憧憬(3)
「ハルカ……。あの、何をしているのですか?」
「文字を書く練習をしてるの」
「はぁ……。ですが、今日は絵本を読んで単語を覚える日ですよ?
書き取り練習は自室でしているのでは?」
「人に見せるのが、上達の秘訣なんだって」
ある日、彼女はとても真剣な顔で、1枚の紙――そこに書いた文字を、僕ら3人に見せてきた。
…………読めなかった。3人で頑張ったけど、無理だった。読解不可能な文字だった。
多分こうかなぁ、と思って「『ダウラキフ』ですか?」と聞いたら、とても悲愴な顔をされてしまった。無言で落ち込む彼女に慌てた僕らを視線だけで宥めて、あの騎士は優しく彼女に声をかけた。
「ハルカ、何という言葉を書いたのですか?」
「…………アディートもわからないんだ…………」
「申し訳ありません。ですが、何を書いたのか分かったら、どこが間違っているのか教えることができますから。私にハルカが何を書いたのか、教えてくれませんか?」
彼の優しい笑みにちょっと安心したのか、彼女はもじもじと恥ずかしそうにしながら答えた。
「『エルリアス』」
「…………は?」
「だからね。『エルリアス』って書いたの」
「……王太子殿下のお名前、ですか?」
「うん。殿下、酷いんだよ。わたしの書いた文字より、3歳児の書いた文字の方が読みやすいって言って笑うんだ。だから、そんなことないって言ったら、じゃあわたしが書いた文字を他の人に見せてみろって言われたの。絶対誰にもわからないからって。それに、人に見せるのが上達の秘訣だから、どんどんアディート以外の人に見てもらえって。……わたしの文字は、そうでもしないと一生変なままだって言われたから……」
確かに、一文字もあってるように見えない。というか、文字にも見えないな、これ。何かの図柄か、記号に見えるな。下手というより、まさしく「変」な文字だ。王太子殿下、言い方は酷いけど、言ってる内容は正しいかな。
そんなことを思いながら、僕らは無言で騎士を見つめた。
彼は、頭痛をこらえるように顔を顰めて頭に片手をあてて、小さな声で「あの人は……」と何やらブツブツ言っていたが、やがて顔をあげて、しょんぼりしている彼女に優しく微笑みかけた。
「王太子殿下のおっしゃることを気にする必要はありませんよ、ハルカ。文字は書いている内に上手になりますからね。殿下は、ハルカのことをからかって遊んでいるだけですよ」
「……そうかなぁ……」
「そうですよ。だから、もう落ち込まないでください」
「うん……」
「そんなに気になるのでしたら、今日は書き取りの練習をしましょう。大丈夫、すぐに殿下を見返せるようになりますからね」
「……うん!」
ありがとう、アディート。
そう言って笑う彼女と、彼女に微笑み返す騎士。
僕らはそれを、優しく見守った。
……ハルカ様の独特すぎる文字は、さすがのアディート様でも、すぐには矯正するの、難しいんじゃないかな、と思ったけど。それに、大陸中の国々の言語を自在に操り、しかも達筆なことで有名な王太子殿下を見返すには、それこそ物凄い努力がいるんじゃないのかな、とも思ったけど。
でも、時間はたっぷりあるのだし、10年くらいの長い目で見れば、きっと何とかなるだろう、と思った。
結局その日は、アディート様はハルカ様の文字を矯正することができないまま、2人は王城へと帰っていった。
でも、まだまだ時間はあるのだから、大丈夫なはずだった。
明日でも、1年後でも、10年後でも。
2人の時間は、まだまだたっぷり、あるはずだったのだから。
アディート様が死んで、ハルカ様の文字を根気強く解読して指導する人は、いなくなってしまった。
彼女に優しく言葉を教え、この国についての知識を与え、そして彼女を支え、守り続ける人。
彼女の絶対の信頼を得ることのできる人。
一体誰が、アディート様の代わりになれると言うのだろう。
この国は大国で、たくんさんの人が暮らしているはずなのに。
僕には、たった1人の人間の代わりとなれる存在がいないことが、ひどく悔しくて、悲しかった。
