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処断(1)


『お前は賢い子ね』


 そう言って頭を撫でてくれたのは……これは…………誰だ?

 白くほっそりとした手。長い指がしなやかに動く。

 艶やかに塗られた紅い爪が、子供心に美しいと思った。それよりも薄い色をした唇は、もっと美しいとも。

 柔らかに波打つ金色の髪。細められた瞳の色は、鮮やかな紫。照明に照らされた白皙の肌は穢れなく滑らかで――だが、何故か触れたいとは思わなかった。決して触れてはいけないと思わせる、そんな美しさだった。


『お前がいれば、きっとあの子も大丈夫ね』


 微笑む顔は優しさとは程遠い硬質な美しさを纏っており、けれど眩しいほどに輝いている。

 ほとんど常に寝台の上にあった、華奢な身体。しかし其処に宿るのは、儚さとはどこまでも無縁の強さ。

 強く聡明で、そして美しい人。

 ああ、これは……いや、この御方は……伯母上だ。私がまだ幼いときに亡くなられた、母の姉だった女性。生まれつき身体が弱い方だったが、それを補って余りあるほどに強靭な精神を宿していた……私にとって、世界で二番目に恐ろしい女性。


『お前はあの子と共に行きなさい。何事に対しても目を逸らさず耳を塞がず、常に貪欲であり続けなさい。見てはいけないとされるものを見、聞いてはいけないとされるものを聞きなさい。求めるものを得ることができる、この恵まれた地位に生まれたお前は無知であることを選択してはいけません。求めるものを得ることができる代わりに、その代償と責任を知らなければいけない場所。それがお前が生きている、そして生きることを許されている場所です。無知であることは己を捨てることだと理解し、よく学び、そして身につけなさい』


 息を引き取る直前まで毅然としていた、美しい伯母上。

 嫌だ伯母上僕は伯母上の傍にいます、それかもう屋敷に帰りますと泣きながら訴えても無駄だった。

 直轄領が隣合っていて、屋敷同士が近かったのがそもそもの間違いだったのか? 幼い頃はほぼ毎日、私は伯母上の元を訪れていた。彼女の息子、私の従兄弟にして幼馴染である男の”遊び相手”兼”ご学友”……つまり遊ばせるにはちょうどいい”玩具”として。


『ディラン! どうして柱なんかにしがみついているの? 虫の真似? 君にはとってもお似合いだけどさ、僕には似合わないからやめなよ。それよりあっちで一緒に遊ぼうよ』


 うああああ、嫌だ嫌だ!! 従兄弟殿と遊ぶのは嫌だぁ!!


『どうしたの? ここで遊ぶのはもう飽きた? じゃあ、明日からは僕が君の屋敷に遊びに行くよ』


 来るなぁああああ!! 来るな、来るなってばぁあああ!!


 それなりに名のある侯爵家の次男坊と、それなりどころか国でも一、二を争う名門公爵家の嫡男。どちらの意見が通りやすいかなど、考えるまでもない。母親同士が仲睦まじい姉妹であり、尚且つ双方の家とも当主である夫の裏で妻が全ての実権を握っている――そんなやや特殊な状況下にあったのだから、尚のこと。

 私は嫌って言ったのに……嫌って言ったのに! 従兄弟殿は翌日から我が屋敷にやって来て、いつも通り私を連れまわして振り回して甚振って、一人楽しく”私で”遊んでいく。


『同じ名前だというのに、うちのディラン様の凡庸なこと。母親同士が姉妹っていっても、いいところはあんまり親に似ないものなのねぇ』

『ね、知ってる? 他の方々にはね、《出来損ないの方のディラン》って呼ばれてるらしいわよ、うちのディラン様』

『嫌だわ、酷い言い方。でも確かに……、ねぇ?』

『よかったわぁ、セディス様は奥様に似て綺麗で聡明な方で。自慢の若様よね』


 ああ……やめてくれ。やめてくれ、従兄弟殿。こんなもの見たくない、聞きたくない。あの侍女たちは皆、とても優しい人……優しい人だと、そう思っていたんだ。

 知りたくない。知りたくなかった。こんな風に隠れて悪口を言われているなんて……。


『ディラン、どうしたの? 雨が降った後の地面みたいにぬかるんだ顔して。君って本当に面白いよねぇ』


 泣いてるんだよ馬鹿ぁあああ!! 『ぬかるんだ顔』って何だ! それに面白いとか言うな!! うああああ、従兄弟殿なんか大嫌いだ!!


『知ってるかい、ディラン。あの茶色い髪のお下げの女、あれは君の父上の愛人の一人だよ。ね、驚いた?』

 

 ふわふわした茶色い髪を綺麗に編みこんだ、にこにこと笑う愛嬌のある侍女。勉強が苦手で教師に叱られては落ち込んでばかりだった私に、いつもこっそりお菓子をくれて慰めてくれた……当時は自分の気持ちに名前をつけることができなかったが、振り返ってよく考えてみれば彼女は間違いなく、私の初恋相手だった。

 母上に伯母上という、とてつもなく美しいがそれ以上に厳しく容赦なく恐ろしい女性が身近に存在したせいだろうか。目を見張るほどの美人というわけではなかったが愛らしく、そして優しい彼女のことを、幼い私は本当に慕っていたのだ。

――彼女が《女》の顔をして、『愛しています』と言いながら父に縋りつく光景を従兄弟殿に見せられるまでは。

 

 うああああ!! もう、もう嫌だ!! 従兄弟殿なんか大嫌いだ!!


『改名したい? どういうこと、ディラン』

 

 従兄弟殿と同じ名前なのが嫌なんだ、母上! 同じ年月日に同じ性別で生まれてしまったことはもうどうにもならないけど、名前だけは! せめて名前だけは!!


『駄目に決まっているでしょう。わたくしが一生懸命考えてつけた名を嫌がるとはどういうつもり? お姉様もおそろいで嬉しいと喜んでくれたのよ。同い年で同じ名前の息子同士、兄弟みたいにこれからも仲良くしていってくれたらいいわねと仰ってくださったのに』

 

 そんなの知らないよ! 母上、僕は、僕は!!


『――駄目だと言っているのがわからないのか? それほど嫌ならばこの母を無理矢理にでも頷かせることのできる力を得てから“嫌だ”とお言い。泣き喚いて己の欲求を押し通そうと駄々をこねることしかできぬ子どもの分際で、敬愛し感謝すべき親に向かって文句を言うとは何様のつもりだ? お前はそこまで物の道理のわからぬ愚か者だったか? ディラン。顔を俯けるな。黙り込むな。先ほどまでの威勢はどうした? さあ、わたくしの問いに答えろ! 息子よ、お前はそれほどまでに母がつけた名を厭うか?』


 うっ! ご、ごめんなさ……! ごめんなさい、ごめんなさい母上!! もう二度と改名したいなんて言わない! 言わないから!! ごめんなさい!! ごめんなさい!!


