掌の中の永遠(2)
命は何処からやって来るのだろう。
そして、何処へ行くのだろう。
形がなければ命を認識できないわたしには、全く目に見えない、会ったこともない『光の神』が具体的にどういう存在なのか、よく分からなかった。
「――ここは、かつて『神の寝床』と呼ばれていたのですよ」
白いテーブルの上に広げられた、大きくて分厚い本。
どのページにも、わたしには記号のように見えるレガイア文字がぎっしりと書き込まれている。
ところどころに挿入されている地図や挿絵をひとつひとつ、丁寧に指差しながら、レスティアナ様がゆっくりと説明してくれた。
「ここ? って……どこですか?」
少し歪んだ正方形状の地形を書き表した地図を、白い指先でそっと指差すレスティアナ様に、思わず聞き返した。地図の下には小さく地名らしきものが載っていたけれど、何て書いてあるのかは全然わからなかった。
レスティアナ様は小さく微笑んで、綺麗な声で「ここですよ」と繰り返した。
「『ここ』――王都エリツィアのことですわ。正確には、王都一帯にある地下部分のことですけれど」
「地下? 王城だけじゃなくて、王都一帯に地下があるんですか?」
「ええ。もっとも、地下部分が『神の寝床』と呼ばれていたのはこの国ができるより前のことで、今は学者の方や、神殿でも古参の者しか知らないようですわ。今は地下部分を含めて王都は全て王家の管理下にありますから、神殿の者が王都について何か口出しするようなことはできないのですよ」
「そうなんですか……」
婚姻、葬儀といった儀式や手続に関してはもちろん、魔物とそれに付随する様々な問題に対して、王家と神殿は不可分なのだそうだ。
でも、王家と神殿には壁のようなものがあるみたいだ。レスティアナ様は王女様だけど王位継承権はない。それは彼女が女だからではなく、金色の瞳をもつ巫女姫様だかららしい。王族としての義務よりも、巫女姫としての義務のために、レスティアナ様は正式には王家ではなく神殿に身分があるのだそうだ。
まだこの国について知らないことが多いわたしは、淡く微笑むレスティアナ様に、なんと言って話を続けるべきなのかわからなかった。
だから、とりあえず気になったことを口にした。詳しいことを知らないくせに、神殿と王家の確執のようなものに突っ込んだ口をきくわけにはいかないから。
「……でも、どうして地下部分が『神の寝床』と呼ばれていたんですか? 神って、光の神のことでしょう? 光の神は、人の手が届かない場所にいるんじゃないんですか?」
地上全てを見渡せる空の高み――光の神はそこにいると、他ならぬレスティアナ様自身から教えられた。
すると、レスティアナ様は整った眉を少し下げて、困ったような顔をして微笑んだ。
「ええ、そうなんです。だからこそ、わたくしたち神殿の者も、地下部分については知らないことが多いのですよ。先々代の巫女姫は研究熱心な方で、『神の寝床』について詳しく調べていらしたから、古参の者はいくらかの伝承を知っているのですけれどね。本当なら、わたくしたちは『神の寝床』という呼び名は使ってはいけないのですよ」
「……? どういうことですか?」
