表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/32

掌の中の永遠(1)


――――懐かしい部屋の中で、泣きながらわたしの名前を呼んでいる家族の夢をみる。それが怖くて眠れない。帰らなくちゃいけないと思うけど、帰り方がわからない。その一方で、まだこの世界にいたいと思っている。わたしを必要としてくれた大好きな人がいなくなって、わたしのいる意味なんてないんじゃないかと思うのに、前に進めないでいる。どうして彼は死んでしまったのだろう――――



 

「ずっと一緒にいられる?」


 もう何度目になるのかわからない問いかけには、優しい肯定が返ってくる。


「ああ、ずっと一緒だ。――二人で家族を作ろう、ハルカ」


 淡い光に照らされた端整な顔には、優しくて温かな笑みが浮かんでいた。

 


 いつもは撫でられてばかりだから今日くらいはと思って、何度も彼の髪を梳き、頭を撫でた。わたしの髪と比べると少し硬質なアディートの黒髪は、それでも艶があってとても綺麗だった。

 耳にかかる髪の間から覗く、わたしの指輪とお揃いのデザインの耳飾り。それを指先でそっとなぞると、途端にアディートがくすぐったそうに身体を震わせた。

 そういえば、耳飾りをつけてあげたとき、耳に触れた瞬間にアディートは少しおかしな顔をした。……もしかして、耳が弱い?

 新事実を発見して浮かれたわたしはその直後、アディートから謎の攻撃を受けた。突然脇腹をくすぐられたのだ。


「今、何か面白いことを考えなかったかな? ハルカ」

「ふ、ふふっ、くひゃっ、あはははっ! か、考えてない! 考えてないよ!」

「そうか? だったらいいんだが。

 ああ、耳にはあまり触らないでくれるかな。私はむやみに耳に触れられると、反射的に相手をくすぐってしまう持病があるんだよ」

「ふふっ、ふひゃっ、わかっ、わかった、わかったから!」 


 そんな持病あるはずないでしょ! ――なんて叫ぶ元気を奪われるくらい、さんざん笑わされた。

 笑いながら言った「ごめんなさい」と「やめて」の言葉はちゃんと聞こえているだろうに、アディートは何故か素敵な笑顔のまま、わたしをくすぐり続けていた。

 アディートの卑劣なくすぐり攻撃によって、《いつかアディートの耳に悪戯して、くすぐったがる顔が見たいなぁ》というわたしのささやかな野望は一瞬にして消滅してしまった。殿下のようにアディートをからかうのは、わたしには永遠に無理みたいだ。

 笑いすぎでひぃひぃ言っているわたしに、アディートは優しい笑顔で『お願い』してきた。


「わかってくれて嬉しいよ、ハルカ。でも、この持病のことは殿下には内緒にしておいてほしいんだ。いいかな?」


 ……「内緒」って言い方、可愛いなぁ。

 とは口にしなくて、返事はもちろん「はい!」だった。『お願い』が『お願い』に聞こえなかったよ、アディート。

 最近気づいたんだけど、優しい笑顔のアディートには時々妙な迫力がある。殿下も偶にアディートの笑顔に押し負けるときがあるけど、そのときの殿下の気持ちが少しだけ理解できた。……あんまり理解したくなかったけど。

 アディート、やっぱり耳が弱いんだね。でもそれを殿下に知られたくないんだね。そして自分がくすぐるのはよくても、くすぐられるのは嫌なんだね……。

 うう。心の中でちょっと思いついただけなのに、どうして簡単にばれちゃったんだろう。アディート、鋭すぎるよ。 


 悶々としていたら、笑いすぎて目尻に浮かんだ涙を長い指で掬い取られた。そのまま、瞼の近くに薄い唇が寄せられる。

 反射的に瞼を閉じると、そこに柔らかいものがそっと触れた。


「泣くほどくすぐったかった?」


 ごめんと謝る低い声には、全然誠意が感じられない。なんだかなぁ。

 でも、耳が弱いとか、そういうくだらないことだけど――殿下も知らないアディートの秘密をわたしが知っているということが嬉しいから、許してあげる。

 わたしは目を閉じたまま、小さく微笑んだ。

 

「……二人だけの秘密、だね」


 小さな声で呟いたら、

 