『ディランって叔母君のこと怖いの? どうして? 優しい方じゃないか』


 貴様にはいつだって優しかったからな、従兄弟殿よ。我が母は私にとって、世界で一番恐ろしい女性だ……。怒ったら怖い。怒らなくても何となく怖い。存在自体が恐怖の対象というか、私にとっての恐怖を具現化した存在だとでもいうか。

 しかし、世界で一番感謝してもしきれぬ女性でもある。


『それにしても、どうしてお前は男として生まれてしまったのかしらねぇ。医師も女の子だろうって言っていたし、わたくしも絶対女の子だと思っていたのに。本当に残念だわ。もしお姉様の子どもが男の子でわたくしの子どもが女の子だったら、婚約させようという素敵な約束をしていたのよ。ほら、誓約書』


 見せられた一枚の紙切れは最高級の羊皮紙であり、両家の当主の署名と家紋が押された、もし約束を違えて裁判で争おうものなら間違いなく違えた方の家が取り潰しになるか破産する程度の賠償金を命じられるであろう、両家の名と誇りとその他諸々をかけた完璧な誓約書。


 ありがとうございます、母上! 私を男に産んでくださって!! まかり間違ってもあの従兄弟殿の婚約者などという、いっそ死ぬか蛙と結婚したほうがましな悲惨極まりない境遇に産んでくれなくて!! 本当にありがとうございます母上ー!!


『ディラン、何をしているんだ? ああ、本が読みたいのか。それは少し難しいから僕が読んであげる。さ、こっちにおいで』


 ……兄上……。

 絶対に嫌だとは思う。思うがしかし、私がもしも女に産まれていたら……兄は救われただろうな。私が小さかった頃は、いつも優しかったから。

 優しくしてくれた兄のことは、嫌いではなかったのだ。いつからか苛めてくるようになった兄のことは……正直、好きではなかったが。

 それでも嫌いではなかった。たとえ兄が与えてくれた“優しさ”が、自分より何もかも劣る出来の悪い弟に対する優越感からくるものであったとしても、幼い私によく本を読み聞かせてくれたり、勉強を教えてくれた兄のあの優しさは……他の多くの者は『違う』というかもしれないが、私にとっては確かに兄が見せてくれた“優しさ”だったのだから。


『母上、父上!! どうしてディランを跡継ぎに! 私がハデロ侯爵家の長子なのに! どうして!』


 怒っていたのだろう。……怒っていたのだろうな。

 実質的に侯爵家の実権を掌握していた母上に兄が詰め寄ったのは、あれが最初だった。

 私と同じく、兄も母上には従順だった。その兄が、母上に対して初めて声を荒げたのだ。何も言えず状況を見守る私には、おろおろと妻と息子を交互に見やる父が酷く哀れに思えた。

 『このままでは家が潰れる』と、凡庸だが身の程を弁えている父と祖父母が必死に根回しして頭を下げて”お嫁に来て頂いた”という、聡明な名門公爵家の美姫――有無を言わさぬ威厳と迫力満点の美貌と他者を圧倒する知性と教養を兼ね備えた、ただそこに立っているだけで周囲を威圧する母上。表向き領地を統治する父上の裏で様々な策を巡らせ、曽祖父の代の放蕩のせいで傾いていた我が家の財政を見事に立て直し、新たな産業開発やら何やらで更に領地を発展させていくその手腕、まさに見事としか言いようのないものだった。

 会話ひとつにすら緊張する母上よりも父上の方が何かと接しやすく、ゆえに私も兄も母上には反発する勇気など皆無といってよかったのだが、兄は――私より遥かに出来がよく、素晴らしいと評判だった兄は違った。

 そう、思えばこの日、私は初めて兄と己は全く別の人間だと思い知ったのだ。

 私は母上のような人間になれるとは思わないし、なりたいとも思わない。そして母上と対等の立場になることができる日など、恐らく一生来ないと思っている。

 しかし兄は違った。……違ったのだ。


『セディス、落ち着きなさい』

『放してください、父上! ……放せっ!!』


 乱暴に突き飛ばされた父がよろけて絨毯の上に尻から倒れこむ。その瞬間、母上の紫紺の瞳に蒼白い炎のような輝きが宿り――ああ、母上がお怒りになった。察した私は視線を三人から外し、丁寧に磨かれた自分の靴先を見つめる。怒れる母上以上に恐ろしい存在を、私は知らない。


『――セディス』


 心臓を氷の刃で貫くかのような、冷たい声。

 激昂していた兄はそれを聞いた瞬間、言葉を止める。

 親子だからだろう。凡庸というか地味な容姿の父に似た私とは違い、兄は母上に似ていた。似てはいるが、「どちらが美しいか?」と問われれば誰もが母上だと答えるだろう。美に関する好みの問題などとは無関係に、兄と母上とでは存在感が全く違うのだ。

 実力なき者が働く無礼は許さない――母上は地位と身分、そして階級を重んじる。それが全てではないが、軽んじていいものではないことを理解している人だ。家の実権は母上が握っていたがそれでも当主は父であり、その父に乱暴を働いた兄を怒らぬはずがない。

 それに母上は常に父を威圧していた……というか父が勝手に威圧されていたのだが、母上は一応、頑張って侯爵家の当主として、そして母上の夫としての仕事をする父をそれなりに気に入っていた。

 幼い頃の私にとっては小さな心の傷となった――しかしある程度成長した頃には理解し共感することができた、父にとって心の癒しとなっていた《愛人》。こういう言い方は奇妙ではあるが、母上は父に対する《ご褒美》の一環で彼女を囲うことを許可していたのだろう……何せ父が愛人に対してかける時間も金も全て母上が完璧に管理していたのだ。そして父もそれに納得していた。多少変わっているものの、必要にかられての政略結婚とはいえ、こと互いに互いを信頼していたという点では、私の両親は理想的な関係だったのだ。


『母上、私は……』

『自分の意見を言う前にすべきことがあるのではないか? それとも、そんなこともわからぬか。侯爵家の子息ともあろう者が最低限の礼儀すら守れぬとは嘆かわしいことよ。セディス、お前が何故次期当主となれないか、その理由が何故分からないのか――わたくしにしてみればそれこそ理解できぬな』

『なっ!』 

『お前の目は何を映している? お前の耳は何を聞いている? お前はその頭で何を感じ、何を考えている? 何のためにわたくしがお前とディランを同じように育てたと思っているのだ? 今までお前が見下し蔑んできたもの、それが今のお前を形作る全てであり、わたくしと当主がお前を跡継ぎとして相応しくないと考える理由の一つだ。分からぬのであれば考えよ。もっとも本来であればこのようなことを言われずとも、当然気づくべきことだがな。息子とは言え――いや、息子であるからこそ、それすらできぬ無能に用はない』

『……っ!』


 何故、長子である兄ではなく私が跡取りに選ばれたのか? 

 両親の意図は、はっきりとはわからない。しかし漠然とではあるが、理由のいくつかは理解していた。

 兄はそれに……気づいていなかった。よほどのことでもない限り、貴族の家ではどこも長男が家を継ぐ。だから当然、次期当主は自分だと思っていたのだろう。無論それは自然な考えだが、絶対の決まりではない。

 とはいえ私としても、まさか本当に自分が次期当主になるとは思っていなかったのだが。


『…………』


 唇を噛み締めて俯き、小さく震えている兄の後姿。

 そっと上げた視線の先にその姿を見て、またすぐに視線を下げて靴先を見つめた。

 毎朝丁寧に磨かれ傷一つない靴先を眺めるのは楽しいことではなかったが、兄の後姿を眺めるよりは気が楽だった。人に傷つけられる、という経験はしたことがあるが、自分が誰かを傷つけるという経験は……私が自覚していないだけかもしれないが、あまりなかったのだ。

 兄は確かに怒っていた。

 けれど、それ以上に傷ついていた。

 泣いてはいなかったが……傷ついていたのだ。私にはわかったし、恐らく母上や父上も気がついてはいただろう。仲睦まじい、とは言いがたい家族ではあったが、それでも確かに家族だったのだから。