「『光明なき地上ではない場所で、光の神は静かに眠る。両の腕に小さな光を抱いて、長旅を終えた彼らに安らかな夢を与える。次に彼らが目覚めたとき、幸せな生を歩めるように、彼らとともに安寧の淵に沈む』――この文句から由来する呼び名だからですわ。これは神殿に残っている伝承のひとつで、わたくしたち――レガイア王国の光の神殿とは違う、別の教えを説いているものですの。そして、その教えを広めていた一族は、レガイア王国が建国された際に滅んだと言われているのです。地下部分が王家の管理下にあるのは、建国の際にこの国の最初の巫女姫となった方と王家との間でいくつかの取り決めがなされたのですが、そのときに『神の寝床』という呼称の使用を禁止するという事項が含まれていたからだそうですの。わたくしたちにとって光の神は『美しい光の化身』ですけれど、彼の一族にとって光の神は『偉大なる母』という定義があったようですから、教えの違いを嫌ったのかもしれません。それに、『両腕』で『小さな光を抱いて』『眠る』という表現の仕方は、どうしても魔物を連想させますでしょう?」
淡いピンク色の唇が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。語りかけるというよりも、美しい音楽を奏でるように。
稀有な金色の瞳をもつレスティアナ様は、さすが『巫女姫』様というかなんというか――とても綺麗な上に、どこか浮世離れした雰囲気を纏っていて、長く向かい合っていると不思議な気分になってくる。わたしより年下なのに、老人のように達観したような様子を見せたかと思えば、小さな子どものように無邪気な笑顔を見せる。彼女の兄にあたる殿下とは違った意味で掴み所のない、とても変わった女の子だ。
あまり『神』という存在と密接に関わる生活を送ってこなかったからか、わたしは『光の神』というものがどういうものなのか、たくさん話を聞いてもいまいちピンとこない。でも、レスティアナ様や神殿の人たちは、自分たちの存在の根幹に『光の神』が深く関わっているような言い方をする。
この世界では、死んだ人は小さな光となって、光の神の御許に行く長い旅をするのだという。
それは結局、何処に向かう旅なのだろう。
よくわからないまま、わたしは『光の神の使者』という役割に甘んじている。はっきりとした形のわからない、遥か高みにいるという神の言葉を伝える者として。
光の神の外貌に対する質問は教えの中でも禁句とされているから、「神の御許にいた」という出鱈目な設定について誰も詳しく突っ込んで聞いてこないのは幸いだった。
でも、ときどき苦しくなる。
神様について何も分からないわたしが、『光の神の使者』なんてやっていてもいいのかな。
今さらどうしようもないことだけど、ふとした瞬間に溜息をつきたくなる。
命は何処からやって来るのだろう。
そして、何処へ行くのだろう。
光の神が空の高みにいるというのなら、死んだ人の命はやがて、小さな光になって空へと昇っていくのだろうか。
高く、高く――生きている人には絶対に手の届かない、遠い場所へ。
「……あら? もうこんな時間。ごめんなさい、ハルカ様とお話するのが楽しくて、いつも長くなってしまって」
レスティアナ様が壁際にある柱時計を見て、慌てて席を立った。つられてわたしも立ち上がり、扉に向かう彼女の後を追った。
神殿の奥にある巫女姫の部屋で話すとき、アディートはいつも扉の外で話が終わるまで待っていた。殿下がいるときはアディートも一緒に部屋に入ってきたけど、わたしとアディートだけのときには、彼はいつも部屋の外にいて決して中に入ってこなかった。
アディートはわたしにたくさんのことを教えてくれたけど、光の神についての話は、必要なとき以外に話すことはなかった。光の神についてわたしに教えてくれたのは、レスティアナ様と殿下だった。
でも、二人ともわたしの質問には少し困った顔をした。
神様は何処にいるの?
神様はどんな姿をしているの?
神様にはどんな力があるの?
神様は――どうしてわたしを……『三谷春香』を選んで、この世界に連れて来たの?
