形而上の花 ――揺れる糸の先に託した望み――
※閑話です。
小さな光 揺らめく螺旋 地に根ざした枷 消失する全ての音
黎明へと続く扉は 永遠に閉ざされた
煌く断罪の刃が貫くは 下賎に塗れた欲望の果て 罪過に咲き誇る花
散る花の名は誰も知らず 朱に染まる花弁の一片が 明けぬ夜に堕ちていく
悠久と刹那の狭間に在る 沈黙の檻の中で
朽ちてゆく愚かな花が ただひとつだけ望むこと
最期に一度だけ 貴方の声が聞きたい
貴方の声で 私の名を呼んで欲しい
どうか 貴方の声で 私の名を 私の中に刻みつけて
一度だけ 一度だけでいいから
貴方の声で 私の名を呼んで欲しい
小さな光 揺らめく螺旋 地に根ざした枷 消失する全ての音
黎明へと続く扉は 永遠に閉ざされた
悠久と刹那の狭間に在る 沈黙の檻の中で
朽ちてゆく愚かな花が ただひとつだけ望むこと――
「――君は歌が上手だねぇ」
下手くそな笑顔で言う人に、呆れた視線を返した。
褒め言葉を口にしているはずなのに、全く褒めているように聞こえないのが不思議だ。
僕の視線を受けても、彼はただ静かに下手くそな笑顔を浮かべていた。
「それは何の歌?」
「さあ? 意味なんて知らないな。考えたこともない。人から教わって歌えるようになっただけだから」
宵闇に染まる部屋の中、二人で窓から外を眺めた。
陽の光があっても暗いあの場所は、夜には完全な闇となる。
「ここからだと夕日が見えないんだね」
「悪かったね、西向きの部屋じゃなくて。あなたは居候のくせに遠慮と言うものがないなぁ」
「そう? 君には感謝しているんだけど」
「ずいぶんとまぁ、誠意の無い感謝だこと」
皮肉ったように言えば、あの人は不思議そうに首を傾げた。
何もかも悟ったような、全てを見透かしたような不思議な目をしているくせに、妙に子どもっぽい仕草をする人だった。
「……『ただひとつだけ望むこと』か」
「うん? あなたにも何か望みがあるの?」
柔らかく細められる、青白い輝きを秘めた月色の瞳。半月状に吊り上がる薄い唇。
「綺麗」と形容していい顔に下手くそな笑顔を浮かべて、あの人は囁くように告げた。
「あると言えばあるけど。でも、実現するのは不可能に近いからね」
「へぇ? 面白そうだな。どんな望みなんだい?」
「うーん。そうだなぁ……。本当に難しい望みだよ」
瞳と同じ、月色の髪が揺れる。
宵闇に染まりゆく部屋の中、彼の周囲だけが既に夜の闇に包まれていた。
「たとえば……そう、人間が『神』になりたいと願うよりも、叶いそうにない望みだ」
「――ふうん? それなら、望みなんて捨ててしまえばいいじゃないか。そうすれば楽になれる」
「今は無理でも、時間が経てば実現するかもしれないからね。捨てられないよ」
「時間が経てばって……あのね、あなたは一体いつまで旅をするつもりなの? まさか一生、なんてことはないだろうね? あなたが言うところの『ほぼ実現不可能な望み』とやらが叶うために必要となる時間に、どれくらいかかると思ってるのさ」
「どうだろう。でも、ずっと旅を続けるのもいいかもしれない」
困ったように笑った顔は、やはりどこかぎこちなく、空虚で不自然だった。
遠い地から偶然あの場所へと流れ着いた、あの人。
人の形をした、けれど人ではない存在。
神ではなく精霊でもなく、魔物でもない、『何か』だった人。
僕は彼と短い間だけ共に過ごし、実にあっさりとお別れをした。
彼は滞在したほんの短い間であの場所を完全に壊してしまったくせに、悪びれもせずにあっさりと去って行った。
彼と共に過ごした僕は多くのものを失って、やはりあの場所を去った。彼が来る前の自分とは少し変わってしまった僕は、もう、あの場所にいることができなかった。
けれど、僕はあの場所にいるみんなを救いたいと思っている。