 私が兄に対して言い返すことなど、一つもなかった。しかし謝るべきことではなく、兄も謝罪などほしくはなかっただろう。一言、「家は継がない」とそう言えばよかったのだろうが、それは言えなかった。……どうしても、言えなかった。

 母上は怖いし母上に完全に手綱を握られている父は無力で、周囲の人間は誰も反対しない。流れは完璧に私が家を継ぐことで決定しており、それに反抗する気力も実力もなかった。

 兄の意思も私の意思も求められないまま決まった、私たちの将来について。私は流されるままだったが、兄は違った。

 私は責める兄の顔をまともに見ることが出来ず……両親に全てを委ねたのだ。跡目争いでの流血沙汰については厳重な処罰が下されるし、血が流れずとも跡目争いがあること自体、あまり公にすべきことではない。他家に知られぬように家の揉め事を片付ける――私には到底無理な芸当だったのだ。

 最初に逃げたのは私だから、仕方ない。

 嫌われることも憎まれることも……受け入れようとは思わないが、仕方のないことだと。そう納得していた。それが私の悪いところなのだろう。嫌われているとわかっていながら、心のどこかで兄がいつか納得してくれることを願っていた。

 そんなこと、あるはずもないのに。

 私と兄の進む道は完全に分けられ、二度と交わることはないと――そう知っていながら、愚かしくも私はいつか元通りになれるのではないかと、そんなことを思っていた。血の繋がった兄弟を完全に切り捨てることができるほど、私は強くない。しかし妥協点を見つけられるほど賢くはなく、手を差し伸べることができるほど厚顔でもなく……結局のところ、私は中途半端に卑怯で臆病な凡愚なのだ。


『ディラン、いつまで待たせる気だい?』

『……! 貴様! 貴様のせいで!』

『誰が“貴様”だよ。相変わらず口と頭と顔の悪い男だな、お前に“貴様”呼ばわりされる筋合いはないよ。大体こんなところで何をしている? 無意味に怒鳴り散らすくらいなら婿入り先の家のご機嫌伺いでもしていろ、時間の無駄だ。そんなことにも頭が回らないのか? お前の頭には無意味なもの以外何も詰まっていないらしいな。まぁ昔から知ってはいたが。――何しているんだい、行くよ。来たまえ、ディラン』


 凡愚なる私と比べればほぼ全てにおいて高い評価を得ていた兄は、ただ一点、従兄弟殿とは折り合いが悪かった。そして私の全てを上回っていた兄は、同じく私の遥か上にいる眉目秀麗な従兄弟殿に全く勝てなかった。兄が従兄弟殿に対して勝っていたことといえばせいぜいが年齢くらいで、それすら月日を経るごとになんの意味もなくなっていく。

 従兄弟殿はいつも私の先を行く。

 兄は……兄は、一体いつから私を背後から睨みつけるようになったのだろうか。

 じっとりと絡みつくような視線。憎悪と嫉妬のこもったそれを、正面から受け止めることはできなかった。しかし後ろを振り返ることもできなかった。

 従兄弟殿は長い脚で颯爽と歩いていく。ついていきたくなくとも、何故か私が進まねばならぬ方向に奴は行く。

 だから私は従兄弟殿についていく。他に理由などなく……だが、兄はどうだったのだろう。


――兄は一体いつから、私の後ろを歩むようになったのか? 私の先を歩いていた兄を追い越した記憶など、どこにもありはしないのに。


『ねぇ、ディラン。学院、君は何を専科にするつもりだい?』


 本当は、法律に興味があった。

 しかし母が『金だ。金について学べ』と命じたので、経済分野から選ぶことにした。我が家は代々、王家の直轄領であるラナサとシレーの代理統治を任されている。そのうちラナサは国内でも有数の商業地域であるため、こと金勘定について有能な商人たちの不正を防止するには、統治する側もよく学んでおかねばならぬと……きっとそういうことだったのだろう。

 ああ、従兄弟殿は……自分の学びたいことを学ぶのだろうな。性格は『酷い』の一言に尽きる男だが、学院の教授陣は割と変わった人物が揃っていることで有名だ。理解力も記憶力も探究心も応用力も私などより遥かに高い、きっとどのような分野を選んでも――人格についてはどうだか知らないが、その能力は教授陣にはさぞかし気に入られることだろう。


『じゃ、私も君と一緒の学科にしようかな』


 ふざけるなぁあああ!! どうして学院まできて貴様とつるまねばならぬのだぁああ!! 貴様は法学でも医学でも歴史でも好きな分野を選べぇえええ!!


 王都に出たら、従兄弟殿とは離れられると思っていた。それなのに、悪夢のようにあの男は私の進む先にいる。頼むから、解放してくれ……。

 意中の令嬢や婚約者が従兄弟殿に懸想したとかで無駄に喧嘩を売ってくる暇な貴族の子弟どもや、常に首席である従兄弟殿に無駄な闘争心を燃やすやっぱり暇な貴族の子弟ども……どうして貴様らはそんなに暇なのだ! 《歩く災厄》と言っても過言ではない男に喧嘩売る暇があったらもっと有意義に時間を使え! そして何故私までいちいち巻き込まれるのだ!! 私は無関係だろうが!! 容姿を貶されるのも頭が悪いのを罵られるのも今さらだがな、従兄弟殿の相手だけでも精神的に疲労困憊しているところを更に貴様らの嫌がらせや罵詈雑言によって心を削られているのだぞ?! 哀れすぎるだろう、私が!! 如何に温厚で臆病な私とて延々嫌がらせをされれば怒るし、従兄弟殿ほど悪辣かつ悪趣味でえげつないやり方ではないが今後の防衛策を兼ねた仕返しのひとつもやりたくなるわ!!


『君って本当に馬鹿だよねぇ、ディラン。だって君は私の従兄弟で幼馴染で親友なんだから、妬まれるのも仕方ないってものだよ。あきらめたまえ』


 ……『従兄弟』と『幼馴染』に関しては否定しようのない事実だがな、従兄弟殿よ。一体私がいつから貴様の『親友』になったのだ?! ふざけるな、私に『人生に絶望しろ』とでも言いたいのか!!


『君の人生って絶望するだけの価値があるものなのかい? へぇ、初めて知ったよ』

 

 …………ああ、なるほど。この胸に疼く怒りなのか何なのか形容しがたい熱く冷たい衝動を、人は『殺意』と呼ぶのだな。

 従兄弟殿など、できるだけ苦しんで死ねばいいのに……!!


――思えば王都の学院時代は毎日が酷く慌しかった。母上の管理下から逃れることができ、兄上と顔を合わせずにすんだことだけが救いだったが。

 勉強は難しいがやりがいがあり、よき師にもめぐり合えた。だが従兄弟殿のせいでおよそ平穏とは言いがたい日々しか送ることが出来ず、そしてそれが普通になり……『普通』とはまこと難しい意味の言葉だと、そう気がついた日々だった。


『ディラン、聞いてくれ! ……運命の人に出会った』


 割といつものことではあるが、また毒でも盛られたか? 従兄弟殿よ。そのせいで頭をやられたか? とりあえず幼馴染の情けで医者を呼んでやるから、大人しくしていろ。存在自体が世界に対する猛毒でしかない貴様でも、万が一うまくいけば……いや、もしかしたら死ぬかもしれないからな。


『可憐で可愛くて……でも、名前を聞けなかった。宿泊場所は突き止めたから、明日! また会いに行く! 協力してくれ!!』


 ………………毒を盛られたのは私の方か。

 あの従兄弟殿が頬染めて瞳を潤ませて熱っぽい掠れ声で私に縋っている……という幻が見える。なんとおぞましい光景だろう。気持ち悪すぎて一気に鳥肌が立ち、音を立てて全身の血の気が引いていった。背筋を伝う冷たい汗と急激にこみ上げてくる吐き気。くっ、なんということだ! これほどまでに壮絶に気持ち悪い生き物の幻覚を見せるなど、一体何の毒だ?! 毒の耐性には少々自信があったが、慢心していたか! ディラン・ハデロ、一生の不覚!!