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僕は、夕日に照らされた道を歩いていった。
神殿の裏にある、広大な丘。そこは、身寄りのない騎士や、神殿に仕える者たち専用の墓地だ。
平民には平民専用の墓地があり、家族のいる騎士はその家の墓石がある墓地に葬られる。貴族は領地に一族の墓地が、王族は王城の敷地内に王家専用の霊廟がある。
「家」を捨て、それまでの人生で得た縁を全て捨てなければ、神官や巫女にはなれない。
そして、神官や巫女は光の神に生涯を捧げるため、一生独身でいなくてはならない。
僕ら神官たちにとっての「家族」とは、同じ神官や巫女、そして光の神を信じる国民全てなのだ。
僕が片手に持っている絵本。
小さな青い花の押し花の栞が挟まれたそれは、ハルカ様とアディート様が読んでいる途中だった本だ。
最初の頃は、ほとんど絵しかないような絵本ばかりを読んでいたハルカ様も、日が経つにつれて、たくさんの文字が書かれた絵本を読むようになっていった。……まだ、「書物」を読むには至らないけれど。
僕が最後にハルカ様とアディート様の姿を見たのは、アディート様が討伐に行かれる一週間前だ。
あの資料室で、ハルカ様はこの絵本を途中まで読んでいた。でも、時間がきたから帰ったのだ。
夕刻、6の時を知らせる王城の鐘が鳴ったら、2人はいつも王城へと帰っていった。
僕らに挨拶して、仲良く王城へ帰っていった。
僕はあの日から、まだ一度もハルカ様の姿を見ていない。
僕は、今日は花束の代わりに、この読みかけの絵本をアディート様の墓石に捧げよう、と思った。
ハルカ様は葬儀の日以来、まだ一度もアディート様の名が刻まれた墓石の元へと行っていないらしい。
だから、この絵本を彼に捧げよう、と思った。
人は死んだら、その命は目には見えない小さな光となって、光の神の御許へ行く、長い長い旅をする。その旅は、たった1人きりの、とても寂しい旅なのだ。
その孤独な旅の過程で小さな光を慰めるのが、その光の名が刻まれた墓石に添えられた花や思い出の品、そして遺された者が死者に捧げる、旅の安寧を祈る言葉だ。
アディート様であった小さな光が今、何処にいるのかはわからない。
けれど、彼はハルカ様の声が聞こえず、寂しく思っているのではないのだろうか。
だから、僕はアディート様をハルカ様の思い出のつまったこの絵本を、彼の名が刻まれた墓石に捧げようと思ったのだ。
アディート様が寂しくないように。
神官や巫女たちの墓石のある場所を抜けて、騎士たちの墓地にやって来たとき。
僕は、アディート様の名が刻まれた墓石の前で、信じられない方と遭遇した。
「……お、王太子殿下……?」
夕日を背にして僕と向き合ったその方は、紛れもなく王太子殿下だった。
背中の中ほどまである、無造作に流した真っ直ぐな濃い金の髪。強い意思の宿る翡翠の双眸。
神々しいまでの美貌をもつ王太子殿下が、その美しい目を軽く見開いて、僕を見ていた。
――そして、彼が両腕で抱き上げていた、その方は。
「……ハルカ、様……?」
僕の記憶にある顔よりも、幾分か頬のこけたハルカ様が、王太子殿下の両腕に抱かれていた。
彼女の顔色は、青白かった。きっとあまり眠れていないのだろう、目の下には隈があった。
ハルカ様は眠っているのか、目を閉じて力の抜けた状態で、王太子殿下の腕に抱き上げられていた。
夕日に照らされた広大な墓地には、僕と王太子殿下、そして彼の腕の中にいる、意識のない状態のハルカ様しかいなかった。
「……神官、か。……ああ、そうだ……。確か、ジュイの『教え子』だったな?」
記憶を探るように暫し空中に視線を彷徨わせた王太子殿下は、再び僕に視線を合わせて、そうおっしゃった。
神殿の内部では、たとえ実際には上司と部下という関係であろうとも、自分の直属となる高位の神官や巫女は上司ではなく「師」、その下につく存在は部下ではなく「教え子」という名称で呼ばれる。