「ああ。二人だけの秘密だ」


 とっても楽しそうな声が返ってきた。


 閉じた瞼の裏に思い浮かんだのは、わたしを見つめるアディートの柔らかな笑顔。


 わたしはアディートの全てを知っているわけではない。

 アディートは殿下と出会ったときよりも前のことを、あまり語りたがらないから。

 騎士になる前の身分は平民。けれど、実際には捨て子の孤児で、平民という括りの中でも下層の存在だったという。とても貧しい場所で育って、その日を生き延びるために犯罪紛いのことにも手を染めていた。――そう教えてもらったけど、詳しいことは何も知らない。

 多分、殿下は知っている。だけど、彼がわたしにアディートの過去について何か言ってきたことはない。

 アディートが思い出したくもないほどの過去なら、黙っていてくれて構わない。アディートの全部を知って受け入れたいという思いはある。彼がどんな風に育ったのか、それを知るのは怖くないし、過去を知ったからといって今のアディートを嫌いになることはない。そう断言できる。

 でも、思い出すのも嫌な記憶をわたしのために語ってほしいとは思わない。


 優しくて、温かなアディート。

 今、わたしのすぐそばにいる大切な人が生きてきた過去を、否定なんかしない。たとえどんなに耳を塞ぎたくなるような過去でも、それを否定するのはアディートが生きてきたことを否定することになってしまう。

 だから、過去が秘密にされたままでもいい。

 その代わり、これからたくさん、二人だけの秘密を作っていこう。

 くだらないことでいい。小さなことで構わない。

 この世界の中で、こっそりと――大切な秘密を作ろう。

 時間はたっぷりあるんだから、ゆっくりでいいんだ。


 瞼を開けたら、目の前には思い浮かんだとおりのアディートの笑顔があって、それがとても嬉しかった。

 すぐそばで視線が絡み合い、それから互いに小さく笑い合って、額をくっつけあうようにして身体を寄せ合った。

 自分とは全く別の他人の鼓動がすぐ側で聞こえるのがこんなに幸せだなんて、そのときに初めて知った。


「……春の、陽だまりのような」


 先ほどまでとは違う穏やかな声で、アディートが囁いた。


「そういう家族を作ろう。ハルカと私が安心できる場所を、二人で」


 綺麗な薄い青色の瞳が、少しだけ潤んでいるように見えた。

 アディートは一瞬顔を歪めて、うまく言えないな、と苦笑した。


「家族というものには縁がなくて、どういう風に言ったらいいのかよくわからないんだが……。なんというか、ハルカと私が帰る場所を作りたい。この世界で優しく笑い合える場所を、目に見える形で作りたいんだ。……ハルカと、二人で」


 少し照れたように笑うアディートが、たまらなく愛しい。 

 ぎゅうっと抱きついて、さっきあまり触らないでと言われた耳元に囁いた。


「あったかい場所がいいな」

 

 《春の陽だまりのような》――アディートの言葉は、すとんとわたしの中に入り込んできた。


 うん。わたしもそう思うよ。二人で、そんな場所を作ろう。春の陽だまりのようにぽかぽかしていて、思わず眠たくなるような、優しくてあったかい場所を。


 アディートは小さく笑って、じゃあそうしよう、と言った。


「ハルカ、二人であったかい家族を作ろう」


 わたしは、黙ってその言葉に頷いた。


――言うべき言葉が、見つからない。

 嬉しい。ありがとう。大好き。愛してる。

 たくさんの言葉に込められた色々な感情が混ざり合い、大きく膨れ上がったこの想いを何と呼ぶのか、わたしは知らない。

 温かくて優しくて、ふわふわとたゆたうように柔らかく、うまく掴むことができない――けれど確かに、わたしの中で大きく膨らんでいく想い。

 目には見えないそれをアディートに伝えたくて、でも当てはまる言葉が見つからない。

 だから、精一杯の笑顔で頷き返した。

 アディートがそれを見て、いっそう優しい笑顔で笑う。嬉しそうに、幸せそうに。

 わたしが一番大好きな笑顔で。

 


 天蓋から垂れたカーテンを閉めきって作った、淡い光で照らされた小さな世界の中。

 互いの体温と鼓動が感じられる距離で、もう寝なくちゃと思いながらも、たくさんの話をした。

 まだ目には見えない、けれど確実に訪れるだろう未来の話を、二人で。

 とろりとしたまどろみの淵に沈みこみ、やがて意識が途切れて完全に眠りに落ちるまで、囁くような声で語り合った。

 

 