『これが、恋……』


 やめろ、やめてくれ!! その気持ち悪い恍惚とした表情と上ずった声をやめてくれ!! 死ぬ!! 気持ち悪すぎて死ぬぅ!!


――人の皮を被った血も涙もない魔物だと思っていた従兄弟殿が、悪夢でも妄想でも幻覚でもなく冗談抜きで恋をした……似合わないぃいいい!! というか気持ち悪いぃぃいいいいい!!


『えっと……は、初めまして。あたし、じゃなくて、わたし……』


 従兄弟殿は一体彼女の何処に惚れたのだ? これといった特徴のない田舎娘だぞ? 野暮ったいし、ちょっと子犬っぽい感じではあるが、とても愛らしいとか美しいとかでは……。


『可愛いとか美しいとか愛くるしいとか可憐とか、そういう言葉は全部姫のためにあるんだよ。ね、ディラン。君もそう思うよね?』


 ……やめておこう。

 容姿も家柄も才能も全て従兄弟殿に負けており、なおかつそれを自覚している私だが、ここで何か一言でも否定の言葉を吐いたら最後、人として絶対に守らねばならぬ大切な《何か》まで従兄弟殿に負けてしまう。そう本能が告げているので、黙って頷いてやり過ごそう。


 王都をふらふら食べ歩きしていた野暮ったい田舎娘に恋した従兄弟殿は、暴走の果てに遂に彼女と婚約した。

 暴走したといっても、まぁ……一応、死人は出ていないからな。いっそ死ぬか狂った方がましなんじゃないかという目に遭わされて結婚に同意させられた縁戚連中は多々いたが、最終的には《話し合いらしきもの》で片付いた……片付いたと言っていいのかはよく分からないが、とにかく決着がついたことであるし。

 男女の間には、ときに地位や身分を超えた愛情が芽生えることがある。完璧な政略結婚をした両親から産まれた私だが、その事実を否定はしない。

 否定はしないが、芽生えた愛情に花を咲かせ共に生きることを実現するには、惜しみない周囲への根回しの努力と反対勢力を一掃する勇気と多少の流血沙汰への覚悟と相応の涙が必要になることもまた、否定しない。ちなみに涙は流すのではなく流させるのであって、大抵の場合は悲鳴が付随している。

 愛する二人がいれば全てが解決する――そんな綺麗事で幸せな結末を迎えられるのは物語の中だけなのだ。現実はかくも厳しく苦く、容赦がない。実力無き者は永遠に夢を実現できぬものなのである。夢を描くだけなら誰にでもできる。しかし描いた夢を実現させるには、相応の努力と代償が必要なのだ。


 ……もっとも、従兄弟殿の大切な『姫』の実家が実家だったため、私としては婚姻に反対した連中の気持ちもわからなくはない。しかし従兄弟殿の前で彼女を貶す勇気はない。そう考えれば、従兄弟殿の婚姻を正面きって反対した挙句、『姫』を貶したり嫌がらせをしたりした人々は英雄である。もちろん《悲劇の》英雄だが。


『さあて、後は……君だよねぇ?』

 

 何がだ、従兄弟殿。その無邪気な笑顔をやめろ、不吉すぎる。


 数多の絶叫やら悲鳴やらを踏みにじり嘲笑いつつ、どうにか婚約、そして結婚にまでこぎつけた従兄弟殿はそれはそれは幸せそうだった。人の痛みが分かっているからこそ美しく笑う男の笑顔など、凶悪で禍々しいことこの上ない。……まぁ、何はともあれ奥方が幸せそうだからいいのだが。

 それに奥方の実家の件では、生まれて初めて《必死に誠意を見せる従兄弟殿》という気持ち悪いとかおぞましいとかを通り越して最早記憶を完全に消して存在しなかったことにしたい、そんな《触れていはいけない禁断の領域》にあるものを見ることができたのだ。思い出すだけで気分が悪くなる光景だが、あの従兄弟殿にも一応人を労わり愛する心があると知れたので良かったと……良かったと、思うような思わないような。奥方以外の人間に対しては……まぁ、いいか。深く考えるのはよそう、戻って来れなくなる気がする。

 従兄弟殿の奥方はなんと言うか、私が言うことではないが見た目は少々貧相で礼儀作法がいまいち……かなり? なっていない部分はあるものの、従兄弟殿には勿体無さすぎるほどまともな性格をしている。性格が破綻している従兄弟殿とはうまく釣り合いがとれて……とれていると言っていいのだろうか? あれは。


『……でもね、多分一番卑怯なのはあたしなんです』


 名門公爵家のものにしてはとても小さく、密やかに催された結婚式。

 可愛らしく着飾った従兄弟殿の奥方が、苦笑して私に打ち明けた小さな秘密。

 それはとても小さく、些細な――人によっては卑怯だと、確かにそう憤るかもしれない秘密。

 何を意図してかそれを打ち明けてくれた彼女に対して、私がかけるべきは否定の言葉ではなく、肯定の言葉でもない……ただ、おめでとうと。

 文字通りあらゆる手段でもって絶対に彼女を幸せにするだろう男の妻となった彼女に、精一杯の祝福の言葉を捧げた。

 恐らく、恋をしたからだろう。

 従兄弟殿は間違いなく性質というか生来の性格だが、彼女は恋をしたから卑怯になったのだろう。

 ならば、それでいいじゃないか。

 他の全てよりも自分の幸せを優先させる――その姿は確かに卑怯かもしれないが、見事望んだ結末を迎えることができるのであれば問題ない。あらゆる手段を駆使して望む結果を得る姿勢自体は、決して非難されるべきことではないのだから。それを行なう意思と力、知恵があるのであれば構いはしない。

 それに ”恋は人を狂わせ醜くする。だからこそ美しく、そして素晴らしい”と、かの偉大な公爵閣下も仰っている。恋に落ちた人間に高潔さや優しさ、清廉さを求めるのは無粋というものだろう。


『あの……ありがとうございます、ハデロ様』


 高らかに咲き誇る大輪の華のごとき美貌の従兄弟殿には格段に劣る顔の造りをした、彼の奥方のなった娘。けれど頬を染めてはにかんだ顔は、見ているこちらまで思わず笑んでしまうような……とても素敵な顔だった。


『やぁ、ディラン。君に紹介したい子がいるのだけれど』

『ルクレシア・ヴァライエと申します。初めまして、ディラン・ハデロ様』


 そして、従兄弟殿の不吉な笑顔の真相を私が知ったのは、奴の結婚式からひと月後のことだった。

 風に舞う豊かな栗色の髪と静謐な泉を思わせる薄い色の瞳が印象的な、たおやかで美しい少女。

 美貌だけではなく教養の高さや人品の良さから、さしたる名家でもない貧乏伯爵家の令嬢でありながら多くの貴公子たちから求婚されていた。中には手を伸ばせば簡単に手折れるだろうと、そう勘違いして無茶な要求をつきつける輩もいたようだった。それを才覚と美貌でもってうまくあしらっていた彼女は――私にとっては十分、高嶺の花に感じられた。

