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異世界から来た少女(2)

 

 

 わたしが生まれ育った日本から、全く違う世界に来た日。

 その日、わたしの目の前にいた美少女は、レスティアナ・エル・レガイアという名前の、レガイア王家の第1王女で、光の神の加護を受けた巫女姫様だった。

 レガイア王国で光の神に仕える多くの神官や巫女の頂点に立つ彼女こそが、わたしをこの世界に呼び出した人物だったのだ。

 

 彼女――レスティアナ様は、当時、まだ14歳。

 わたしには同い年くらいに見えたけど、後から実年齢を聞いてびっくりしてしまった。やっぱり西洋系の顔立ちの人は年上に見える。

 逆に彼女は、わたしを14歳か13歳くらいの子どもだと思っていたみたいだけど。

 

 レスティアナ様は、毎日光の神に、この国の平和を祈っていたらしい。レガイア王国は大国だったけれど、大陸にある他の国々と同じように、『魔物』の存在が脅威だったから。

 このファンタジーな世界には、魔法や魔物、それに神様、精霊なんてものが、ごく当たり前に存在する。

 何回か詳しく説明されたけど、わたしには何がどうなっているのか、さっぱり分からなかった。魔物は後に実際に遭遇したけど、神様や精霊はまだ見たことがない。魔法は他の人が使うのを見たり、実際にかけてもらったりしたけど、わたしには使えないから、どういうものなのかよく分からないんだ。

 それであの日、レスティアナ様は魔物の討伐隊を務める騎士団と、その騎士団を実質指揮している彼女の1番上の兄を心配して、早くこの国が平和になるように、光の神に「この国により強い光の加護を」と祈ったそうだ。

 その瞬間、現れたのがわたし――これといった特技も何もない、性格も顔も平凡……というか地味な、『三谷春香』というただの少女だった、というわけだ。


 

 そして、彼女が「お兄様」と呼んだ相手。

 神々しいまでの美貌をもつ、レガイア王国の王太子にして、レガイア王国騎士団団長を務めていた彼の名前を、エルリアス・ラス・レガイアという。

 国内どころか大陸中に名前が知られた、凄腕の剣の使い手であり優秀な軍師でもある彼は、当時21歳。わたしと3つしか違わないくせに、とっても落ち着いた、まさに「人の上に立つ」べくして生まれた人物――「王者の品格」というものを兼ね備えた人だった。

 

 エルリアス様……名前が言いにくいから、わたしは単に「殿下」と呼んでいるんだけど、殿下はわたしが地下牢に放り込まれてすぐに、神殿中の人と王城の魔法使いたち、そして歴史家たちを総動員して、たった一晩でわたしの存在について調べ上げた。

 その結論として、彼はわたしが異世界から来た人間だということを理解して、すぐに王城内と国内各地の神殿にお触れを出したそうだ。

 「『光の神の使者』が、本日未明、レガイア王国の光の神殿に現れた」と。


 『光の神の使者』――それが、無力なわたしが生きるために必要な、この世界で与えられた肩書きだった。

 

 殿下は、わたしが何の力も知識も持たない、ごく普通の人間だということをちゃんと理解していた。

 それでも、わたしがレスティアナ様の祈りに呼応するかのように光の神殿に突然現れたことは、動かしようのない事実だった。

 だから彼は、わたしの存在をとりあえず『光の神の使者』とすることで、わたしのこの世界での身の安全を王家と神殿が保障する建前にした。それと同時に、王国内に出没している魔物、その討伐のために騎士団を派遣することを渋る国王に、騎士団の遠征を無理矢理にでも認可させる理由にしたんだ。

 

 詳しいことはよく分からないけど、当時王家には殿下の他に3人の王子がいて、そのどれもが大した能力もないくせに野心だけは人一倍強くて、おまけに父親である国王に気に入られていたらしい。

 殿下は小さい頃から優秀で、王城内の人々はおろか、国民の大勢が早く殿下が王様になることを期待していたそうだ。

 でも、それが国王や他の王子たちには気に入らなかったらしく、殿下を王太子にしたのはいいけど、なかなか王位を譲らない。それどころか、色々な嫌がらせをしては、殿下の邪魔ばかりしていたそうだ。