――――あの夜すぐそばにあった温もりが、まだ帰って来てくれない。彼は死んでしまったから永遠に帰って来ないのだと、わかってはいるのだけれど。眠れないまま夜が明けて朝が来て、あんまりいつも通りに世界が始まるから、もしかしたらと思ってしまう。どうして彼が死んでしまったのかがわからない。どうして泣いている家族を放ったまま、この世界でわたしが生きているのかがわからない。この先どうすればいいのか、あの夜あんなにはっきりと思い描けていた未来が見えなくなってしまって、自分がここにいる意味がよくわからない。でも、夢の中で泣いている家族の元へと手を伸ばすこともできない。帰らなくちゃと思う気持ちと、まだここにいたい、彼に会いたいという気持ちがぶつかりあう。だって、わたしの名前を呼ぶ彼の低い声は、まだ耳に残っているから――――

   

   

***********************************

 


「最近、あまり眠れていないようだな」


 今日もわたしの元へとやって来た殿下が、静かな声でそう言った。

 目の下に隈がある、と呟いて、白い手袋を嵌めた手で優しくわたしの頭を撫でる。


「寝台の中に灯りを持ち込むのは……いや、やめろとは言わないが、眠れないのはそのせいか?」

「……ごめんなさい」


 心配そうな声の殿下に申し訳なくなって、顔を俯けて謝った。

 眠れないのは、灯りがあるせいじゃない。

 夜が怖いからだ。


――正確には、夜、眠ってから見る夢が怖い。

 だから、眠れない。眠りたくない。

 でも、目を閉じている状態と大差ない暗闇の中に一人でいるのが嫌で、小さなランタンをベッドの中に持ち込んでいる。最近、何故か就寝前までわたしのそばにいてくれるサラさんには何も言われなかったけど、やっぱり行儀が悪いことなのかもしれない。

 柔らかくて暖かな淡いオレンジ色の光を放つ小さなランタンは、アディートがわたしの部屋に置いていったものだ。殿下がそのことに気づいているのかがわからないけど、彼は「怒っているわけではないよ」と苦笑して、優しく頭を撫でてくれた。


「灯りがある方がいいというのなら構わないんだが、お前はここ最近ろくに眠っていないだろう? それが心配なんだ。どうして眠れないのか、理由があるのなら教えてくれないか?」


 宥めるような声で言われて、ああ、と思う。

 また、殿下に心配をかけてしまった。

 ごめんなさいと謝りたいけど、そんな風に謝罪しても悲しそうな顔をさせてしまうだけだ。でも、眠れない理由は言いたくない。

 どうしよう。何か返事をしなくちゃと思うのだけれど、うまく言えない。透き通った翡翠の瞳は嘘をついても容易く見破られそうで、適当なことを言って誤魔化すこともできそうにない。


「……私には言いづらい理由か?」


 どうしようか悩んでいると、静かな声でそう聞かれた。

 少し迷ってから、小さく頷く。

 殿下には言えない理由だ。夢を見るのが怖いから眠れない、なんて。

 以前の殿下なら「怖い夢を見るから」と言ったら、きっと「ハルカはいつまでたってもお子様だな」と笑いながらわたしをからかってきただろう。

 でも、今の殿下は違う気がする。以前のようにわたしに意地悪なことを言ってからかったりしない殿下は、眠れない原因がどんなにくだらないことでも、きっと笑ったりはしない。優しく話を聞いてくれて、何か解決策を考えてくれるんじゃないだろうか。

 だから、言えない。殿下にこれ以上心配をかけられないというのもあるし、何より眠れない理由は殿下に言っていいことではない。

 

 毎晩、日本にいる家族の夢を見る。それが怖い。

 わたしの名前を呼んでいる家族の元へ帰らなくちゃと思ってしまう。帰り方なんてわからないけど、でも、今なら手を伸ばせば届くんじゃないかと、何の根拠もなくそう感じる。

 でも、それを殿下に言うことはできない。

 家族の夢が原因だと言えば、わたしを召喚したというレスティアナ様――殿下がとっても大切にしている妹で、巫女姫様である彼女が悪いことになってしまう。そして、そもそもレスティアナ様がわたしを召喚する動機となった殿下のせいだとも考えられるからだ。


 記憶の中にある光景と変わらない懐かしい部屋の中で、記憶にある姿よりもずっと老けて憔悴した様子の家族の姿を見て、わたしの名前を呼ぶ声を聞くのが辛いのは、レスティアナ様や殿下のせいではない。

 わたしが悪いからだ。

 