 私の家と比べれば格下の家の娘ではあるが、家柄だけで見下すことのできる、そんなちっぽけな存在ではない、年下の美しい令嬢。


『選べる自由がないことはわかっています。ですから、無理矢理選択肢を作っているのですよ。ええ、変わり者の娘だ、このままでは嫁き遅れになると、両親には呆れられていますけれど』


 謙虚というのとは少し違う、物静かだが凛とした芯の強さ。

 確かに美しい少女だと思った。容姿もそうだが、その内面が。私にはない強さがある少女。

 異性として惹かれたわけではないし、恋に落ちたわけでもないが……話していて気持ちのいい娘だった。


『まぁ、これでいいか。じゃ、決定』

 

 気持ちのいい娘だとは思ったがな? 従兄弟殿よ。初めてまともに会話したその日に問答無用で婚姻証書に署名させるとは、貴様……今さらだが叫ばせろ! 従兄弟殿よ! 貴様、本当に一体どういう神経しているんだぁあああ!!


 何が気に入らないのかそれまで人の縁談をことごとく潰してきたくせに、よりにもよって従兄弟殿の手によって私とルクレシア嬢との縁談はとんとん拍子に纏められ、気がついたときには結婚していた。私が鈍いとか愚かだとか、そういう問題ではない。確かにそれもあるだろうが、従兄弟殿が悪辣且つ手際が良すぎるのだ。

 拒否? なんという良縁だと泣いて喜んでいる姑殿に舅殿、そして息子の妻を笑顔で迎え入れる我が母のそれはそれは嬉しそうな笑顔……拒否できるわけもない。母上が気に入った相手だからというのが一番の理由で、我ながら情けないとは思うが仕方ない。

 喜びでも感動でもなんでもなく、だが何か無性に虚しくなって泣きそうになり、思わず空を見上げた新婚初夜、満月の夜……。


『ねぇ、ディラン』


 なんだ? 従兄弟殿よ。ああ、それと今さら言いたくもないが、一応言っておく。屋敷に来るなら一言連絡を入れろ! いきなり来るな!! 貴様どうして私に対してだけは全く礼儀を守らぬのだ!!


『もうすぐルクレシア殿は出産だねぇ。二人目だから大丈夫だろうけど、一人目のときみたいに面白いことにならないでくれたまえよ。同じことをしたら指差して笑うからね』


 だから『面白い』とか言うなと……少しは人の話を聞け!! 


『それでさ、もし生まれたのが女の子だったらナシアスの婚約者にしようよ。いいよね? 未来の公爵夫人だよ。ほら、これ誓約書。私はちゃんと署名済み。さあ、君も署名したまえ』


 嫌に決まっとるだろうがぁああ!! 何をいきなり貴様は!! 貴様は!! いや、大体いつも貴様は唐突ではあるがな!! ふざけるな、誰が娘を容姿も性格も貴様に生き写しの、悪夢のような息子に嫁がせるか!! どう頑張っても悲惨と絶望と暗黒が手に手を取り合い仲良く踊っている混沌狂乱舞踏会のような未来しか思い描けん!! 最悪すぎるわ、そんな義理息子!! 

 

『面白そうで大変結構なことじゃないか。……ああ、そうそう。陛下が遂に結婚なさるらしいよ、ディラン。相手はあのリアネーゼ・フォルギオ』


 どこが面白いのだ、どこが!! ……って、は? 陛下の結婚? そんなこと……勿論、知っているが。どうして今、そんなことを。


『宰相は何を考えているのやら。あの男は間違っても《アルディオス》にはなれないと思うのだがねぇ。ま、陛下がお幸せそうだから家臣としては喜ばしい限りだけれど』


 従兄弟殿……。貴様、陛下の婚姻については邪魔しない……のだな? その顔は。裏で何を企んでいるのかは知らないが、それでも邪魔はしないのだな?


 従兄弟殿の真意が読めぬのはいつものことだが、この男がこういう無邪気な笑顔を浮かべているときは大抵ろくでもないことを考えている。悲しいかな、それがわかる程度には付き合いが深く長いのだ。


『レガイアに幸あれ。在る限り茨によって守られ、そしていつか茨によって滅ぶ国よ。私は王に幸あれと謳わない代わりに、声の限りレガイアに幸あれと叫ぼう。たとえどれほど血肉を削がれても決して茨を放さぬこの国に、永久に変わらぬ愛と忠誠を捧げよう』


 王の婚姻を祝うものとしては、あまりにも不遜な言葉。

 ああ……そうだな。かつて王にそう言った御方がいたな、従兄弟殿。貴様が頭を下げる、奥方以外の唯一の女性。

 美しい都と五つの首――両親と二人の娘、そして夫の首を建国王に捧げた女。

 ”華のような美しさ”だとは言われなかったそうだ。それは彼女が最も嫌った褒め言葉だったから。むしろ容姿に対する賞賛には一度も嬉しそうな顔などしなかったと、そう伝えられている。美しいと言われて当然の容姿をしていたからなのか、単に興味がなかっただけなのか、それはわからないが。

 ”華を散らす刃のような美しさ”だと、建国王にそう称され恐れられた美しい女――レガイア史上唯一の偉大なる女公爵閣下、レジーナ・ヴィリス。エイラームに下る前はレジーナ・エシュテント・ヴィオリアという名だった、かつての支配者。


 いつだったか、貴様はあの女公爵閣下の肖像画が王城にあると、そう言っていたな? 従兄弟殿よ。


『そうだねぇ、そう言ったよ』


 何処にある?


『王族以外は立ち入れない場所。保存魔法をかけられているから、全く劣化していない綺麗な状態で保管されているよ。描いた画家が完成後に自害したという逸話があるだけあって、たかが絵画でありながら凄まじい迫力がある。私の屋敷に伝わっているものよりも的確に彼女の本質を描いているのだろうねぇ』


 何故それを貴様が知っている? “王族以外立ち入れぬ場所”にある絵を、王族ではない貴様が何故それほどまでに具体的に知っているのだ、従兄弟殿よ。


――まるで実際に見てきたかのような。だが、そのようなことできるはずもない。


『さあ、どうしてだろうねぇ? 少しは自分の頭で考えてみたまえ。ただでさえ綿しか詰まっていなさそうな頭と顔をしているんだから、偶には活用した方がいい。君は黙っていると本当に馬鹿そうな男に見えるからね』


 悪かったな、間抜けそうな顔をしていて! しかし顔と私の頭が悪いことは無関係だろう! 笑うな、性悪め!! 