 殿下が王都以外の場所で出没した魔物の討伐のために騎士団を動かそうとしても、絶対に許可しないこと。これも、国王の殿下への嫌がらせのひとつだったそうだ。

 騎士団の団長は殿下だけど、騎士団自体は国王を主君とする存在だから、王様の許可がないと動かせないようになっているらしい。だから当時、騎士団は国民を助けたくても、王都とその近辺にしか討伐に向かえない状態だった。

 国の重臣たちや殿下が必死に考えても国王の判断を変えさせられなかったんだけど、そこにわたしが『光の神の使者』として現れたことで、『光の神のお告げ』として、国王に魔物討伐のために騎士団を遠征させることを認めさせたんだ。

 あれはまさに、わたしの一世一代の命がけの演技だった。でも、それが上手くいったおかげで、王国各地に出没していた魔物の討伐が行われ、更に魔物の襲撃に遭った村や街の復興が行われた。


 わたしも何回か、実際に魔物討伐に一緒についていったことがある。

 魔物は――恐ろしかった。怖かった。まさに『化け物』だった。

 巨大で、おぞましい姿。そして、一撃で大地を抉り取ってしまう力。

 あんな存在と戦って、そして倒してしまう騎士団の面々に、わたしは本当に驚いた。


 レガイア王国に住む多くの人が、殿下が王として即位する日を今か今かと待ち望んでいる気持ちもよくわかる。実の親子でありながら、次期国王となる殿下にくだらない嫉妬をして、国を滅ぼすような行為をする国王や他の王子より、殿下の方がずっと立派だ。


 

 その殿下と共にいた、彼の側近だった騎士。わたしを地下牢に放り込んだ人。

 彼の名前を、アディート・ルクスという。

 レガイア王国の騎士団は、基本的に入団試験に合格しさえすれば、身分に関係なく入団できる。

 でも、彼――アディートは、平民としては唯一、殿下の側近の騎士だった。殿下の護衛はもちろん、政務の補佐官のような役目も果たしていたらしい。

 彼は騎士団内で唯一、殿下と張り合える剣の腕の持ち主だった。記憶力や集中力もよくて、本を読むのが好きだった。

 身分に関係なく、きちんと礼節を保ち、どんな任務も誠実にこなすアディートは、殿下の最も信頼の置ける側近として、そして殿下と同い年の親友として、多くの人に認められていた。

 

 アディートは殿下に命じられて、わたしの護衛騎士として、常にわたしの側にいた。

 初対面で地下牢に放り込まれたせいで、わたしは最初、アディートがとっても怖かった。でも、アディートは根が優しい人だったから、最初に会ったときの態度をちゃんと謝ってくれたし、それからは他に頼る人のいないわたしの、1番の相談相手になってくれた。

 言葉は不思議と通じたのに、文字は読めなかったから、アディートはわたしにレガイア王国の文字を教えてくれた。それに、この世界のことも。文化、歴史、魔法について。それに、王家の事情についても。王家や貴族特有の詳しい礼儀作法などについては、レスティアナ様や神殿の人たちが教師になってくれたけど。

 

 アディートは最初、わたしにとって兄のような存在だった。

 時々、お父さんみたいなことも言われたっけ。わたしがスカートの長い裾を捲り上げて走ったりすると、そんなはしたない真似をしてはいけません、とか、男は皆ケダモノなんですよ、とか、彼はとっても真面目な顔をして、そんなことをわたしに言ってきた。


 アディートは怜悧な顔立ちをしていて、黙っていたら冷たそうな印象を受けるけど、笑ったらとっても優しい笑顔になった。普通にしてても格好いいのに、彼が笑ったときの破壊力は、もう、凄まじかった。

 それに、アディートは本当に『騎士』だった。いつもさりげなくわたしをエスコートしてくれたし、危ないことがあったら真っ先にわたしのことを守ってくれた。


 『光の神の使者』としてレスティアナ様や殿下の近くにいたせいで、わたしに嫌味を言ったり、嫌がらせをする人もいた。

 わたしは必死にこの世界に馴染もうとしたけど、やっぱり、この世界じゃわたしは『異物』だ。

 この世界の人とは造作が全く異なる、平凡な容姿は誤魔化せない。

 それに、どんなに頑張っても理解できない『身分』という枠組み、たくさんの礼儀作法。そこを上手く突いた嫌味や嫌がらせの数々に、わたしは何回も隠れて泣いた。

 