 ずっと、目を瞑ってきた。

 殿下に元の世界に帰る方法が存在しないと教えられて、あんなに絶望したのに。

 アディートに好きだと言われた日から、わたしはあまり家族のことを思い出さなくなっていった。

 もう帰れない、二度と会えないと知ってしまったから。それに、この世界には、アディートがいるから。――元の世界に帰りたいという思いは、やがて消えてなくなっていった。


 きちんとした自覚はなかった。

 けれど、この世界で生きることを決意したとき、確かにわたしは日本にいる家族を裏切ったんだ。

 あんな風に泣きながら、憔悴しきった顔でわたしのことを探している人たちを、完璧に切り捨ててしまったんだ。

 その卑怯で最低な行いを、夢の中で正面から突きつけられた。

 自分を今まで育ててくれた大事な人たちを傷つけて、泣かせて、そのくせわたしはのうのうと異世界で笑っていた。

 どうして異世界に来たのか、それすらもわからないのに。

 

 それに、アディートがいなくなってしまった今、わたしはこの世界にいてもいいのだろうか。


 二人であったかい家族を作ろう――そう約束した大切な人は死んでしまった。もう二度と帰って来ない。

 だけど、わたしはまだアディートの帰りを待っている。死んでしまったとわかっているのに、彼がこの部屋に来るのを待ち続けているのだ。

 どうしてこの世界にわたしがいるのか、その意味すら見出せないのに、アディートと過ごしたこの場所から動くことができない。

 まだ、彼を待っていたい。

 

 それでも夢は容赦なく、わたしを待っている家族の姿をつきつける。彼らを悲しませているわたしの身勝手さを、真っ向から思い知らせてくる。

 だから、夢を見る度に「日本に帰らなくては」と感じるのが怖い。この世界からいなくなろうとする自分が怖い。

 

 この世界にわたしがいる意味が何もないとしても、まだ、ここにいたい。

 アディートが死んでしまっているとわかっているけど、それでも、彼に会いたい。


――でも、殿下にこのことは言えない。

 レスティアナ様は魔物と戦う殿下の負担を減らしたくて、光の神に強い加護を願った。そしてわたしが現れたのだという。

 アディートは殿下を庇って死んだ。殿下はアディートにとって大切な主君で、親友で、生きる意味を見失っていたかつてのアディートを救ってくれた人だから。

 殿下のことが大好きなアディートが、わたしはとても好きなのだ。だから、眠れない理由は、殿下には言えない。殿下だってアディートのことが好きだった。殿下に酷いことを言うのは、アディートを傷つけるのと同じことのような気がする。

 

「……わかった」  

 

 頷いたきり何も言わないわたしに何を思ったのか、殿下は小さく溜息をついて苦笑した。

 でも、すぐに穏やかな顔になって、いつも通り白い手袋を嵌めた手でわたしの頭をぽんぽんと軽くたたく。


「私に言いづらいことなら無理には聞かないが、もし話したくなったら誰でもいいから相談するんだよ。どうしても眠れないのなら、薬を処方することもできる。必要なら言ってくれ。いいな?」


 こくりと頷くと、翡翠の瞳が細められた。

 今日もいつもと変わらず綺麗な殿下は、優しい声で言葉を続ける。


「……もう、ひと月だな。それなのに、どうしてお前は変わらないのだろうな」


 白い手袋を嵌めた手が、頭のてっぺんから頬へとすべり落ちた。

 わたしが変わらないって、どういうことだろう。顔色が悪い、やつれている、もっと食事をちゃんと取れ――そんなことを毎日言われているのに。

 いつも通りに過ごしているってことかな。

 殿下の言いたいことの意味がよくわからなくて、少し困惑する。


「何度も繰り返すようになるが、ちゃんと聞いてくれ。事件は粗方片付いた。裁判はもう少し先だが、首謀者と実行犯たちは」

 

 頬に添えられた手袋越しに、殿下の体温を感じる。温かい。


「死刑を免れることはできない。絶対に」

 

 優しい声。手袋越しの温かな手。

 わたしを見つめる殿下はとても綺麗で、だけど彼が紡ぐ言葉の内容は――何と言っているのか、途中から聞き取れなくなってしまった。


 首を傾げたわたしを見て、殿下は小さく微笑んだ。

 まだ何か言っているけれど、言葉は全て耳を通り抜けていく。優しい声しか聞こえなくて、わたしはそっと視線を俯けた。

 膝の上に置いた左手の薬指に咲く、『アディート』の花を見つめる。


――いつもなら、殿下はこんなわたしを放っておく。怒らないで、そのまま何かを話し続けている。

 でも、今日の殿下は違った。

 わたしはすぐに殿下の手によって顎を持ち上げられて、無理矢理目を合わせられた。その少し乱暴な仕草に驚いて、声もあげられずに瞬きを繰り返す。


 綺麗な顔に穏やかな表情を浮かべて、とても優しい声のまま、殿下はわたしに囁いた。

 