彼が来る前から変わらない。あの場所にいるみんなを救うこと、それが僕の望みだ。
だから、僕は今、ここに在るのだと――そう思う。
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僕は、綻びを探している。
まだ大きな穴が開く前の、小さな小さな綻びを。
もつれた糸の先を、指で摘んでそっと引く。
うまくいけば糸はするすると伸びて、あの場所へ繋ぐことが出来る。
糸を繋ぐ。遠い地にいる誰かが、あの場所へ訪れるように。
そして、みんなを救ってくれるように。
僕は『何』なのだろう。偶に、そう考える。
ここは何処なのだろう。これは、別にどうでもいい疑問。
地も空も無い、つまらない場所。こういう場所を何と呼ぶのか、学のない僕には分からない。
でも、ここは居心地がいい。
あの場所よりは、ずっと明るくて綺麗だ。
だから、ここが何処かなんて知る必要はない。名前なんかどうでもいい。
温かくはないけれど、冷たくもないこの場所は、僕以外には誰もいなくて、とても静かだ。
もう苦しくないし、悲しくもない。笑い声が聞こえない代わりに、泣き声も聞こえない。とても静かだ。
僕の側には、誰もいらない。
僕以外に音を出すものがいない、気が狂いそうなこの静寂が、とても心地いい。
僕はもう随分と長い時間、この場所にいる。
正確な時間は分からない。餓えも乾きも感じないし、疲れないから眠くもならない。
姿を映すものが何もないから自分の姿についてはっきりと確認することはできないけれど、多分、記憶にあるものと何も変わっていないはずだ。手で触って確認すれば、人の温もりと肌の感触を感じることができる。身長も髪の長さも爪の長さも、何一つ変わっていない。
じゃあ、今の僕は、一体『何』なのだろう。
もしかしたら、僕が僕の身体だと認識しているモノは、本当は僕の身体ではないのかもしれない。
目に見えて耳に届き、指で触れるもの全て、本当は何も存在しないのかもしれない。
本当はもう、『僕』だったモノは何も無いのかもしれない。
僕が僕で在りたいという望みだけが、僕の身体が『在る』ように感じさせているだけなのかもしれない。
わからないまま、僕は綻びを探す。
僕が触れることのできる、小さな綻びを。
繋がった糸を伝って、遠い場所から訪れる誰か。
その人が、あの場所にいるみんなを救ってくれることを願う。
僕は綻びを探して糸を繋ぐことはできても、それ以上のことは何一つできない。
あの場所にいるみんなを救いたいとは思うけれど、この場所にいる僕には何もできないのだ。
いや、そもそも、あの場所を捨てた僕に、みんなを救う資格なんてないのだろう。
だから別の誰かに頼る。
僕が傲慢で自分勝手なのは、昔からだ。繋いだ糸の先にいる誰かがあの場所を救ってくれることを願って、ただそれだけのために綻びを探す。
糸はか細くて、とても脆い。
僕が少し前に繋いだ糸は、風もないのにゆらゆらと揺れている。
もう少しで千切れてしまいそうだけれど、この糸を繋ぎ止める術を、僕は知らない。
糸が千切れるには、二通りの場合がある。
ひとつは、千切れた糸がそのまま消えてなくなってしまう場合。
もうひとつは、千切れた糸が最初の綻びの元へと戻ってしまう場合。
糸が綻びに戻るとき、その糸を伝ってやって来た誰かもまた、元の場所へと戻っていく。実際に見えるわけではないけれど、誰かが糸を伝ってあの場所を訪れるのも、戻っていくのも、おぼろげな感覚として僕の元に届くのだ。
この糸はどちらだろう。
千切れて消えてしまうのか。それとも、元の綻びに戻るのか。
この糸を伝ってやって来た誰かは、どちらを望んでいるのだろう。
あの場所で消えてしまいたいのか。それとも、元の場所に戻りたいのか。