 そのことに加えて、殿下の調査で、わたしの他にも何人か、過去にこの世界にやってきた『異世界人』がいた、ということがわかった。

 それはいいんだけど、元の世界への帰還方法が全く存在しないということもまた、わかった。過去に異世界からやって来た人々は皆、そのままこの世界で生涯を終えたらしい。

 わたしはその報告を、レガイア王国に来て1年が過ぎた頃に、殿下から直接教えられた。

 

 もう2度と、家族や友達に会えない。せっかく合格した大学にも行けない。

 ――両親は、鞄だけ玄関先に置いて姿を消してしまったわたしのことを、どう思っているんだろう。

 仕事をわざわざ休んでまで、1人娘の卒業式に夫婦揃って出席してくれた、わたしのお父さんとお母さん。2人は、今頃どうしているんだろう。わたしのことを、警察に届けたのだろうか。

 きっと、とっても心配しているはずなのに。わたしが無事に生きているという、その事実を伝える術すら、何一つないなんて。

 

 深い喪失感と底のない絶望、癒えることのない悲しみと埋められない空虚さで、わたしは何回も泣いた。嫌がらせをされたときよりも、元の世界には絶対に帰れない、とわかったときの方がずっと心が痛かった。 

 

 何回も死にたくなった。だって、この世界には、わたしの家族は誰もいない。友達も、知り合いも。

 本当の『三谷春香:を知っているこの世界の人間は、レスティアナ様と殿下、それにアディートだけだった。その彼らにしても、わたしの元の世界での生活は何も知らなかった。

 この世界で求められている存在は、『光の神の使者』である『ハルカ』。

 それだけが、わたしの存在意義だった。

 

 わたしは、そんな深い悲しみにも絶望にも慣れていない、普通の女の子だった。

 家族も友人も何もかも、これまでの人生で積み上げてきた、些細だけど大切なもの全てを一度に失って、それでも笑って『異世界』で前向きに生きていけるほど、強い子じゃなかった。

 だから、ずっとこの世界で1人きりで生きていかなくちゃいけない、という事実に耐えられなくなって、ある日の夜、わたしは突発的に自殺を思いついた。死にたくなったことは何回もあったけど、実際に実行したのは、あの時だけだった。

 

 王城内の客間の一室。わたしに自室として与えられたその部屋の、ベッドの枕元に常に置かれていた、護身用にと殿下から渡された短剣。

 わたしはそれを鞘から抜いて、ベッドの上に腰掛けた。そして目を閉じて家族の姿を思い浮かべると、両手で握った短剣を一気に喉に突き刺そうとした。

 

 でも、できなかった。

 短剣の刃は、わたしの喉の皮膚を薄く切り裂いただけだった。

 

 いつの間に部屋に入ってきていたのか――あるいは、わたしがずっと気がついていなかっただけで、本当は毎日、わたしの部屋にいたのかもしれないけれど――アディートが、真っ青な顔をして、短剣の刃を片手で直接握り締めて、それ以上の動きを止めていた。


 アディートは刃を握っていない方の手で、呆然とするわたしの両手から素早く短剣を奪い取った。そしてそれを乱暴に床に投げつけると、とても怒った顔をしてわたしを見た。

 ――ううん、あの時のアディートは確かに怖い顔をしていたし、とても怒っていたけど、彼の薄い青色の瞳は、とても悲しそうだった。ひどく傷ついたような目をしていた。

 

 アディートの片手から流れ落ちる真っ赤な血が、わたしの着ていた夜着とベッドのシーツを汚した。早く止血しないと、と思ったけど、わたしは全く体を動かせず、口もきけないまま、傷つきながらも怒り狂っているアディートを見つめていた。

 