僕は確かにジュイ様の部下……いや、教え子として王太子殿下にご挨拶したことはあるものの、それは他に40人近くいるジュイ様の教え子と一緒にしたものだった。それなのに、彼はきちんと僕の顔を覚えていたらしい。
「は、はい。マルスと申します」
「そうか。マルス……。ああ、お前が資料室の管理をしている神官の『マルス』か」
僕はまさか、王太子殿下に自分の役職まで知られているとは思わなくて、驚いて彼を見つめた。
王太子殿下はどこか人の悪い笑みを浮かべて、僕の方を見た。
「『ダウラキフ』」
「はっ?」
「ハルカが書いた私の『エルリアス』という名前を『ダウラキフ』と読んだのだろう?」
「えっ……」
「あの日は神殿から帰ってきたアディートに『ハルカをからかうのもいい加減にしてください』と散々叱られたからな。よく覚えている」
「は、はぁ……」
くつくつと喉を鳴らして笑う王太子殿下に、僕は引き攣った笑みを返した。
懐かしい……。それはもう、2年くらい前のことだ。
しかし、アディート様……。殿下に話したんですね、僕のこと。
でも、あの文字はどう頑張っても、「文字」として考えたら、そうとしか読めなかったのだ。
記号とか、図柄として考えたら、また別の解釈ができたのだけれど。
「しかしお前、あんな意味不明で理解不能な変な文字を、よく読めたな。私も後でハルカが書いた『エルリアス』という文字を見たが、どう見てもあれは文字には見えなかったぞ?」
「い、いえ……」
「『これは何の記号だ?』と聞いたら、真っ赤になったハルカにめそめそ泣かれてしまってな。
そのせいで、余計にアディートに叱られた」
「はぁ……」
それは素直すぎる、あまりに残酷な質問だと思います、殿下。思っても決して言ってはならないことも、世の中にはあると思うのですが。
僕は引き攣った顔で笑いながら、なんで僕は恐れ多くも王太子殿下とこんなことを話しているんだろう、というか殿下あなたの護衛は何処ですか、などと混乱した頭で考えていた。
でも、王太子殿下は昔から護衛を巻いて1人でうろうろするのがお好きな方だったから、今回も護衛を巻いてきたのかもしれない。
そんな王太子殿下が唯一絶対に巻けなかった相手がアディート様で、彼は騎士団内や王城内で最も信頼されていた、殿下の優秀な捕獲係だった。
「全く、ハルカはよく泣くし、すぐに真っ赤になるからな。その度にアディートがあれやこれやと世話を焼いて、私のことは戯れが過ぎると叱りつけるし。護衛につけた最初の頃はそうでもなかったのに、アディートの奴め、いつの間にやらすっかりハルカに絆されおって」
苦笑する王太子殿下は、ご自分の両腕に抱えられたハルカ様を見つめた。
僕は、何とも言えずに彼とハルカ様を交互に見て――そして、ハルカ様の顔に、うっすらと涙の跡があることに気がついた。
思わず王太子殿下の顔を見ると、殿下はふっと長い睫を伏せられて、静かな声で呟いた。
「泣き虫のくせにな。――ハルカは今日、アディートが死んでから、初めて泣いたんだよ」
あまりに静かな声だった。
感情の読み取れないその声に、僕は困惑して、王太子殿下を見つめた。
殿下は僕の存在を忘れたかのように、独り言を呟くようにして、言葉を続けた。
「いつものように、隠れて1人で泣いているのかと思えばそうでもない。
……私は、ハルカにアディートの死を伝えたとき、一応かなりの覚悟をしていたのだがな?私はきっと、ハルカに責められて泣き叫ばれて、それを必死で宥めるのだと。ハルカにどんなに罵られても、私がそうしなければならないと、そう思っていたのにな。……なのに、泣きもしないんだ。
抜け殻のようになってしまって、私の言葉にも、レスティアナの言葉にも、何の反応も返さない。私のことを責めて罵って、恨めばいいのに、何もしてくれない。
……アディートが死んだことを理解してくれなくて、心底困った。ああ、理解はしていたのだろうな。だが、心が全く追いついていなかった。ハルカはアディートがもう帰ってこないことがわかっているくせに、毎日アディートのことを待って、そのためだけにこのひと月、ずっと生きていたんだよ。