「なぁ、ハルカ。私に何か言いたいことはないのか?」

 

 その言葉は、不思議とはっきり聞き取ることができた。


 真っ直ぐにわたしを見つめる翡翠の瞳は、何もかも見透かすような強い光を宿している。

 眠れない理由について、殿下は深く追及してこなかった。わたしが黙っていることを許してくれた。

 でも、今の殿下はわたしに返答を強制している。優しい声で、穏やかな表情で、それでもわたしを射抜くように強く見つめる瞳が「この問いに対する沈黙は許さない」と言っている。


 殿下に言いたいことなんて、何もない。

 心配かけてごめんなさい、とは言いたいけれど、その言葉は殿下を悲しませるだけだ。なら、何を言えばいいのだろう。

 アディートは殿下を庇って死んだけど、でも、それは仕方がないことなんだ。

 からかわれる度に怒ったり呆れたりしていたけど、アディートは本当に殿下のことが好きだった。もしも事件があった場所にわたしがいて止めたとしても、アディートは絶対に殿下を庇っただろうから。結果は、きっと変わらなかった。


 だから、殿下に言いたいことなんてない。


「……何も」


 何も、ないよ。


 そう言った瞬間、殿下の綺麗な顔が人形のようになった。

 感情が全て抜け落ちて、完璧な美貌だけが残される。

   

――あ。


 だめだ。

 今、わたし、殿下を傷つけた。


 そう悟ったときには、殿下は既に元通りの穏やかな表情を浮かべていた。

 顎をつかんでいた手を放すと同時に、長椅子から立ち上がって小さく苦笑を洩らす。


「そうか。……わかった」


 何がわかったというのだろう。

 殿下はそのまま勉強用の机へと歩み寄り、無造作に引き出しを開け始めた。

 

「で、殿下?」


 引き出しの中には、誰かに見られて困るようなものは入っていないと思う。文字の練習に使っている紙の束とか、筆記具とか、そんなものしかないはずだ。殿下が必要だと思いそうなものは、特に思い当たらない。

 だから、殿下が突然家捜しのような真似をする理由がわからない。声をかけても返事を返してくれなくて、その態度がとても不安になった。よろけるようにして長椅子から立ち上がり、殿下へと近づく。

 

「殿下、一体何して……」

「――ああ、これだな」


 短い言葉と共に、殿下が振り向いた。

 右手に、白い一枚の紙切れをつかんでいる。


――それ、は……。


「遠征から帰ってきたら、二人で神殿に出しに行くはずだったのだろう?

 アディートの名前はいいとして、お前の名前は……まぁ、何とか読めないことはないな」


 わたしとアディートの署名がある婚姻証書を片手でひらひらと振って、殿下はにこりと笑った。  


「ハルカ」


 名前を呼ばれると同時に右腕をつかまれて、強い力で引き寄せられた。踏ん張ることができず、よろけるようにして殿下の方へと倒れこむ。


「アディートに会いたいだろう?」


 どこか意地悪そうな口調で囁かれて、一瞬呼吸を忘れた。

 顔を上げると、わたしを見下ろす殿下と目が合った。

 今、美しい顔に浮かんでいるのは、殿下がいつもアディートをからかうときに見せていた、悪巧みを思いついたときの笑顔。最近、ずっと見ることのなかった懐かしい笑顔だ。    


「答えろ、ハルカ。アディートに会いたいだろう?」


 同じ問いが繰り返される。

 アディートに会いたいか。

 ……そんなの、答えは決まっている。

    

「……会いたい」


 会いたい。

 アディートに会いたい。


 声に出したら、どんどん強い気持ちが膨れ上がってきた。


 もうずっとアディートに会っていない。遠征に行くのを見送ったのが最後だ。葬儀の記憶は曖昧で、ただアディートがどこにもいなかったことだけ、しっかりと覚えている。

       

「そうだろう? ――私とアディートに会いに行こう、ハルカ」


 懐かしい笑顔を浮かべた殿下は真っ直ぐに、わたしを射抜くようにして見つめている。

 その強い視線に促されるようにして、わたしは声もなく頷いた。

        

 出口の見えない想いの行き先を見つけるためには、前に進まなければいけないから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