 アディートは吐き捨てるような口調で、「そんなに私は頼りないですか」と言った。

 彼が何を言っているのかわからなくて、わたしは困惑したまま彼を見つめた。

 アディートは苛ついたように、ベッドの上に腰掛けていたわたしの肩に両手を置いて、体をかがめてわたしの顔を覗き込んだ。傷ついた彼の手から流れる血が、わたしの剥き出しの肩に触れて、そのままゆっくりと腕を伝って流れ落ちた。その鉄くさい匂いと奇妙な感覚に、体が自然と震えたのを、今でもはっきりと覚えている。

 

「ハルカ。あなたが王城の一部の人間に嫌がらせをされていることも、隠れて泣いていることも知っています」

 

 淡々とした声で、アディートはわたしと視線を合わせたまま言った。


「元の世界に帰れないことを聞いて、ずっと声を殺して泣いていたことも。

 レスティアナ様を責めまいと、必死で感情を押し殺して、笑っていることも。

 全部、私は知っています」


 わたしがずっと彼に、いや、他の全ての人間に隠していた――隠していたはずの事実を言われて、わたしは動揺してしまった。

 アディートから目を逸らしたかったけれど、彼がそれを許してくれなかった。

 

 弱い自分ばかりをアディートに見せて、彼に呆れられたり、失望されたりするのが怖かった。

 これまでだってさんざんアディートの手を煩わせてばかりだったけど、それでもアディートは文句も嫌味も言わなかった。

 アディートは、いつでもわたしに優しかった。

 でも、「自殺」なんて、1番卑怯な手段を使ってこの世界から逃げようとしたわたしを見て、きっと、今度こそ嫌われてしまった、と思った。

 それが悲しくて恥ずかしくて、わたしは泣き出していた。

 

 ――わたしは、アディートのことが好きなんだ。

 

 最初は、ただの依存的な感情だと思っていた。

 アディートが、わたしの1番近くにいたから。だから、彼のことが好きなんだと思っていた。

 それは親を慕う小さな子どもが抱く「好き」と、同じ分類のものだと思っていた。

 

 でも、彼に自殺を止められたあの瞬間に、わたしは気がついてしまった。

 いつも側でわたしを支えてくれたアディートのことが、わたしは『女』として好きなんだ、ということに。

 それに気がつくと同時に、絶望した。

 だって、アディートは殿下や王城内の人々みんなに信頼されている、将来有望な騎士なのだ。

 わたしはアディートが、殿下が王様になった後も彼の側近を続けられるように、そのうち、有力貴族の娘と結婚するのだと思っていた。

 実際、アディートは平民ということで侮られている部分もあったけれど、多くの貴族の令嬢や王城仕えの侍女たちに人気があった。わたしへの嫌がらせの中には、殿下やレスティアナ様に対してだけではなく、アディートを独占していることへの嫉妬も含まれていたのだ。

 だから、わたしは絶対にアディートとは結ばれないと分かっていたし、そもそも彼に好かれているとは思っていなかったから、悲しくて悲しくて、涙が止まらなかった。

    

 アディートは、殿下のことが大好きだった。

 君主として、親友として。本当に、殿下のことが大好きだった。

 だから、アディートがわたしに対して優しいのは、殿下に命令されたからだと思っていた。

 彼は義務感から、わたしに対してとても優しいのだろう、と。

 それに変な期待をしてしまった自分が嫌だった。

 自分の職務に忠実なアディートに対して、失礼だとも思った。

 

 アディートの目を見つめたままでいるのが辛くて、わたしは目を閉じた。

 でも、涙は全然止まらなかった。

 アディートに不細工な泣き顔を見せるのは嫌だったけど、彼の傷ついていない方の手がわたしの肩から移動して、わたしの顎を掴んでいたせいで、俯くこともできなかったから。


 彼が言った、わたしの隠してきた事実に、何も言い返すことができなかった。

 もう、どうにでもなれ。そういう心境だった。


「……ハルカ」


 だからあのとき、ひどく切なそうな声でわたしの名前を呼んだアディートがどんな顔をしていたのか、わたしには全く分からなかった。

 

 その次の瞬間、わたしはベッドの上に押し倒されて、アディートに強く抱きしめられていた。

 

