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変化(3)


「本当に困っているんですよ」


 全く困っている様子のない、心底楽しそうな笑顔でカインさんは言った。


「いえね、私はこれまでずっと王城の典礼関係の部署にいたのです。そこでしがない一文官として、公式行事や祭典の計画と準備を行なっていたわけでして。はっきり言って、すごーく畑違いなんですよねぇ、今回の人事。そりゃあ学院時代は父上の命令で法務関係に力を入れて勉強していましたが、あんまり興味ないんですよ、あの分野。だから文官試験のときも希望役職に一つも法務関係を入れなかったというのに……困ったものです」

「はぁ……」


 自分でも間抜けな返事だなぁと思ったけど、そうとしか返せない。

 困っているんですよと言う、きらきらとした笑顔のカインさん……の、斜め後ろにひっそりと控えている、サラさんの視線と纏う空気が……視線と空気が、こ、怖すぎる……。 


「思慮深い王太子殿下のことですから私ごときを推薦してくださったのには何か特別なお考えがあるのでしょうが、小心者の私としては宰相閣下が私の失敗を手ぐすね引いて待ち構えているようで恐ろしいことこの上ないのですよ。あの方、絶対に私が失敗して失脚するのを楽しみにしていますから。そもそも殿下が一体どのような説得をなさったのかは私のあずかり知らぬところではありますが、宰相閣下は今回の推薦、かなり渋ったんじゃないですかねぇ。いかに父上と仲が悪いからとはいえ、何も息子である私まで目の敵にしなくてもいいと思うのですけれど。まぁ、私としても任命されたからには微力ながら精一杯務めさせていただこうと思ってはいるのですが、前任者からまともに引き継ぎすらできていないのに、あれやれこれやれと上の方たちが煩くて……。もう本当に、泣きたくなるのを堪えて懸命に駆けずり回っている日々なのですよ」


 溜息交じりにそう告げるカインさんを、サラさんが冷ややかに……まるで「嘘つけ、この野郎」とでも言いたげな表情で睨んでいる。ううん、あの礼儀正しくお淑やかなサラさんが、まさかそんな柄の悪い言葉を使うはずがない。ありえない……はずなんだけど、でも……。

 それに対して睨まれている側であるカインさんはといえば、『泣きたくなるのを堪えて懸命に駆けずり回っている日々』を送っている人の顔とは思えないほどに上機嫌且つにこやかなまま、サラさんの冷え冷えとした視線と空気を完璧に無視している。それが一層、サラさんの怒りを煽っているような……。

 

「警邏隊の総監というのはですね、それなりに権力があって立派な名称がついている分、なかなか厄介な立場でして。王都内の治安維持を取り締まっていますからねぇ、好む好まざるとに関わらず、甘い蜜も苦い毒も向こうから勝手に集まってくる立場にあるのですよ。その分『痛いこと』をしてしまう方も歴代に何人かおりましてねぇ……。まぁ総監と申しましても所詮人間ですからね、差し出された美味しい餌についつい食らいついてしまったら、ふと気がついたらいつの間にか自分の体を自分で食い荒らしていた、なあんてことも今まで度々ありまして。まったくもう、本当に困ったものです。なにぶん私は世間知らずの若輩者ですから、色々ありまして。私なりに頑張ってはいるのですが、上の方々はなかなか納得してくださらなくてねぇ」


 難しいものです――と、笑顔で言葉を切るカインさん。にこやかな微笑にはそこはかとなく艶やかさ……というか、大人の色気のようなものがある。

 楽しそうな顔のままで愚痴られることに戸惑いつつ、呆気に取られたまま相槌を打つ。ええと、どういう風に反応すればいいんだろう、これ。

 サラさんがあれだけ分かりやすく警戒心と悪感情を剥きだしにしている相手ではあるし、何より面会前に忠告されたこともある。迂闊なことは言えないだろう。でも……。

 あれこれ考えるわたしをよそに、ベッドの傍にピンと背筋を伸ばして姿勢よく立っているカインさんは真意の読めない笑顔を浮かべたままだ。どうして開口一番、自分の仕事の愚痴らしきものを言ったのか。わたしは一体、どう反応するべきなのか。ぐるぐる考えても、「これが正解だろう」という答えは出ない。