最後の質問は、したくてもできなかった。殿下にもレスティアナ様にも分からないことだったから。
だけど、アディートは優しく笑って言ってくれた。
「私は、ハルカがこの国に来てくれてとてもよかったと思っているよ。君にとっては残酷なことを言っていると思うが……ハルカが今、私のそばにいてくれることが、とても嬉しい」
低い声、優しい口調。
頭を撫でてくれた、大きくて温かな手。
薄い青色の瞳は、凛としてしてとても綺麗だった。
――会いたい。アディートに会いたい。でも、彼は何処にいるんだろう――
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「――ここまで来れば、大丈夫だな」
小さな呟きに、俯けていた顔を上げた。薄暗い通路の中、いつもよりずっと近い場所にある殿下の顔には、何の迷いも窺えない。
一定の間隔ごとに両側の壁に取り付けられたランプのようなものが、青白い明かりをで周囲をぼんやりと照らしている。灰色の石造りの通路は脇に横道があったり複雑に枝分かれしていたりして、地図がなければすぐに迷ってしまいそうだった。そんな中、殿下はわたしを抱き上げたまま、迷いのない足取りでずんずん歩いていく。しんと静まり返った通路には、わたしと殿下以外には誰もいないようだった。
部屋を出る前に「舌を噛まないように口を閉じていろ。それと、何があっても声もあげるなよ」と言われていたから、ずっと黙っていたんだけど。殿下がわたしに話しかけたってことは、もう声を出してもいいのかな。
「……殿下?」
「うん? どうした、ハルカ」
小さく呼びかけると、すぐに返事が返ってきた。僅かに首を傾げた殿下の動きにつられて、彼の長い金色の髪がさらりと揺れて頬に触れる。俗に『お姫さま抱っこ』と呼ばれる抱かれ方をされているわたしは、真っ直ぐに見つめてくる翡翠の瞳に急に羞恥心がこみ上げてきた。今までぼんやりと思考の淵に沈んでいたけれど、よく考えたら、今のわたしって相当恥ずかしい状態にあるんじゃないだろうか。
「えっと、あの……。もう、声を出してもいいの?」
「ああ。この通路はごく限られた者しか知らないし、通れないようになっているからな。……ハルカ、舌などは噛んでないだろうな?」
「それは、大丈夫だけど……」
「そうか。……よかった」
唇をつりあげて笑う殿下は、いつもと変わらない様子だった。部屋を出る前に一瞬だけ見せた、人形のように無機質な表情はどこにも見当たらない。
いつになく密着した状態にあるせいか、服越しに殿下の温かな体温と仄かに甘い香りを感じて、気分が落ち着かない。
サーカス団員でもないのに、私を抱えた状態で窓から飛び降りるという荒業を成し遂げた殿下は、そのまま近くの木の枝に飛び移ってあちこちを移動した。結構な時間、わたしを抱き上げたまま移動した殿下は、それでも息ひとつ乱していない。見た目はそんなにがっしりとしていないのに、やっぱりちゃんと鍛えているだけのことはある。わたしを抱き上げている殿下の腕は、服越しにもしっかりと硬い筋肉がついているのがわかる。
殿下にいきなり抱き上げられたときには驚いたけど、今のわたしの体力ではろくに歩けやしないと言われて渋々納得した。そもそも、殿下はやらなければならない仕事があるのを、こっそり抜け出す形でわたしを連れ出してくれているのだから、できるだけ彼の言うとおりにして負担を小さくしておきたい。
――アディートに会いに行こう、ハルカ。
わたしにそう言った殿下は、具体的に何処に行くのかを教えてくれなかった。逆に、「ハルカは何処にアディートがいると思う?」と問い返されて、思わず考え込んでしまったのだ。そうしたら、殿下は何故か窓から飛び降りるという手段によって、わたしの部屋から抜け出した。そういえば、殿下に退室時間を告げに来たのであろうサラさんが、殿下に向かって珍しく声を荒げていた気がしたけれど、二人がどういう会話をしていたのかはよく分からない。
薄暗い通路は、横幅が三メートルくらいあって、天井部分は暗くてよく見えないけど、高さも多分それくらいある。今はランプが取り付けられた場所を通っているけど、明かりがひとつもない真っ暗な道もあった。
とても複雑で入り組んでいるのに、殿下は慣れた足取りで迷わずに進む。コツコツと響く足音を聞きながら、わたしは小さな声で質問した。
「殿下、地図がないのに道がわかるの?」
「ああ。この通路は慣れているからな。少々入り組んだ造りになってはいるが、王城内よりは単純だ」
「そっか……。
……あの、それならもう、下ろしてくれたら自分で歩けるよ?」
「それは駄目だ」