 彼はわたしを押しつぶさないようにしながらも、両腕できつくわたしを抱きしめた。

 驚いて大きく目を見開いたわたしが見たのは、今にも泣き出しそうな顔をしたアディートだった。

 わたしの顔のすぐ近くに、彼の整った顔があった。冷たそうに見える、彼の薄い青色の瞳。そこに映る自分の呆然とした顔を、わたしは黙って見つめた。

 

「私では、あなたを支えられませんか」

 

 苦しそうな声で、アディートは言った。

 彼に十分支えてもらっていたわたしには、彼の放った言葉の意味が、全く理解できなかった。

 だから、小さく首を振った。

 違う、そんなことないよ。アディートには、十分助けてもらってる。

 そう言いたかったけど、うまく言葉にできなかった。

 

 でも、アディートはますます顔を歪めてわたしを見た。

 それから苦しそうな声のまま、わたしに言った。


「あなたは、いつも1人で耐えようとする。どうして、私をもっと頼ってくださらないのですか。私が頼りないからですか。騎士で、男だから信用できませんか。

 ――それとも、私があなたとは違う世界の人間だから、気味が悪いのですか」


 思ってもみなかったことを言われて、わたしは愕然としてアディートを見た。

 アディートは、ひどく辛そうな、悲しそうな顔をしたまま、わたしの返事を待っていた。

 

 わたしは「違う」と、小さな声で呟いた。ひどく掠れた声が出た。

 緊張していたのか、それともアディートが怖かったのか、それはよく分からないけど。

 

 ――アディートたちが、この世界の「異物」であるわたしのことを気味が悪いと感じるのは、分かる。

 でも、どうしてわたしがアディートを気味が悪いと思うのだろう。

 あんなに助けてもらったのに。あんなに優しくしてくれたのに。

 わたしがアディートを気味悪がったり、恐れたりするはずがないのに。


「違う、そんなんじゃない。アディートのこと、気味が悪いなんて、そんなこと、思ったことない」

「では、何故1人で抱え込むのですか。死にたくなるほど辛いのなら、どうして私に一言でも相談してくださらないのですか。

 私は、あなたの1番近くにいると思っていました。あなたに信頼されていると、そう思っていました。嫌がらせのことも、元の世界のことも、あなたが私に隠したがっているようでしたから、黙って気がついていない振りをしていました。いつか、本当に耐えられなくなったら、きっと相談してくださるはずだと、そう思っていました。――それなのに!」


 いきなりの大声に驚いて、わたしの体が一瞬跳ねた。でも、アディートは腕の力を全然緩めてくれないまま、わたしの右肩に顔を埋めた。

 わたしを抱きしめているアディートの体温は、温かかった。そして、彼は小さく震えていた。

 わたしのように泣いてはいなかったけど、彼はあの時、確かに震えていた。


「どうして、自ら死を選ぶような真似をする前に、私に何も言ってくださらないのですか!そんなに、この世界が嫌なのですか!……私は、あなたの力になりたいのです。あなたの支えになりたいのです」

「……アディート、わたしは……」

「――最初は殿下の命令でした。私はあなたの護衛であり、監視役でした。あなたがレスティアナ様や殿下に害ある行動をとらないよう、そうした意図をもった人間の手駒とならぬよう、監視する役目でした。けれど、それは本来なら、もう終わっている役目なのです」


 アディートの突然の告白に、わたしはそれほど驚かなかった。むしろ、納得した。

 護衛役であり、監視役。

 そうでもなければ、殿下の側近だった彼がわたしのそばにずっといるはずがない。 

 でも、やっぱりアディート本人の口からそう告げられると、悲しかった。わかっていたことだけど、やっぱり彼のあの優しさが全て殿下への忠誠心からのものだったと言われて、わたしは胸の奥がひどく痛んだ。 

 けれど、アディートはわたしの顔を見ないまま、わたしの耳元で囁くように、言葉を続けた。


「私の役目は、半年間だけのものでした。魔物討伐のための騎士団の遠征、それが実際に行われ、現王が愚王であることと、殿下が民を見捨てていないということが国民全体に知れ渡るまでの間でよかったのです。あなたが殿下と共にあることで、殿下に光の神の加護があること、それが民の間に広まれば尚、よかった。それが果たされた後は、私はあなたの側を離れ、殿下の側近に戻る予定だったのです。けれど、私は殿下に自分から願い出て、あなたの護衛としての役目を続けられるようにしました。