 

 従兄弟殿は私の知らないことを多く知っており、そしてそれを話さない。自分が責任を負える範囲での嫌味はいくらでも言う男だが、言うべきではないと判断したことは絶対に口にしない。曖昧に口を閉ざして誤魔化してばかりの私にはできぬことを容易になす、名門公爵家の当主としてこれ以上ないほど相応しい男。


『君は心から祝福するといい、ディラン。君と私は違うのだから』


 当たり前だ、貴様に言われるまでもない。そう、私と貴様は違うのだから。 


――陛下のご成婚はとてもめでたいことだった。待望の第一子にして第一王子の誕生も。祝いの式典で私も拝謁したが、祝福の言葉も忘れるほどに愛らしく美しい赤子だった……エルリアス王子殿下。

 産後ということで部屋で静養していた妃殿下のお姿はなかったが、陛下はいらっしゃった。普段は凛々しく引き締まっている顔に今にも蕩けそうな笑顔を浮かべ、訪れた貴族たちと上機嫌で会話しながら小さな王子殿下の手にご自分の指を握らせていた。体温を直接感じたかったのか、公の場では外さないはずの純白の手袋を外したままで。

 

 だが、エルリアス王子殿下の弟君か妹君となるはずの御子はなかなか生まれなかった。――陛下の子とは認められていない非公式の《息子》は三人、存在していたが。

 何があったのか、詳細はわからない。ただ、気がつけばそうなっていた。王家に対する監視の目を緩めたことなど一度もないが、恐らく宰相とその一派が動いたのだろう。いつの間にか、陛下には非公式の愛人――法に定められた手続に則って召し上げられた側室ではない、何の権力も利益も生まないただの愛人と彼女が産んだ子どもたちが、公には隠されつつも確かに存在していた。

 あれほど嬉しそうに触れていたエルリアス王子殿下を――そして妃殿下を陛下が顕著に厭うようになったのは一体いつ頃からだろうか。そして宰相と陛下の関係が、奇妙な緊張感を孕んだものになったのも。宰相に蛇蝎の如く嫌われている従兄弟殿は、それを笑って見ているだけだったが……。   


『なんだい、ディラン。何か言いたいことがあるのかね?』


 ……確かにな。言いたいことなら山ほどあるさ。だが、貴様に言っても無駄だろうことは分かっている。


『諦めがいいのは君の長所であり、短所だ。君って本当に、長生きできる代わりに生きている間は悶々と悩み苦しむ、そういう人間の典型例だよねぇ。お伽話に出てくる名前のない脇役っぽいというか、小者っぽいというか』


 ……誰かこの男を殴り飛ばしてくれないだろうか。私が脇役か小者なら貴様は間違いなく物語の裏で全ての糸を引いている黒幕だ。物凄い悪役だ。絶対そうだ! そうに決まっている!!


『まぁいいけどね。ところでディラン、エルリアス王子殿下のお姿は妃殿下によく似ているよねぇ? しかしあの身体能力の高さは陛下譲りかな』


 何の話だ? 従兄弟殿よ。


『いやね、今日たまたま王城で殿下が子猫抱えて王城の最上階から下のテラスに飛び移るお姿を目撃したから。侍女が何人も卒倒していてさ、凄く面白かったよ』


 なっ?! ば、馬鹿か貴様!! いや、馬鹿だろう、馬鹿なのだな、この大馬鹿め!! 暢気に見てないでお止めしろ、そんな危ないこと!! 


『そう言われてもねぇ、無理だったのだから仕方ないだろう』


 無理とか無理ではないとか、そういうこと以前の問題だろうが!! 貴様という奴は、本当に!!


『陛下がいらしたから。そうでなければ私とて流石に止めるよ。止められるかどうかは別だがね。どうして殿下はあんなに可憐な容姿でいらっしゃるのに、動きは野生動物のそれなのだろうねぇ?』


 …………は? エルリアス王子殿下が? 野生動物の動きを? ああいや、陛下? 陛下がいらっしゃった”から”?


『ああ、陛下が”止めなくていい”と仰られたからね。私は陛下の御心に従ったのだよ、ディラン』


 ……なんだと?


 従兄弟殿はそれ以上答えず、朱銀の煙管に甘ったるい紫煙をくゆらせ艶やかに笑うだけだった。


――昔からそうなのだ。

 従兄弟殿は昔から、本当に意味不明なことばかりする。私には奴の真意などこれっぽっちも理解できない。よからぬことを考えているのだろうな、とはわかっても、それが何なのかは事が起きるまで予測できず、そのため対応は常に後手にまわる。

 

『おや、ディラン。王城で会うとは珍しいねぇ。ちょうどいい、一緒に来たまえ』 


 私は別に貴様と顔を合わせたくなど……おい、従兄弟殿。そちらは立ち入り禁止区域だろうが。一体何しに……また私をよからぬことに巻き込むつもりか! いい加減にしろ!!


『いいから、いいから。ほら、あれを見てご覧』


 全くよくないわ、馬鹿め!

 …………あ? あれは……。


『麗しい兄弟愛だよねぇ。思わず涙が出てくるよ。ねぇ? ディラン』


 柱の陰に隠れて、小さな手を握り締めている……あの二人は。

 

 ……貴様、一体何を考えているのだ? 従兄弟殿よ。《こんなもの》を私に見せて、何を企んでいる?


『さあねぇ』


 男に使う表現としては間違っているのだろうが、艶やかな笑顔だ。甘い蜜を垂らし芳醇な薫りで獲物を誘う、毒花のような。

 従兄弟殿は本当に楽しいとき、そういう顔で笑う。無条件で惹きつけられる美しさ。いいことなど一つもないとわかっていても、それでも尚目を離すことができない。


――無知は己を捨てることだと理解しなさい。無知であることが許される立場にお前はいません――


 しっかりと繋ぎあっていた二つの手。

 どちらが先にその手を振り払ったのか、私は知らない。   


 陛下が『おかしくなった』との不穏な報告を聞いたとき、真っ先に思い浮かんだのは毒花のごとき従兄弟殿の美しい笑顔と、繋ぎあっていた二つの手だった。

  


* * * * * * * * * *



――最悪の目覚めである。


 夢というにはあまりに生々しい、生まれてきてから今までの日々の回想。何が最悪って、そのほとんど全てに鬼畜外道ここに極まれりな我が性悪従兄弟殿が登場していたことだ。私の人生の大部分が奴によって構成されているかのようで、非常に不愉快極まりない。

 そして更に最悪なことに、


「やあ、何を呆けた顔をしているんだい? ディラン。五十を過ぎた男の寝起きで呆けた顔なんて間抜け以外の何ものでもないよ。ああでも君は間抜け面の上に馬鹿みたいにふわふわした空気が纏わりついているから、もっと救いようがないね。まさに視覚の暴力だよ。もう少ししゃんとしたまえ」


 枕元近くに置かれた椅子に腰掛け、確実に引き攣った顔をしているであろう私に甘ったるい紫煙を吹きかけて優しげに笑う従兄弟殿は、今日も今日とて絶好調である。いつもどおり『言葉の暴力』としか形容しようのない挨拶でもって私を叩きのめしてきた。この男は本当に、昔から昔から……!


――ああ、いや。そんなことよりも。


「……ちょっと待て。何故、私の目の前に貴様がいるのだ? 従兄弟殿よ」

「さぁて、何故だろうねぇ? 君の空っぽの頭を一生懸命働かせて考えてみたらいい」


 くつくつと喉を鳴らして笑う、その様子は相変わらず美しい。普通は五十を過ぎた男に対して使う言葉ではないがな。

 

 それにしても、本当にどうして私は寝台の上にいるのだ? そして何故従兄弟殿がここに。今は朝……いや、もう昼か? カーテンの開け放された窓の外はかなり明るく、朝にしては陽が高いような気がする。

 しかもよく見ればこの部屋、侯爵家の部屋ではなく……あの群青の壁紙に湖畔のタペストリー、ここは……王都にある我が屋敷の寝室、か? はて、私は一体いつの間に王都に……。


――黙れ、ヴィリスの飼い犬風情が!! ――


「……あっ」


 突然脳裏に響いた罵倒する声に、急速に記憶が巻き戻される。

 エルリアス王太子殿下暗殺未遂の報せ、従兄弟殿が溺愛する末っ子殿の大抜擢、それまで牛耳っていた儀典部から突然異動させられた従兄弟殿の第二子殿からの不吉な手紙と王太子殿下からの召喚状、警邏隊の費用の横領に関する調査、そして……。


――選ばれぬ者の気持ちなどわからぬくせに! 限られた者にしか加護を与えぬ神など滅んでしまえ!! ――


 騎士。王太子殿下の補佐官。警邏隊の隊員。そして従兄弟殿の若い頃によく似た容姿の、警邏隊総監。


――どうしてこの場でそんなことを言うのだ、兄上!!