泣きもしない、怒りもしないで、私の存在なんて、どんなに近くにいても丸きり無視だ。
――泣き叫んで罵られるより、辛かったな」
ふと、殿下が優しく微笑んだ。
そしてどこか、自嘲気味に呟いた。
「今日、無理矢理ここまでハルカを連れてきて、それでようやくハルカは泣いたよ。
――そこの墓石に刻まれた、アディートの名前を見てな。
ようやく私を見て、私の言葉を聞いてくれた。
泣きながら私を責めて、叩いて、それから何度も私に謝って、結局そのまま寝てしまった。
……私がきちんと気をつけていれば、アディートの他に死んだ騎士たち、それに重傷を負って騎士を辞めねばならぬ者たちも、そのような目に遭わなかったと言われたよ。
全くもって、その通りだな。今回の件では他の誰も私を責めないが、ハルカの言うとおりだ。私が油断していたな。馬鹿ではあるが一応王子、そして片親だけとはいえ、血の繋がった弟だ。私はアレらが、まさか今回のような愚かな真似をするとは思ってもみなかった。
――あの馬鹿どもはな。私を裏切った騎士や魔法使い、あれらの家族を人質にとって拷問にかけ、従わねば家族をそのまま殺すと脅して、彼らに私を襲わせたのだよ」
その言葉に、僕は呆然として王太子殿下を見つめた。
彼は、美しい翡翠の瞳に底知れぬ光を湛えて、僕を見返した。
「今はまだ、極秘にされているがな? 彼らの名誉のために、いずれ公表する事実だ。
私を裏切ったことに変わりはないが、そういう事情があったとわかれば、周囲の人間に彼らの縁者が酷い目に遭わされることもなかろうよ」
「……で、殿下……。もしかして、騎士団が発見した、暗殺未遂事件の首謀者である証拠というのは……」
「ああ。愚弟と呼ぶのも腹立たしい、あの3人の馬鹿王子の居城、王都の東にある離宮の地下で『全員分』、見つけたよ。あの裏切り者たち、彼らの家族の拷問され辱められた遺体だ。あとは、実行犯の部屋で見つかった脅迫に使われた部分だな。家族の遺体から切り取られ、彼らの元に送りつけられた遺体の一部分と暗殺の指示書、それといくつかの毒物だな。
……噂では私が直々に彼らを拷問したなどと言われているが、そんな事実は一切ない。彼らは拘束された瞬間に、自分の命乞いではなく、捕まっている家族の命乞いをしてきたのだから。そして、暗殺の指示書が入っていた封筒を、わざわざ渡してくれたよ。……茨と剣と盾、レガイア王国の金の紋印が入った封筒だ。王族が私的な文面を送る際にのみ使う、特殊な封筒だ」
予想通りの返答に、僕は眩暈がした。
騎士団の調査後、即座に王子らが拘束されたから、よほど直接的な証拠なのだろうと思ってはいたが。
まさか、敢えて王族が首謀者とわかる真似をしていたとは。そして、無関係な「家族」を人質にとって脅すなんて……そんな、汚い手を使っていただなんて。
――最低の奴らだ。本当に、最低だ。そんな奴らのせいで、たくさんの人が傷ついたのか。
そんな奴らのせいで、アディート様は命を落としたのか。
「指示書の内容は、いやに的確だったよ。全く、腹立たしいほどにな。
私を殺さねば、彼らの家族をこのまま殺す。もしもこのことを誰かに話したら、その時点でやはり家族は殺す。あの魔物討伐の遠征から帰ってきた日、あの日が期日だった。そう、あの日の、アディートが私の代わりに斬られた時刻。夕刻前のあの時間が、期限だった。4の刻を告げる鐘の音が鳴る前、それまでに殺せとあった。
馬鹿馬鹿しいが、的確な指示だったな。そう、精神的な弱点を上手く突いた指示だったよ。
暗殺の指示書が来たのは遠征の出発日の朝で、送りつけられた暗殺の実行犯たちは全て、大なり小なり私やアディートに反感を抱いていた保守派の騎士と魔法使い、その中でも家族が王都にいない者ばかりだ。家族の拉致と拷問の事実をすぐに真実か否か確かめられず、そして私を頼らない者ばかり。
……ああ、中には私がそれなりに信頼していた者もいたがな?