いくらなんでも、ずっと殿下に抱き上げられたままっていうのは落ち着かない。そう思って、なるべくさりげなさを装って言ったのに、殿下は渋い声で即座にわたしの提案を却下した。
「ハルカ……。お前、自覚はないのか? 今にも倒れそうな顔色をしていて何を言う。ここ最近はろくに食事をとっていないんだ、体力もかなり落ちているんだぞ」
「え……。でも、殿下、重いんじゃ……」
「重い? まさか」
くすりと殿下が笑う。綺麗な顔に、わたしを馬鹿にするような、悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「お前は羽根のように軽いよ。むしろ、もう少し重くなるべきだな。そう心配せずとも、ハルカ程度なら一日中抱えていても問題ない」
「い、一日中って……」
それはさすがに無理なんじゃないのかな。……でも、殿下なら大丈夫なのかも。
長身だけど細身の殿下は、綺麗で品があるせいか、ぱっと見はそんなに体を鍛えているようには思えない。でも、力技では騎士団の中で殿下に敵う者はいないと、アディートが以前ぼやいていた。「怪力王太子」という不敬罪一歩手前の隠れた呼び名があるのだと、こっそりわたしに教えてくれたのは別の騎士さんだ。筋肉隆々のその人は、かつて殿下に稽古の最中、訓練用の剣ごと腕をへし折られたことがあるらしい。
そんなことを思い出しながらも、やっぱりずっと抱き上げられたままは嫌だなぁと思っていたら、殿下は更に言葉を続けた。
「それに、ここは一応、あちこちに仕掛けがある道だ。慣れていなければただ歩くのも危ない。いいから、着くまで大人しくしていろ」
「仕掛け……?」
「ああ。侵入者対策に、色々な」
色々な、という部分での、殿下の妙に楽しそうな声になんとなく恐怖を感じた。特におかしなところはないように思えるけど、殿下が言う「単純」な造りはわたしや他の多くの人にとっては「とっても複雑」だ。進むことに集中するあまり、仕掛けに気づかずトラップにを発動させてしまう、なんてことも十分ありうるように思う。……一体、どんな仕掛けなんだろう。気になったけど、なんだか答えを聞くのも恐ろしい。
凛としていて姿勢のいい殿下は、歩き方も綺麗だ。上体は動かさないようにして、滑るように真っ暗な道を進む。男の人に抱き上げられたまま、というのは気恥ずかしいけど、殿下の口ぶりではわたしを下ろす気はないようだ。
殿下が言うほど自分が弱っているとは思えない。でも、ここで食い下がっても絶対に殿下はわたしの言い分を聞いてくれないだろうし、わたしと殿下とでは歩幅も歩く速度も違いすぎる。正直、殿下の歩くスピードについていく自信はあまりない。殿下には今でも十分迷惑をかけているのに、これ以上足手まといになるのは嫌だ。抱き上げられている状態はかなり恥ずかしいけど、ここには殿下とわたし以外に人はいないようだし、彼の言うとおりにした方がよさそうだ。
「……じゃあ、もう少しの間だけ、お願いします」
「ああ」
殿下は小さく笑って頷いた。
わたしと殿下が今いる通路は、王城にある地下通路のひとつだ。
人通りの少ない中庭の片隅にある東屋の、テーブルの真下に隠し扉があることを、殿下のおかげで今日初めて知った。床の部分に敷き詰められた乳白色のタイルをいくつか殿下が蹴りつけると、音もなくタイルが動いて、地下通路の入り口が現れたのだ。
入り口になっていた東屋の床部分は、殿下がわたしを抱えたまま階段を下りている途中で、開いたときと同様、音もなく閉じてしまった。完全な暗闇に閉ざされても殿下の足取りは変わらず、すいすいと進んで行った。
わたしには周囲の様子がよく分からないような暗闇でも、殿下は全く恐れた様子もなしに足を進める。その迷いのない足取りから、どうやら彼は地下通路に通い慣れているらしい、ということが分かった。
広大な王城は、一見すると整然とした美しい造りになっているけれど、実際には迷路のように複雑な構造になっている。だから、王城に来る人はあらかじめ決められたルートを通るようになっているらしい。この国だけに限らず、お城や王族が暮らす場所というのは何処でもそうらしいけど、侵入者対策のために敢えて複雑な構造で造られているんだそうだ。それに加えて、この国の王城にはたくさんの隠し通路や隠し部屋があるらしい。殿下はそういった、王城の人々には絶対に見つからないルートを通って、ここまで私を連れて来てくれた。
……あ。殿下の脱走がいつも成功する理由が、なんとなくわかった気がする。殿下は王太子だから王城内の構造を全部把握していて、それを利用しているんだろうな。ううん、この場合は利用じゃなくて……悪用?