 ――あなたと、離れたくなかった」


 ふっとアディートの体がわたしの肩の上から離れた。

 アディートは両肘をわたしの顔の横について、お互いの唇が触れ合いそうな距離で、わたしに静かに告げた。悲しそうな、切なそうな、そんな顔をしていた。そしてどこか、わたしを責めるように見つめていた。

 自分自身のアディートに対する想いどころか、彼の優しさの裏にあった熱情に全然気がついていなかった、そんなわたしをひどく責める目だった。


「私はあなたが好きなんです、ハルカ。この世界での、あなたの支えになりたい。あなたを守りたい。

 ――君を愛しているんだ、ハルカ」


 わたしがアディートの言葉の意味を正しく理解するのに、そう時間はかからなかった。

 アディートは、行動でわたしに気持ちを伝えてきたから。


 わたしの人生初めての口付けは、異世界で、大好きになった人とだった。 

 黒い髪、薄い青色の瞳。怜悧な、整った顔立ちの、優しい騎士。

 

 わたしはアディートの背中に両腕を回して、精一杯の力で彼を抱き返した。そして、彼の唇が離れた瞬間に、わたしの気持ちを彼に告げた。

 驚いた顔のアディートに、今度はわたしが自分から口付けた。

 一瞬硬直したアディートが、わたしが窒息しそうなほど強い力で抱きしめてきて、死にそうになったけど。それでも全然、構わなかったんだ。


 あの夜、わたしとアディートはお互いの気持ちを初めて通い合わせた。

 幸せだった。本当に、幸せだった。

 わたしはあの夜、アディートがいるなら、どんなに辛いことがあっても、ずっとこの世界で生きていける――そう思ったんだ。

 

 

 それから2年後の、春の夜。

 翌日から殿下と共に、王国南部の国境地帯に現れた魔物の討伐に向かうアディートに、結婚を申し込まれた。

 わたしがびっくりしたまま、「『光の神の使者』が結婚なんてできるの?」と間抜けに聞くと、彼は笑って、「レスティアナ様と殿下には了承を頂いたから、あの御二方がうまくその辺の事情は誤魔化してくださる」と言った。その言い方がなんだか可笑しくて、わたしは笑いながら彼に抱きついて頷いた。


 アディートがその時わたしにくれたのは、金の指輪だった。

 宝石は載っておらず、代わりに精緻な花の模様が刻まれた、綺麗な金の指輪。指輪の裏には、わたしとアディートの名前が小さく刻まれていた。

 この世界では、結婚の際に指輪を贈る習慣はない。結婚式自体、あまり開かれない。そんなことをするのは、王族とか、貴族だけだ。

 普通は近くの神殿に婚姻証書を届ければ、それでおしまい。結婚のお祝いは、内輪でする賑やかなパーティーみたいなものだけだ。

 でも、アディートはわたしが彼にいつか話した、わたしの故郷では指輪を贈るんだよ、という他愛もない話を、きちんと覚えていたらしい。それが嬉しくて、わたしはアディートをぎゅうっと抱きしめた。

 騎士であるアディートは指輪をつけることができないから、代わりに彼は、わたしにくれた指輪と同じ模様が刻まれた小さな耳飾りを作っていた。

 わたしはアディートに指輪を左手の薬指に嵌めてもらった。わたしは彼の耳に、耳飾りをつけてあげた。それから2人で、アディートが貰ってきていた婚姻証書に署名した。


「遠征には3週間くらいかかってしまうけれど、帰ってきたら、一緒に神殿に出しに行こう」 

 