例えば、真っ先に私を殺そうとしてアディートに利き腕を切り落とされたクレイグ・スタンとかな。奴は貴族……伯爵家出の身分意識の強い、騎士団の保守派の代表格だったが、古参だったからな。30年も騎士をしている者を疑いもしていなかったよ。
全くもって腹立たしい。一応私に従いはしている者の中で、真には私に忠誠を誓っていない者。そして、自尊心が高いゆえに、絶対に私や他の者に脅迫について相談しそうにない者。更に、1人が実行すれば、後は脅迫されているのは自分ひとりだけではないと知って、指示通りの暗殺を躊躇わない弱さのある者。――そういう性格の者にだけ、暗殺の指示書が送りつけられていた」
苦々しく言って、殿下はきつく目を瞑り、何かに耐えるように口元を引き締めた。
僕は彼に何も言えず、ただ、呆然としていた。
殿下は、あまり身分に拘らない方だ。王族としては、とても珍しいほどに。
だから多くの人に慕われているが、その分、敵も多い。
この国は、身分による待遇の差が大きい。大陸にある他の国々よりはましな方だが、それでもやはり、平民は様々な場面で、貴族には勝てない。
実力主義を掲げている騎士団や、信仰心のある者は平等だと言っている僕が所属する神殿でさえ、そうなのだ。騎士団は政治にもある程度関わるから仕方がないとはいえ、神殿は、酷い。
本来なら神殿に入ってすぐに、光の神に一生を捧げる誓いを行う神官や巫女たち。「家」を捨てるはずの彼らですら、貴族出身の者は能力の高さに関わらず、最初から高い地位が与えられているのだ。
平民出身で能力の低い僕でも腹立たしいのだから、平民出身で彼らよりずっと能力が高いのに、貴族出身で能力の低い巫女や神官よりも下の位にある人たちは、もっと腹立たしいだろう。
そのような中で、王太子殿下とアディート様は、これまでの身分主義の流れを変えようと努力なされていた。地道なものではあるが、それは確実に大きな波紋となって、この国に浸透してきている。
現在、ほとんどの貴族が殿下を信頼し、従っているのもそのためだ。
アディート様や殿下のご活躍によって、この国は少しずつ変わってきている。
勿論、それをよく思わない者がいることも、わかってはいたけれど。
いつも堂々として、穏やかな笑みを絶やさない王太子殿下。美しく聡明で、優秀な方。
けれど、彼もまた、1人の人間なのだ。
裏切りにあえば傷つき、仲間の死に悲しみ、それを1人で抱えている。
それなのに、そんな彼を今までずっと支えてきたのであろう、1番の側近であり親友だったアディート様。そのアディート様が死ぬ原因となったのも、直接彼に止めを刺し、遺体を焼却したのも、王太子殿下その人なのだ。
僕は、何も言えなかった。
ただ、アディート様の死を初めて知った日、王太子殿下がアディート様を「殺した」と言ってしまったことに、ひどい罪悪感が募った。
キースやロージャの言ったとおりだ。殿下がどれほどアディート様の死を、他の多くの騎士たちの死を、嘆いて悔やんだことか。
その気持ちを全て押さえ込んで、王太子殿下はあの日からずっと、政務をこなしておられるのだ。
そして――そして。
王太子殿下。
あなたは、もしかして。
「……まだ、事件の処理には少し、時間がかかるがな。今日、ようやくひとつ、肩の荷が下りた」
そう言って、優しく微笑む、王太子殿下。優しく微笑んで……腕の中で眠り続ける彼女を見つめる、殿下。
その顔が、彼よりも背が高い、黒い髪と薄い青色の瞳をしたあの騎士の、彼女に向けられた優しい微笑みと重なった。
「ハルカだけが私を責めた。
……ようやく、ハルカが私を責めてくれた。ようやく、泣いてくれた。
これでいい。とりあえず、ハルカが抜け殻になって消えなくて済んだ。
私を無視するのを止めてくれるのなら、いくら責められてもいい。アディートの死で、永遠に私のことを恨んでくれて構わない。あのままハルカがこの世界からいなくなってしまうより、ずっといい」
僕は、黙って王太子殿下を見つめた。
……一体、いつから?