「……何か失礼なことを考えていないか? ハルカ」
「え?」
前を向いていたはずの殿下が、いつの間にかじとっとわたしを見下ろしていた。
「な……、なんのこと?」
見下ろしてくる翡翠の双眸からそっと目を逸らして誤魔化した。ものすごく何か言いたそうな、胡乱げな視線を感じる。なんとなく怖いから、敢えて無視した。
わたしは、殿下に口で勝てたことが一度もない。殿下にからかわれたり弄られたりしたときは、いつもアディートが助け舟を出してくれた。アディートが近くにいない今、わたし一人で殿下を言いくるめるのは無理だ。
「……まぁ、いいが。後でじっくり聞かせてもらおうか」
「…………」
どうやって逃げよう。
思わず顔をしかめたわたしに、殿下が小さく噴き出した。そのまま声をあげて笑い出す。
悪戯が成功した子どものような、心底可笑しそうなその笑い声に、単にからかわれていただけだと気がついた。
……人のことをいちいちからかうのが好きなんだなぁ、殿下は。くすくす笑う彼の顔は、本当に楽しそうだ。
「……殿下、笑いすぎ」
ぼそっと呟いても、殿下の笑いはなかなか収まらない。何かの発作みたいに小さく笑い続けている。何がそこまで面白いのか、わたしには全然分からない。
「殿下ー……」
「ああ、いや、悪い……。そういえば、随分久しぶりだと思ってな」
「久しぶりって……何が?」
「お前とこうやって会話することが、だよ」
暗い通路の中に、コツコツと一定のテンポで響く靴音と、よく通る殿下の声。
そこに混じるわたしの声は、少しだけ掠れている。
「……そうかな」
「そうだよ。お前は毎日顔を合わせても、ろくに私と向き合ってくれなかった」
怒っているわけではなく、悲しそうでもない、淡々とした口調。
殿下の声は、はっきりと聞こえる。
見上げた彼の顔は、何を考えているのか分からない、とても静かな表情を浮かべていた。
「殿下、あの……」
「『ごめんなさい』はやめてくれ。お前は私に謝らなければいけないことなど、何もしていない」
遮るように言われて、思わず唇を噛む。
何か言わなくちゃいけないと思うのに、殿下にかけるべき言葉が見つからない。言わなくちゃいけない言葉があるはずなのに、喉の奥につかえて何も出てこない。
殿下に言いたいことなんて、何もない。
ううん、何もないなんて――嘘だ。
でも、言葉が出てこない。どうすればいいのか分からない。
アディートに会いたい。
でも、アディートは死んでしまった。
それなら、何処に行けばアディートに会えるの?
殿下は本当にアディートに会わせてくれるの?