 言葉にできない叫びをあげた。感情のままに言葉を紡ぐことの危険性を知らぬわけでもなかろうに、最悪の状況で言ってはならぬことを言った兄に。

 鍛え抜かれた体躯の警邏隊の隊員たちに取り押さえられた兄は無様に地べたに這いつくばり、血走った目で私を睨みあげる。皺が多くなり、肉のつきすぎでたるんだ体……かつての貴公子の面影がどこにもない、その姿。血が滲むほど強く噛み締めた唇を開き、醜い声で吐き出された言葉の数々。


――黙れ、兄よ。黙るのだ! それ以上言うな!!


 私は、兄のことが嫌いではない。

 ……いや。

 嫌いでは……『なかった』、のだ。


「寝ぼけ頭は覚醒したかい? ディラン」


 片手で煙管を弄びつつ笑う従兄弟殿は、何もかもお見通しだというように鮮やかな紫の目を細める。


「……兄上は……」

「はっ、あの馬鹿なら今は牢の中さ。暗くて寒いここから出してくれと哀れげに泣いているのではないかね?」

「馬鹿、か」

「馬鹿だよ、あれは。昔からそうだったけれどねぇ、君とはまた違う意味で見ていて気分が悪くなる類の馬鹿だ」


 冷たい嘲りを含んだ声が、甘い紫煙を吐き出すのと同じ唇で馬鹿だ馬鹿だと繰り返す。

 どういうわけだか知らないが、本日の従兄弟殿は『とても機嫌がいいのに不機嫌そう』である。表現としては矛盾しているが、従兄弟殿は本当に不機嫌なときは優しい笑顔で慈愛のこもった言葉を吐く男なのだ。正の感情は全く隠そうとしないが、負の感情はどんなときでも巧みに隠す。それが見るからに楽しそうな笑顔で、滅多になく冷たい声を出している。なんなのだ? 一体。


「従兄弟殿よ。色々聞きたいことがあるのだが、とりあえず一つはっきりさせたい。何をそんなに苛ついているのだ?」


 下手なことを言って不機嫌さに拍車をかければ最後、涙も枯れはて生気も消失するほどの嫌味を言われる。経験上、身にしみてその苦痛は理解している。


「……さあね。君の苦悶に歪んだ間抜けな寝顔を見ていたせいではないのかな。まったく、君の寝顔なんて久々に見たけれど、本当に見るだけ無駄なものだったね。私の貴重な時間を返したまえ、ディラン」


 聞かなきゃよかった。

 ああ、久々にこの男を鈍器で思い切り殴りたいと思った。誰かと取っ組みあいの喧嘩などしたことがないが、従兄弟殿の秀麗な顔面を力の限り鈍器で殴りつけてやりたいと思ったことは数知れず。まだ実行に移したことはないが、年を経るごとに実現する可能性が高くなってきているような気がする。老いれば気が短くなる者と長くなる者とがいるらしいが、私はどうやら前者のようだ。もっとも、それは相手が従兄弟殿である場合に限って、だが。


「それにしても、あれだけ派手に倒れておいて暢気なものだねぇ、君は。最初に聞くのが何故私が此処にいるのかで、次があの馬鹿の処遇について。その後が私のご機嫌伺いとはね」

「は……?」


 なんだと?


「私が? 倒れた?」

「なんだい、その奇怪な顔は。君はただでさえ奇妙な顔つきをしているのだから、そんなに変に歪めるものじゃないよ。元に戻らなくなったらどうするつもりかね」

「人の顔を『奇怪』だの『奇妙』だの言うな! ……そうではなく、倒れたとはどういう意味だ?」

「そのままの意味だよ。君は警邏隊本部で倒れたのさ、ディラン」

「……はぁ?」


 何故?

 確かに王都への召喚は突然だったし与えられた仕事もかなり切羽詰ってはいたが、倒れるほど疲労困憊していたわけではない。学院時代の試験前、従兄弟殿への嫌がらせの煽りを食らって教科書や参考書類を暇な貴族の子弟どもに滅茶苦茶にされたときの方がよほど倒れそう……というか死にそうだった。一度でも試験に落ちようものなら、領地にて常に私の成績を監視している母上による身も心も凍りつき砕け散るかのような壮絶なるお仕置きが待ち受けていたため、様々な手段を用いて死に物狂いで勉強したものだ。あれに比べれば、それほど難しい仕事でもなかったのだが……。


「いやぁ、凄かったようだよ? 何でも、あの馬鹿が馬鹿に相応しいつまらない言葉で恨み言を言った後に君が唐突に笑い出して、そのままあの場にいたカイン以外の全員が青ざめて絶句する程度の罵詈雑言を吐きまくったそうだから」

「……は? 誰が罵詈雑言を吐いたって?」

「君に決まっているじゃないか、ディラン」


 ……私が? 

 従兄弟殿以外の人間に対して嫌味を言ったことなど無いに等しい、この私が? 笑顔のまま罵詈雑言を吐いたと?

 自分で言うのもなんだが、恐い母上と邪悪な従兄弟殿のおかげで人並み以上に寛容で我慢強い人間へと成長した、よほどのことでもない限り怒りを表に出さない温厚な人物で知られている、この、私が?


「カインがねぇ、面白すぎて笑いを堪えるのが大変だったって言っていたよ? 普段はそうは見えないけれど、『流石父上の従兄弟にして幼馴染、そして親友であらせられる方。今にも亀裂が入って崩壊しそうな危険極まりない笑顔の迫力はともかく、容赦ない毒舌は本当に父上そっくりでしたよ』だって。君が私以外の人間に対してそんな風に怒ったのは初めてなのではないかね?」


 ……はぁあ? 

 なんだ、どういう意味だ? 私は従兄弟殿のような人格破綻者ではないぞ? 何故そのような最大級の侮辱を受けねばならぬのだ。


「は……馬鹿な。私がそのような……」

「君、昔から無駄に忍耐強いけど脆い部分は脆いからねぇ。それにしても怒りのあまり興奮しすぎて倒れるなんて、間抜けにも程がある。自分の老いを自覚してもう少し自重したまえ」

 

 従兄弟殿は爽やかな笑顔で「まぁもう一度同じことをして倒れたら、今度は私が現場にすぐさま駆けつけて指差して嘲笑ってあげるよ」と腹立たしいこと極まりない脅しをかけてきた。もう本当に今さらではあるが、貴様も貴様の息子も人としてどうなのだ? その神経。そして貴様も私と同い年だろうが。なんだその上から目線の物言いは。私より艶々した若い見た目であっても……ああ、中身が老いも逃げ出すほど邪悪だからか! そのせいでそんなに元気なのか、貴様!