糸を繋ぐことしかできない僕だけれど、糸を伝ってやって来る誰かが、望んであの場所を訪れているわけではないことは分かっている。いきなり元いた場所から引き離されるのだから、当然だろう。
驚き、嘆き、悲しみ、苦しみ、怒り、孤独、絶望。
糸を伝ってやって来た誰かが抱くたくさんの負の感情は、だんだんと別の感情に変化する。
人間って、そういう生き物だ。どんなに強い感情があっても、生きるために慣れていく。よほど強い意志のある人か狂人でもなければ、何かひとつの思いに縛られ続けるなんてこと、できやしない。
遠い場所から来た誰かは、みんな、そうやって変化していった。僕はその変化を直接見ることはできないけれど、ぼんやりと感じ取ることはできる。
僕が少し前に繋いだ糸は今、大きくて虚ろな感情によって揺れている。感じ取れる感情は、複雑で――でも、とても単純なものだ。
可哀相だとは思うけれど、僕にはどうにも出来ない。
無責任かもしれない。でも、糸を伝ってやって来る誰かが僕に文句を言うことなんてできないから、別に構わない。彼らは僕の存在を知らないのだから。それに、見知らぬ誰かに恨まれるのも憎まれるのも、慣れっこだ。
謝る気はない。僕は遠い場所から来た誰かに、みんなを救ってほしいから。
あの場所に巣食う狂気の渦は、もともとは笑顔が下手くそなあの人――異質な存在がもたらしたものだ。そして、僕やあの場所にいるみんなは、無意識に狂気を受け入れてしまう。
それなら、彼と同じように、遠い場所にいる異質な存在が浄化の鍵となるはずだ。
だから僕は綻びを探し、糸を繋ぐ。糸を伝ってやって来る誰かが、みんなを救うためのきっかけとなってくれることを願って。
糸を伝ってやって来る誰かが、静かな水面を揺らす一滴の雫となってくれれば、それで構わない。あとはあの場所とその周辺にいる人々が、勝手に動き出すだろう。
揺れ続ける糸を眺めながら髪を弄ったとき、耳に挿していた花が指先に触れた。
――この花も、昔からずっと変わらない。
この花だけが、僕とずっと一緒にいる。
地も空も無い、けれど明るくて綺麗なこの場所には、なんの花も咲かない。
地も空も有る、けれど暗く汚いあの場所で、この花は咲いていた。
小さくて可憐な青い花。僕の側に在ってほしい、唯一のもの。
指先に触れた花をそっと撫でる。
この花は、今もあの場所で咲いているのだろうか。
まるで涙の雫のような花だと思う。
人間は、嬉しくても悲しくても涙を流す。心の中でも、心の外でも。
あの場所に住んでいる、みんなの涙が集まってできた花だと――僕が勝手にそう感じた、僕の一番好きな花。
香りはなく、はっと目を惹くほど華やかなわけでもない、小さく可憐な青い花。
何の名前もないこの花は、今もあの場所に咲いているのだろうか。
揺れる糸の先にいる誰かの様子も見えない僕には、分からない。
ただ、望むだけ。
揺れ続ける糸の先にいる誰かが、できることならこのまま消えてしまわずに、あの場所にいるみんなを救ってくれることを。
糸の先にいる誰かの代わりになる存在は、時間をかけて探せばいくらでもいるけれど、救いは早い方がいいに決まっている。
僕は無駄な時間を使うのは好きじゃない。
僕には時間が有り余っている――いや、時間という概念が無いに等しいのだけれど、あの場所はそうではないのだから。
繋いだ糸の先にいる誰か――その人が、今ある揺らぎを耐えて、乗り越えて、あの場所で生きてくれたらいい。そして、あの場所にいるみんなを救って欲しい。
それだけが、ここで花と共に在る僕の望みだ。
その望みのためだけに、僕は綻びを探し続けている。
外側から内側は見えず、内側から外側は見えない。
誰もいない『外側』で一輪の花と共に在る、糸繋ぐ者が託した唯一の望み。