どれも殿下に言いたいことではあるけれど、彼がわたしに《言って欲しい》と思っていることとは違う気がする。
何か他に言うべき言葉が他にあるはずなのに、それが《何》なのか分からない。
困り果てて黙り込んでいると、殿下はふっと小さく息をついた。そして、小さく苦笑をもらす。
「……すまない。お前を責めているわけではないんだよ、ハルカ。だから、そんな顔をしないでくれ」
「そんな顔」って、今のわたしはどんな顔をしているんだろう。
困惑するわたしをよそに、殿下は小さく溜息をついて、不意に歩みを止めた。
「お前は私のことを嫌いになるかもしれないな。……私もあいつも、結局は他人ではなく自分ばかりを優先させるから」
言っていることの意味がわからず、眉を寄せる。
そんなわたしに更に苦笑して、殿下は「すまない」ともう一度謝った。
「……お前はどうしたいのかな、ハルカ。選択権はお前にあり、私はお前に何も強制するつもりはないんだよ。だが、僅かでもいいのなら――――」
何かを考えながら話していた殿下が、唐突に言葉を止めた。そして、わたしから視線を外して前方を見やる。
ほんの少し、殿下の纏う雰囲気が変わった気がした。
――どうしたのだろう。
そう思ってわたしも殿下が見つめている方向を見た。そして、はっとした。
緩やかにカーブしている道の先から、誰かがこちらに向かってきている足音がする。
ひたひたと、まるで裸足で歩いているような、一人分の足音。
「殿下、誰かがこっちに……」
「……ああ」
誰だろう。ここはごく限られた者しか知らないし通れない、とさっき殿下から聞いたばかりだ。それなら、こちらに向かっている誰かはその「ごく限られた者」のうちの一人なのだろうか。
殿下が政務を放ってわたしと一緒にいるところ見つかったら、かなり問題になるんじゃないか――慌てて殿下を見つめると、静かな声で「大丈夫だ」と囁かれた。
「もともと会うつもりだった者だから、心配しなくていい」
……え? それって、どういうこと?
――もしかして、と思い、心臓が大きく高鳴った。
殿下が会うつもりだった人。ありえないはずだけど、でも、もしかして――――
「――――エルリアス王太子殿下」
――道の先から現れた人は、わたしが期待していた人ではなかった。
王城や神殿にいる人の中で、殿下と関わっている人とはそれなりに顔を合わせたはずだけど、何故か初めて会う人だった。
「ウィルリィか。クルクスはどうした?」
「クルクスはオーレリアを探しに行っています。殿下、本日はどちらまでお出かけでしょうか? このウィルリィがお送りいたします」
ゆっくりと進んできたその人の全身を認めた瞬間、思わず小さく息を呑んだ。
殿下よりも背が高いその人は、黒い大きなフードを目深に被っていて、顔が全く見えなかった。フードから僅かに覗く女の人のように細い顎先と口の部分は、唇の部分を除いて、薄汚れた包帯でぐるぐる巻きにされている。手足についても同じように、手首と足首のあたりまで、薄汚れた包帯が無造作に巻かれていた。
奇妙に高い声は老人のように皺嗄れていて、そのせいでその人が男なのか女なのか、若いのか老人なのか、どれもはっきりとしない。殿下よりも背が高いから男の人だろうかと思うけど、包帯が巻かれていない手は、男のものにしてはとても小さくて華奢なように見える。
殿下に「ウィルリィ」と呼ばれたその人は、小さく首を傾げてわたしを見た。
「……闇によく似た色の瞳とは、珍しい方をお連れですね。殿下、本日は西に向かわれますか、それとも東ですか?」
「西だ。下らない口を利くな、ウィルリィ」
常になく険を孕んだ殿下の声。そっと見上げた殿下の顔には険しい表情こそ浮かんでいなかったけれど、彼は刃物のように鋭く硬質な眼差しで「ウィルリィ」さんを見つめていた。
殿下にあんな目で見られたら、わたしなら怖くて怯えてしまう。でも、「ウィルリィ」さんは全く怯えた様子もなく、淡々とした調子で「申し訳ありません」と答えた。
「では、西にお送りいたしましょう。到着地点はどこがよろしいですか?」
「ああ。……アディートがいる場所だ」
――アディートが、いる場所。
思わず、殿下の顔を見つめた。
綺麗な顔は無表情ではなく、何を考えているのかよくわからない、不思議な笑みを浮かべていた。でも、吸い込まれそうなほどに澄んだ翡翠の瞳は、わたしではなく「ウィルリィ」さんを見ている。