 

「従兄弟殿よ、貴様……」

「ああ、そうだ。ディラン、あの馬鹿の妻君と愛人についてだけれどね。妻君は死んだ、愛人は投獄されて裁判とその後の処刑待ち。当主である馬鹿も処刑を免れることが出来ない。そしてシュレット伯爵家は爵位を剥奪される……のだけれどねぇ? 馬鹿の娘――君の姪についてだが、事が片付くまでは君の管理下に置いておきたまえ。手続は既に君の息子がやっている」

「は?」


 ちょっと待て、従兄弟殿。

 人の言葉を遮るな! そして一気にとんでもない話を語ってくれるな! メルフィナ義理姉上が亡くなられただと? そして愛人……パウラとかいう平民の小娘だったか? それが投獄されている上処刑待ちとは一体どういう……?


――いや、待て。

 横領の実行犯ではない愛人が投獄されて、《裁判》と《処刑》待ちだと?


「従兄弟殿!! まさか……ぶっ?!」

「うるさいよ、ディラン。君は一応丸二日間も眠りこけていたのだからね、興奮するのは医師の診察を受けてからにしたまえ」


 ぐりぐりと枕を! 枕を顔面に押し付けられっ! こ、呼吸が!! 口と鼻に的確且つ容赦なく枕がめり込んできて、呼吸がぁっ!!


――意識が再び夢の世界へ旅立とうとしたとき、ようやく枕が離された。押し付けていた枕を無造作に放り投げ、なぜかあらぬ方向を向いて不機嫌そうに煙管を咥えている従兄弟殿……貴様なぁああ!!  


「ぶっ、ぐっ、ぶはっ! はっ……、き、貴様! 枕を顔に押し付けるな、窒息するわ! というか私が興奮するのは全て貴様の言動のせいだ、従兄弟殿! あと少しは人の話を聞け!」

「何を言っているんだい、君の話なら十分すぎるほど聞いているよ。だからこそ…………ふむ、来たね。ではディラン、今日はこれでお暇させていただくよ。また会いに来るから、それまで精々養生しているのだね」

「は……? 従兄弟殿、待て!」


 全く説明らしい説明を受けていないぞ?! 私が倒れてから一体何があったのだ! 推測はできるが……知っているなら説明していけ!!


「ここ数日、君のせいでかつてないほどに疲れた。この借りは倍にして返してもらうから覚悟しておくといい」

「はぁ? 何を……」

「ではね、ディラン。その間抜けな顔、ルクレシア殿に見せて愛想を尽かされないようにしたまえよ」


 椅子から立ち上がり身を翻した従兄弟殿は、私の呼びかけなどまるで聞こえていないかのような様子で背を向けたまま軽く手を振り、扉を開けた。

 扉の先にはちょうど同じ瞬間に扉を叩こうとしていたのか、中途半端な位置に手をかざしたまま驚いた表情を浮かべている侍女と、重そうな鞄を提げた見覚えのある医師が。

 そして、


「ヴィリス公爵閣下? もうお帰りで…………、ディラン様?!」

 

 いつも通り美しく、物静かな表情で言葉を紡いでいた妻。

 しかしどんなときでも冷静さを失わない彼女らしくもなく、従兄弟殿に最後まで挨拶せずに大きく目を見開き声をあげて寝台へ……私の元へ駆け寄ってくる姿に、「はて、これはやはり夢か?」と思ってしまった。彼女が走る姿を見たのも、あんな風に声をあげるのを聞いたのも、結婚して以来初めてだ。


「ルクレシア?」

「ディラン様……!」


 倒れこむようにして枕元へ跪き、白い手で私の頬に触れる。ひやりと冷たい指先の感触に思わず眉を寄せてしまった。不快だったわけではなく、心配になったのだ。頬に触れる冷たい指先は、私の名前を呼んだ声と同様に震えている。

 

「ルクレシア、どうしたのだ? 随分と手が冷たいが……」

「……ディラン様は、温かいですわ。温かい……本当に…………」


 様子がおかしい、とは思ったが、ルクレシアは私の内心などお見通しだというように微笑んだ。確かに年をとってはいるが、初めて会った頃とまるで変わらない――むしろより美しくなったその笑顔。    

「ルクレシア」

「申し訳ございません。ディラン様のお目覚めが待ち遠しく……大丈夫だとわかってはいたのですが、それでも。いつまで経っても貴方に相応しくない妻で恥ずかしい限りですが、今日だけは大目に見てください」

「そんなことはない。貴女は私には勿体無いほど素晴らしい女性だ。ああいや、そうではなくてな……」


 柔らかく細められた瞳から溢れた透明な雫が、彼女の頬を伝い零れ落ちる。

 美しく微笑む唇も微かに震えていて、これ以上は何も語れないと言っているかのようだ。

 妻の微笑みなど見慣れたはずだが、こんな風に微笑む彼女を見たのは初めてで、情けない話だが本当にどうしたらいいのかわからない。


「心配をかけた……のだな? すまない、ルクレシア」

 

 小さく首を振り、ルクレシアは小さな声で答えを返してくれた。


「いいえ……いいえ。貴方が謝ることなどありません。……おはようございます、ディラン様。良かった、お目覚めになられて……本当に良かった……」


 ただ待つことがこれほど恐ろしかったことはありませんと、そう言って後はもう言葉にならなかった。

 声をあげるでもなく静かに涙を流し続ける妻の細い肩を妙に重く動かしづらい腕で抱き寄せて、結い上げられた髪をそっと撫でる。医師と侍女を待たせているが、この場合は仕方ないだろう。

 

 泣かないでくれ、ルクレシア。泣く貴女を初めて見たが、こんなにも心が苦しくなるとは思ってもみなかった。とりあえず私が全面的に悪いのだろう、謝る、もう貴女に心配をかけないと誓う。だから泣かないでくれ。従兄弟殿と母上相手にはさんざん泣き喚いて絶叫したことはあるが、誰かを泣かせたのは初めてで……特に貴女にはどうしたらいいのか、全く分からない。  

 


 必死に妻を宥めていた私は、従兄弟殿がどんな顔をして私とルクレシアを眺めていたのか、そして何を思って無言で部屋から出て行ったのかはわからなかった。それはいい、仕方がないことだ。泣く妻と傍若無人な従兄弟殿、秤にかけるまでもなく妻の方が大事なのだから、従兄弟殿に注意が向かないのは自然の摂理といってもいい。

 しかし、『この借りは倍にして返してもらうから覚悟しておくといい』という不吉な言葉をすっかり忘れていたのは……私が悪いのだろうな。ああ、そうだろうな!! 貴様の性格を知っているくせに油断していた私が悪いのだよな!! どう考えても一方的すぎる借りな気がするが、従兄弟殿の行動に対して私に拒否権など存在しないものな!!


――警邏隊本部で倒れ、そして目覚めてから二日後。


「やぁ、ディラン。この間の借りを返したまえ」

「はぁ?」


 朝から正装して屋敷へやって来た従兄弟殿の強襲に遭い、問答無用で正装を着させられて馬車に拉致された。そしてそのまま王城へ……貴様ぁ!! 何故に王太子殿下と面会することになっているのだ!! せめて事前に説明しろ、説明を!! にこやかに笑うな、この性悪外道め!! 


 騒動と事件。過去と未来と現在。

 細い糸で繋がってはいるが、大多数の人にとっては無関係なこと。そしてごく少数の人にとっては、とても無視できない重要なこと。

――だからといって、どうということでもないのだけれど。

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