 こういうとき、ちゃんと対応できない自分を駄目だなぁと心底思う。貴族の人たちとの一対一の会話を避けていた、その結果がこれだ。ああもう、本当にどうすれば……。


「お仕事、大変なんですね……」


 色々考えながらも、結局当たり障りのない言葉しか返せない。

 でもカインさんはにこやかな表情を崩さないまま小さく首を傾げて、「まあそうなんですがね」と続けた。


「殿下はもっとお忙しくていらっしゃいますから、あまり愚痴など言っていられないのですよ。未だ臥せっておられる陛下の代理で多く国務をこなす傍ら、今回の事件についても陣頭指揮をとっておられますから」

「はぁ……」

「しかし働きすぎはよくありません。何事も超えてはならない限界というものがあるのです。そう思われませんか? 使者様」

「え。はい、それは……」


 暗い室内を明るく照らす照明。暖かなその色を反射して、カインさんの茶色っぽい金色の髪が柔らかく光る。

 鮮やかな紫色の瞳を細めて、優しい声で、楽しそうな笑顔でカインさんは言葉を紡ぐ。十分という短い制限時間などまるで気にしていないかのような、ゆったりとした口調で。


「殿下は責任感が人一倍強くていらっしゃる。精神的にも肉体的にも強靭であり、それは確かに素晴らしいことですが……ねぇ、使者様。弱い部分のない人間などいませんよね? 強く見えるのであれば、それはそう見せているだけでしょう」


 曇りのない紫の瞳が、真っ直ぐにわたしを射抜く。

 綺麗な笑顔のまま、変わらない口調で――でも、強い視線を向けられる。


「心に迷いのない人間など人形と同じ、何の価値もない存在です。いえ、人形の方がましですね。人形は意思なきことに意味がありますが、人間は意思あることに意味があるのですから。

 ……使者様、今はお辛いでしょう。しかしどうかその御心をもう少し、外側に向けてくださいませんか?」

「……え?」


 笑みの形に吊り上った薄い唇。カインさんの笑顔はとても綺麗で穏やかなままなのに、向けられる視線は鋼のように強く、紡がれる言葉はとても真摯だった。


「――閣下、それは……」

「まぁ、私ごときが使者様に対してお願い申し上げることではありませんがね。……あの事件後も王太子殿下はすこぶるお元気で、もう少し休まれてもいいのにと思わず進言したくなるほどには熱心に仕事をされていらっしゃる。殿下は昔から臣に弱ったところを見せてくださらない方ですからねぇ。私やこの優秀で心優しい侍女殿を含めた他の者たちは、殿下の御心のうちを推測することしかできません。おまけに分かりやすく落ち込まれるような方でも、周囲の者に八つ当たりをされるような単純な方でもありませんから、結局私たちごときには何も言えないのですよ」


 思わずと言った風に声をあげたサラさんを遮るようにして、カインさんは一気に言い切った。その言葉を聞いて、それまではただただ冷たいだけだったサラさんの顔に、一瞬だけ焦ったような、何かを恐れるかのような表情が浮かんで……そして、すぐに消える。

 ……サラさん?