「……アディート様の?」
「そうだ。知っているだろう?」
戸惑ったような様子の「ウィルリィ」さんに、殿下は静かに笑う。
アディートの居場所。それは、何処なんだろう。具体的な場所を聞きたいのに、二人の間に口を挟むことができない。先ほどまでと少しだけ雰囲気が変わった殿下は、わたしが気軽に声をかけられる様子ではなくなっていた。威圧感とでもいうべきなのか、迂闊に声をかけられない空気を纏っている。
そうして、わたしの存在を無視するようにして、二人の間で会話が進んでいく。
「それはもちろん、承知しておりますが……」
「ならばいいだろう? お前は言われたことをすればいい。余計な詮索はするな」
「申し訳ありません。……ですが、殿下。よろしいのですか? お連れの方は随分と顔色が悪いようですが」
「お前は同じことを二度言われねば理解できないか? 余計な詮索はするなと言ったはずだが」
「いえ、少し気になったもので。申し訳ありません。……殿下もお疲れでしょうから、息抜きは必要ですね。例の事件はほとんど片付いたようで、何よりです。王子殿下方については、本当に残念でなりませんが」
「ウィルリィ、無駄口を叩くな」
「申し訳ありません」
楽しそうな雰囲気の会話ではない。でも、殿下と「ウィルリィ」さんは親密な仲なのか――「ウィルリィ」さんは殿下をあまり恐れていないようだった。殿下の声は相変わらず険を孕んだままで視線も鋭いのに、「ウィルリィ」さんは動じた様子もなく淡々と受け答えしている。
……この人は、何者なんだろう。アディートと同じように、殿下の側近の人? でも、初めて会ったし――それに、すごく怪しい格好をしている。
フードの奥、包帯に包まれた顔がどんなものなのかは分からない。こんな風にして体中に包帯を巻いている人を見るのは、何度か同行した魔物討伐のための遠征のとき以来だ。それに、薄暗い足元に目を凝らすと、「ウィルリィ」さんが裸足であることがわかった。どうして裸足なんだろう。この国の人は、平民でもみんな靴やサンダルのようなものを履いている。普段から裸足の人なんて、そんなにいないはずだ。――そう、たとえば、何か罪を犯した人を除いては。
「ウィルリィ」さんはまるで罪人のような格好をしているけれど、殿下の様子を見る限りは違うようだ。とはいえ、殿下は「ウィルリィ」さんのことがそんなに好きではないのか、鋭い眼差しを一瞬たりとも緩めない。
「……早くしろ、ウィルリィ。お前のために割く時間は私にはない」
「申し訳ありません、殿下。では、アディート様の元へお送りいたします」
なかなか話を切り上げようとしない「ウィルリィ」さんに、殿下の眉が不愉快そうに寄ったところでようやく会話が終了した。
アディートの元へ「送る」という言い方の意味がわからなかったわたしは、両手をゆったりと広げた「ウィルリィ」さんの口から、小川のせせらぎのような、不思議な音が流れ出したのを聞いて驚いた。
「……魔法使い……?」
殿下と会話しているときに聞いた声とは全く違う、高く、低く、緩やかに流れる水の音。明らかに人の声ではない、何重にも重なり合った深みのある音は、何度も聞いたことがある、この世界の魔法使いが唱える呪文だ。
魔法の才能のない人には決して唱えることができず、聞き分けることもできないという、不思議な呪文。それを扱うことができるのは、魔法の才能がある者――魔法使いだけ。
「ウィルリィ」さんは魔法使い? でも、変だ。王城仕えの魔法使いは皆、金糸で茨模様が刺繍された、とても立派な深緑色のケープを着ている。それなのに、この人は全然違うものを着ているし、立派とはいいがたい格好をしている。……どういうことだろう。
「――ハルカ、お前は知らなくてもいいことだが、気になるのであればウィルリィのことは後で説明する。だから、そうあれを凝視するな」
包帯が巻かれていない小さく華奢な掌に淡い黄色の光が集まって、徐々に大きな円を描き出すのを呆然と見つめていたわたしに、殿下がそう囁いた。
「魔法を発動している最中の魔法使いに注目してはいけない。精霊に魅入られる」
その言葉にはっとして、慌てて「ウィルリィ」さんから視線を外して殿下の方を見た。殿下は静かに目を細めて、じっとわたしを見つめる。
綺麗な顔に浮かんでいるのは、自信に満ち溢れた力強い笑顔。
「アディートに会いに行こう、ハルカ。――そして、もう終わらせよう」
……え?