いつから彼は、こんな目で、彼女のことを見ていた?
アディート様は気がついていたのか?
だから、彼は王太子殿下に『友の手による最期』を頼んだのか?
アディート様は、彼女のことを――ハルカ様のことを、王太子殿下に託したのか?
僕は、何も言えなかった。
ただ、黙って王太子殿下を見つめていた。
殿下はふと顔を上げて僕を見て、小さく苦笑なさった。
「長話をしたな」と呟く彼に、僕は首を振って、それから震える声で言葉を紡いだ。
「今日のことは、誰にも言いません」
「……ああ。頼むよ。情けないところを見せたな」
「いいえ。……あの、殿下、この絵本を」
僕は、アディート様に捧げるつもりだった絵本を、王太子殿下に見せた。彼は不思議そうな顔をして、それを見つめた。
「それは?」
「この絵本……アディート様とハルカ様が、文字の勉強に使っていたものなんです。ハルカ様は、まだ、読み書きが十分ではありませんから。それで……この絵本はまだ、途中までしか読んでいないんです。アディート様が、この間の遠征に出られたときから、ずっと途中で止まったままになっているんです。でも、アディート様以外に、ハルカ様の、その……独特の文字を読んで直したり、単語を教えたりする方がいらっしゃらないなら」
僕は、自分で言っていて、何がなんだかわからなくなってきた。
そもそも、アディート様の真意もわからないのだ。
けれど、きっと王太子殿下は、ハルカ様のことが。
「分かった。私がハルカに続きを教える。すまないが、後で使いを寄越すから、それに渡してくれ」
言葉につまってしまった僕に、ふっと微笑んで、殿下がおっしゃった。
僕はただ、その言葉に頷いた。
もう、何も言えなかった。
夕暮れの中、大切そうにハルカ様を抱きかかえて去っていく王太子殿下を見送った後、僕はアディート様に祈りを捧げた。
果たして、僕のしたことがいいことだったのか、それとも悪いことだったのか。
それはまだ、分からない。
けれど、ハルカ様を必要としている人はたくさんいて、王太子殿下もその内の1人なのだ。
そして、彼ならば、ハルカ様を支えていけるかもしれない。
結局のところ、選択するのはハルカ様だ。どうなるかは、分からない。
ああ、でも。
僕は、ハルカ様がもう一度、笑っていてくれるのなら、それでいい。
できれば彼女の隣にはずっと、アディート様がいてほしかったのだけれど。でも、それはもう叶わないから。
神官は結婚できない。
それゆえに、恋もしない。してはならない。
だから、アディート様とハルカ様が笑いあっている光景は、僕にとって、憧れだった。
あんな風に、大切な人と優しく過ごす時間がある2人が羨ましく、眩しかった。
けれどそれはもう、失われてしまった。
アディート様はもういない。彼の未来は、もう、永遠に途絶えてしまった。
しかし、ハルカ様にはまだ、未来があるのだ。
どうか、もう一度。
ハルカ様があんな風に、幸せそうに笑えますように。
アディート様も、きっとそう望んでいるはずだ。
そうですよね?アディート様。
ハルカ様があんまり泣いていたら、心配で心配で、中々旅に出れませんよね。
そう思って、僕は完全に日が落ちてしまうまで、静かに祈りを捧げていた。
自分が得られぬものほど美しく、尊く見える。
2人はあまりに温かく、優しかった。だから、憧れた。




