっという間に残りの2週間が過ぎていく。


 殿下はアディートの葬儀の日から毎日、わたしの部屋を訪れては話をして行く。

 忙しいはずなのに、殿下は絶対にそれを止めようとしない。

 一度だけ、「もう来なくていい」と言ったら、とても悲しそうな顔をされてしまった。

 以来、わたしは彼の訪問を強く拒否できずにいる。


「ハルカ。今日、ようやく全員、事件の首謀者を地下牢に放り込んでやった。関係者も、全員捕縛して騎士団内の監獄に収容している。まだ、処刑までには時間がかかるが……」 


 処刑。

 処刑されるのか。


 この国には、日本と同じように、死刑がある。

 絞首刑もあるけど、ほとんどは斬首刑だ。でも、重大な罪の場合は、もっと惨たらしい処刑方法があるらしい。

 この国は中世ヨーロッパによく似た国だけど、処刑は一般には公開されないそうだ。

 血と争いを嫌う光の神殿――その本殿が王都にあるから、王都内では公開処刑は行われないらしい。ただし、よっぽど重大な罪を犯した人の処刑後の遺体は、死刑囚専用の墓地に晒し者にされるそうだ。

 

 今回の事件は、殿下の命を狙ったものだった。

 次期国王である王太子の暗殺未遂事件――ということなら当然、罪は重いのだろう。

 事件の首謀者だけではなく、実行犯である、騎士団の裏切り者たち。生きたまま捕らえられた彼らも、処刑されるのだろうか。

 殿下を庇ったアディートを殺した人。その人は、アディートに利き腕を切り落とされたけど、生きたまま捕らえられたと聞いた。

 その人も、処刑されるのだろうか。


 ぼんやりと殿下の言葉を聞いていたら、ふいに殿下の綺麗な翡翠の瞳がすっと細まった。

 そして、殿下はわたしの髪を撫でていた右手を止めて、扉の方へと向かった。

 殿下が開けた扉の先には、突然開いた扉に驚いた顔をした、わたし付きの侍女であるサラさんと、1人の騎士が立っていた。


 殿下はサラさんを下がらせて、騎士の人だけを部屋の中に入れた。

 騎士の人は、長椅子に座ってぼんやりしているわたしを気にしていたけど、殿下に声をかけられて慌てて彼の方を向いた。


「どうした? よほどの事がなければ呼びに来るなと言っておいたはずだが?」

「はっ。囚人、リュミシス・ロテク・レガイアが逃亡を図りました。地下牢の階段の途中で巡回に来た騎士が捕らえましたが、牢番が4人、リュミシス・ロテク・レガイアの魔法で怪我を負わされました」

「……何だと? 奴の牢は魔法使い用のものだろう? 魔法封じの結界の他に、専用の枷もつけていたはずだが?」

「それが……。その、先ほど、巫女姫様がリュミシス・ロテク・レガイアに面会に来られたのですが、その際に、巫女姫様の力によって封じの魔法が解かれたようで……」

「レスティアナが? 私は、あれには奴らを会わせるなと、そう厳命したはずだが?」


 わたしは、ぼんやりと2人の会話を聞いていた。

 言っている内容は聞こえる。でも、意味はよくわからない。

 ただ、わたしの座っている位置から見える殿下の後姿が、とても怒っていることだけは感じ取れた。


「はっ……。そ、そうなのですが、その……。巫女姫様に『神のお告げがあった』と言われまして……」

「――馬鹿者が」


 刃のように鋭く低い殿下の声に、騎士の人がびくりと震えた。

 わたしには殿下の顔は全然見えないけど、騎士の人の血の気の失せた強張った顔と、殿下の放つ冷たいオーラによって、殿下が物凄く怒っていることがわかった。

 殿下は黙って無表情でいたら、ちょっと怖いくらいに綺麗な男だ。そういう人の怒った顔って、きっと、凄く恐ろしげなものになっているんだろう。

 殿下は苛立ったように片手で長い金色の髪を掻きあげて、「それで?」と続きを促した。


「はっ。リュミシス・ロテク・レガイアは、現在再び拘束中です。別の魔法使い用の牢にて新たに枷を嵌めています。逃走した囚人に科される罰を行う許可を、殿下から頂きたいのですが……」

「構わん、存分にやれ。必要な書類は私の執務室に回しておけ。

 ……それで、レスティアナはどうした?」

「巫女姫様は、牢番の怪我に大層驚かれまして、怯えてしまわれて……。

 現在、殿下の執務室にて、殿下をお待ちになっております」

「……なんだと?」


 殿下の声が、今まで聞いたことがないほど、冷たいものになった。


 ……変なの。怯えている妹が兄に会いたがるのが、いけないのかな。

 殿下、レスティアナ様には、とっても甘いくせに。


「馬鹿者!! レスティアナを即刻神殿に帰らせろ!!」

「で、ですが、巫女姫様は大層お顔の色が悪く……。で、殿下にどうしてもお会いしたいと……」

「ならば私が後から会いに行くと、そう伝えろ!!

 神殿の者を私の執務室に入れるなど、貴様ら、何を考えているのだ!!」

「は、はっ……。も、申し訳ありません……。で、ですが…」

「――もうよい!詳細は後で聞く、それよりもさっさとレスティアナを神殿に連れて行け!!」


 殿下の凄まじい怒声に、騎士の人は完全に血の気の引いた顔で「わかりました!」と叫んで慌てて礼をした後、足早に去っていった。

 殿下は苛立ったように髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き乱した後、わたしの座る長椅子へと戻ってきて、うんざりとした溜息をついた。

 

 ……なんで、レスティアナ様を追い返すんだろう。

 それに、レスティアナ様が魔法封じを解いたって、どういうことなんだろう。


 ぼんやりとそんなことを思っていたら、殿下が適当に手櫛で乱れた髪を整えて、それからわたしを見て苦笑した。「驚かせたな」と言って、また綺麗な白い手袋を嵌めた手で、わたしの髪を優しく撫でて、何かを話し始めた。


 ――ああ、まただ。


 わたしはアディートの死を殿下に聞かされてから、時々殿下の言っていることがわからなくなる。

 それでも、前よりはその回数も減ってきたんだけど。

 殿下の話す内容はわかっても、その意味がどういうことなのか、わからないことは多い。

 でも、こういうときには、わたしは殿下の口から流れ出る言葉すら、よくわからなくなってしまうのだ。

 

 殿下が今、わたしに向かって何を言っているのかわからない。 

 言葉を言葉として認識できず、ただ彼の心地よい声だけが耳に流れ込んでくる。

 わたしは殿下に、曖昧な顔を向けることしかできない。

 

 だからわたしはそういうとき、視線を殿下から外して、自分の左手の薬指に向ける。

 アディートがわたしにくれた、金の指輪。

 わたしとアディートの、非公式な結婚の証。


 精緻な花の細工を、そっと右手の人差し指でなぞる。

 『アディート』の花。

 彼はどんな顔をして、この指輪を買ってきたのだろう。

 恥ずかしかったのかな。こういう宝飾品を買うアディートが上手く想像できない。


 殿下はわたしが視線を外しても、怒らないで優しく髪を撫で続ける。

 声を荒げず、からかうこともしない。

 ただ、優しい声で何かを話している。


 わたしはまだ、殿下にうまく、反応が返せないでいる。


 彼は、花の名前をもつ人だった。

 でも、その花の名前がもつ意味を、彼女は知らなかった。

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