 そう言って、アディートは優しく笑った。わたしも笑顔で頷いて、それから彼に口付けた。


 遠征の出発時刻は翌日の昼だったけど、殿下の補佐でもあった彼は、少し早い時間に殿下の元に行かなくてはならなかった。

 でも、その夜、アディートはずっとわたしと一緒にいた。

 わたしはアディートと、その日初めて結ばれた。

 この世界に来てから、ずっと王城で暮らしていたわたしと、騎士団の宿舎で暮らしていたアディート。

 わたしたちが2人で一緒に夜を過ごしたのは、この日が最初だった。

 2年前、わたしが自殺を図った夜は、お互いに告白しあった後、短剣の刃で傷つけたアディートの手の出血が止まらなくて、慌てて医務室に駆け込んだから。

  

 

 だから、今から1か月前の、あの夜。

 わたしがアディートに結婚を申し込まれたあの夜が、2人で過ごした最初で最後の夜だった。

 

 

 でも、2人とも、そんなこと、考えもしなかった。

 わたしは死ぬまでずっと、アディートと一緒にいるんだと思っていた。アディートも、多分、そうだった。


 アディートは、わたしに似た子どもが欲しいな、と言った。わたしはアディートに似た子がいい、と言った。そこはお互い譲らなくて、結果としてわたしが頑張って、わたし似の男の子と女の子、アディート似の男の子と女の子、計4人を生むことに決まった。

 

 2人であったかい家族を作ろう、とアディートは言った。わたしはそれに頷いた。

 アディートは平民だけど、実際は捨て子の孤児だったそうだ。

 わたしにはあまり言いたくないから詳しくは教えない、と言っていたけど、その日その日を生き延びるために、犯罪紛いのこともしていたらしい。

 だからアディートは、そんな自分を救ってくれた殿下に本当に感謝していたし、誰よりも忠誠を誓っていた。アディートが騎士を目指したのも、殿下の近くで彼を守りたかったからだった。

 あんまりアディートが殿下のことを褒めるから、そのせいでわたしが度々殿下に嫉妬してしまって、それを殿下が物凄く迷惑そうにしていたけど、仕方ない。だって、アディートはわたしより殿下の方が実は好きなんじゃないかって疑ってしまうくらい、アディートは殿下に忠実だったから。

 

 でも、そんなアディートが、わたしは好きだった。

 ううん、わたしは今もアディートのことが、大好きなんだ。

 

 見た目はちょっと冷たそうに見えるけど、優しくて、殿下のことが大好きなアディート。

 いつだってわたしのことを支えてくれた、とっても強くて格好いい異世界の騎士。  

 

 彼の綺麗な薄い青色の瞳と、指どおりのいい漆黒の髪が、あの夜はずっとわたしの側にあった。

 アディートの優しい笑顔も、わたしの名前を呼ぶ低い声も、彼の温かな体温も。

 全部、あの夜はわたしの手の届く範囲にあったんだ。

 

 

 だからわたしは、それがこれからも永遠に続いていくものだと思っていた。

 ある日突然異世界に来る、なんて突飛な体験をしておいて、愚かにもわたしはそんなことを信じていたんだ。

 


 アディートと2人で、この世界で紡いでいく未来があることを、わたしは疑いもしていなかったんだ。



***********************************


 アディートが遠征から帰ってくるはずの日。

 朝から部屋で彼を迎える準備をしていたわたしの元を訪れた、遠征から帰ってきたばかりの殿下。

 彼がいつになく硬い表情でわたしに告げた内容は、朝から浮かれきっていたわたしの心を凍りつかせるのに、十分なものだった。

  

「ハルカ、落ち着いて聞いて欲しい。……アディートが、死んだ。

 遠征からの帰り道、私を暗殺者から庇ったんだ。そこに突然魔物が現れて、そのまま乱戦になって―――アディートの遺体は、回収できなかった。アディート本人の希望で、魔物の餌にならないように、魔法で燃やしてしまったから……」


 そこまでしか、わたしの意識はもたなかった。ただ、真っ暗になっていく意識の中で、殿下が何度もわたしに謝っている声をぼんやりと聞いていた。


***********************************



 あの人がいたから、この世界でも、生きていこうと思ったんだ。   

 なら、あの人いなくなってしまったこの世界で、わたしはどうやって生きればいいのだろう。 

 その答えが、まだ、見つからない。

   

  

 

 異世界召喚ものの王道=騎士!王子!巫女さん!無力な主人公!

 ……全部出てるはずなのに……。

 

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