「――それでは殿下、『使者様』、お気をつけて」
「ウィルリィ」さんの言葉が終わると同時に眩い光が視界を覆い、反射的に目を閉じた。
殿下に抱き上げられたままの体が一瞬、ふわりと浮き上がったかのような不思議な感覚に襲われる。
魔法に包まれていたのは、どれくらいの時間だったのだろう。
一瞬というには長く、待ち遠しいと感じるには短すぎる時間。
不意に、体に吹きつける暖かな風を感じた。
どこか澱んでいた地下通路の空気とは違う、清清しい空気。
吹きつける風には、殿下の体から匂う香りとも違う、柔らかな花の香りが混じっていた。
ざわざわと、草が風に揺れる音がする。遠くを飛ぶ、甲高い鳥の鳴き声が聞こえた。
先ほど視界を覆った眩い光とは違う、暖かさを伴った眩しさを感じて、閉じていた目をゆっくりと開く。
「……ここ、は……」
目の前には、たくさんの黒い大きな石が整然と立ち並んでいた。
よく晴れた青空の下、太陽の光を反射して、黒い石の表面は黒銀に輝いている。
石の周囲には、たくさんの花束と酒瓶、そして剣などが置かれていた。
「――――ハルカ、覚えているか?」
その石の一つ――そこだけ花畑のようになっている、一番多くの花や酒瓶が置かれた石の前で、殿下はようやくわたしを下ろしてくれた。
ずっと抱き上げられていたせいか、すぐには足に力が入らず、ぐらりと崩れ落ちかけたわたしを支えて、殿下は静かに言った。
「この場所だ。この場所が、アディートが葬られた場所だ。葬儀のとき、お前も花を供えただろう?」
大きな大きな石には、表面に白い文字でたくさんの名前と数字が刻まれている。
そこに、見知った名前があった気がした。
――ハルカがそう言ってくれたので、自分の名前が好きになれそうです――
赤い花と、青い花の名前。
ひとつは春に王都のいたるところに咲く花で、もうひとつは彼の故郷に咲いていた花だった。
体を支えてくれていた殿下の手を振り払い、よろめくようにして石に近寄った。周囲に置かれたたくさんの花を踏みながら、震える手で石に刻まれた白い文字の羅列の一つをなぞる。
すぐに覚えた。
レガイア文字は難しくて、単語もなかなか覚えられなかったけど、この二つの単語だけはすぐに覚えることができたんだ。
彼が綺麗な文字でお手本を書いてくれたから。
こんな男には似合わないでしょうと笑いながら、わたしに教えてくれたから。
「……アディート……」
硬い黒銀の表面に、深くはっきりと刻まれた白い文字。
【アディート・ルクス】――彼の、アディートの名前。
のろのろと後ろを振り返る。
殿下は静かな表情で、わたしを見つめていた。
「……殿下。アディートは、どこ……?」
喉の奥から搾り出した声は、風の音に吹き消されそうなほど小さかった。
でも、殿下ははっきりと答えを返した。
返してくれた。
「アディートはそこにいる。騎士として、アディート・ルクスとして生きた男の生涯はそこに刻まれている。
……ハルカ、アディートは死んだんだ。もう会えない。何処にもいない。お前の元にアディートは帰って来ない。――永遠に」
――ぐらりと、視界が大きく揺れた。
不意に頭を鈍器で殴られたかのような、強い衝撃があった。
アディートは死んでしまった。そんなことは分かっている。
アディートは、もうわたしの元に帰って来ない。そんなことは分かっている。
分かっているんだ。
でも、アディートを待ってしまう。彼は今、何処にいるのだろう。
何処にも。
何処にもいない。
アディートは死んでしまったから、この世界からいなくなってしまった。
もう、会えない。
二人であったかい家族を作ろうと言った、あの約束は。
「……で、んか……」
そして、視界が黒く染まった。
命は何処に行くの?
誰も答えを教えてくれなかった問いかけに、彼は一つの答えをくれた。
彼女が知りたくはなかった、唯一の答えを。