 視線で問いかけるも、彼女はいつも通りの淡々とした無表情に戻っていて答えてくれない。どうしてあんな表情をしたのか、そしてどうして結局黙っているのか。分からないまま困惑してカインさんを見上げると、彼は視線を優しく和らげて微笑んだ。


「……使者様、あと二週間です」

「え?」 

「二週間後。それまでに一度、王太子殿下としっかりお話なさってください」

「は……? えっと、それはどういう……」

「繰り返しになりますが、ヴィリス公爵家の次男ごときが使者様に向かってこのような願いを口にすること、分不相応な行為と重々承知しております。ですがどうか殿下と一度、しっかりとお話なさってくださいませ」


 不意にカインさんが僅かに身を屈めて、わたしに顔を近づける。

 ふわりと香る、深く甘い香り。サラさんのつけている爽やかな柑橘系の香りとも、殿下の纏う優しく甘い花の香りとも違う――とろりとした蜜のような、艶やかな香り。


 驚く間もなく、耳元で小さく囁かれる声。

 早口で紡がれた言葉を耳で聞き、そして頭で理解する前に、香りはするりと傍から離れた。


 ……金糸で鮮やかに縁取られた黒い衣装の襟首を、がしっと掴んだサラさんの手によって。


「閣下!! 何をなさいます!」

「おお、怖い怖い。そんなに目を吊り上げて怒らないでくれるかな。綺麗な顔が台無しだよ?」

「戯言を! ハルカ様に何を……!」

「少しよろけてしまっただけだよ。嫌だねぇ、これだから年は取りたくない。君も気をつけた方がいいよ、何せ私や私の妻よりも年上なんだから。妻も最近、しょっちゅう何もない所でよろけては侍女らに迷惑をかけていてねぇ」

「閣下の奥方様の『それ』は昔からで、しかもご趣味でしょう?! 閣下も奥方様も揃って悪趣味でいらっしゃいますからね! そうではなく、理由もなくハルカ様に触れないでくださいまし!!」

「触れてなどいないよ、恐れ多い。そんな身の程知らずな真似はしないよ。まぁでも君が私にお説教したいっていう気持ちは分かったから、とりあえず黙ってくれないかな。君がそうやって子犬のように吼えていると、肝心の使者様に対する謝罪ができないのだけれど。私の声は君の声みたいに甲高くも大音量でもないのだよ? 間近でそう大声で吼えられるとねぇ、いかに綺麗な君の声とはいえ、耳がおかしくなりそうだ」

「…………っ!」


 ギシリと音がしそうなほどに不自然に強張った表情で、サラさんが掴みかかるようにしていたカインさんの襟首から手を放した。そして元の無表情に戻るとわたしに向き直り、無言で侍女服の裾をもって、深く礼をする。


「……お体の優れぬハルカ様の前で不必要に声を荒げてしまい、誠に申し訳ありません。後でこの無礼についての処罰はいかようにもお受けいたします。ですが、その前に……」

「はいはい、その前に私が退室しないといけないんだよね。分かっているからその綺麗な顔で睨まないでくれるかなぁ、怖いったらない。 

 ――申し訳ありません、使者様。私の不注意によってご不快な思いをさせてしまったこと、深くお詫び申し上げます。ですがこの侍女が子犬のようにきゃんきゃん煩く吼えるので、今日はここまでにいたしましょう。この無礼はまた日を改めて謝罪させていただきますので、どうかお許しください」

「は……、はい……」

「閣下!」

「わかった、わかった。そう金切り声をあげなくてももう退室するよ。それでは使者様、今日は私ごときのためにお時間を割いていただき、本当にありがとうございました。失礼いたします」


 とても謝罪をしている人の顔とは思えない、悪戯が成功した子どものように無邪気な笑顔で、カインさんは優雅に一礼して退出していく。

 ……正確には、氷のような怒気も顕わなサラさんに引き摺られるようにして追い出されていったんだけど。サラさん、偉い人の襟首つかみ上げるような真似して大丈夫なのかな……。それに、『処罰』って。そりゃ、サラさんの滅多にない大声には驚いたけど、『処罰』なんて大それたことをするほど怒ったわけでも不愉快だったわけでもないのに。


――それは、カインさんについても同じなんだけど……。


 二人が出て行き再び静まり返った部屋の中で、先ほどカインさんに囁かれた言葉を頭の中で繰り返す。


 早口の言葉。

 あの言葉を言うために、カインさんはわたしに会いに来たのだろうか。

 彼は『二週間後までに』と言っていた。それまでに一度、殿下としっかり話をしてください、と。


『貴女は何も知らない。貴女の無知が貴女を苦しめる。けれどそれが、他者にとっては救いとなるでしょう』


 楽しそうな紫の瞳。

 カイン・ヴィリス――殿下と……そしてわたしにとっても、味方ではないらしい人。

 サラさんがあれほど分かりやすく警戒していた相手だから、言われたこと全てを鵜呑みにするのは危険なんだろうけど……。


『花の名をもつあの騎士を救ったように、王太子殿下も救って差し上げてください』


 カインさんにどういう意図があるのか、なんて分からない。

 分からないけど、でも……あの真っ直ぐな視線と、真摯な言葉。それは多分、彼の本当の気持ちだと思う。

 サラさんが警戒するような相手。そんな人が、どうしてわたしにあんな言葉を? それに、わたしが殿下と話をしたところで、一体何ができるっていうんだろう。

 

 殿下は墓石の前で話した日の後も、毎日わたしの部屋へやって来る。大抵は朝、ほんの短い間だけ。わたしは眠っていて会えないときもある。そんな日はサラさんから後で殿下の来訪があったことを聞き、そうでなければ、やって来た殿下は軽い挨拶をして体の具合を聞き、それから「無理はするな」と優しい顔をして言って、そしてサラさんにいくつか指示を出して去っていく。

 わたしの体調があまり長話をできるような状態じゃなかったというのもあるだろうけど、殿下自身、カインさんが言っていたようにとても忙しいからだろう。それでもわたしに会いに来てくれるのは、後見としての義務というより……多分、殿下の優しさと責任感からだ。

 

 拒みたければ拒めばいい、憎みたければ憎めばいい――そう言われても、殿下のことを嫌いになることはできない。胸の中が苦しくなることはあるけれど、それはアディートに止めを刺した殿下が憎いから、ではない。ただ、うまく言葉にすることができない感情が渦巻いて、苦しくなる――それだけなのだ。

 

 わたしは殿下に、何ができるんだろう。

 ……カインさんは、わたしに何を望んでいるのだろう。

 わたしの無知を指摘し、それがわたしを苦しめる、けれど他の人にとっての救いとなると……そう言ったけど。花の名をもつ騎士……これはきっと、アディートのことだ。でも、アディートを救ったように殿下も救ってくださいっていうのは、一体……? 


 ずきりと未だに鈍く痛む頭を片手でおさえながら考え込んでいると、不意にノックの音がした。


――サラさんかな。


 処罰どうこう、という話を思い出して少し憂鬱になりながら、「どうぞ」と声をかける。

 サラさんに処罰だなんて、想像もできない。でも、サラさんって真面目だからなぁ……。処罰なんて必要ないよってこと、上手に説明しないと納得してくれなさそうだ。確かに普段のサラさんからすれば大声ではあったけど、カインさんが茶化していた……多分茶化していたんだろうけど、彼が言っていたような「金切り声」とか「大音量」って言うほどではなかったんだけどな。

   

 もやもやと考えていたわたしは、扉が開いて現われた人物を特に注視していなかった。その人が声をかけるまで、不覚にも入室してきたのはサラさんだと思い込んでいたのだ――足音が全然違うにも関わらず。


 現われたのは、先ほどカインさんを引きずるようにして退室していったサラさん、ではなく。


「やあ。気分はどうだ? ハルカ」

「……っ、殿下……?」

「うん? 驚いた顔をしてどうした。私の顔に何かついているか?」


 カインさんとは種類が違う、けれどとても綺麗な笑顔を浮かべた、殿下だった。


 歯車は個々で動き、互いに噛みあうことで一つの大きな動きを作り出す。

 その歯車をまわそうとするのは、真意の読めぬ男の言葉。

 それが何をもたらすのか――彼女は知らない。

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