問いかける声
「こう書くんだよ」
「なんだか、不思議な形の文字ですねぇ……。こんな複雑な形を、よく覚えられますね」
この世界に来て1年が経とうとしていた頃の、ある日。
わたしはアディートと2人きりのときに、彼にわたしの名前の正しい文字を教えてあげた。
わたしばっかりがアディートに教わるばかりじゃ、申し訳ないから。
アディートは紙に書かれた『三谷春香』という文字を見て、えらく感心していた。これは漢字――表意文字で、別にひらがなとカタカナがあるよって言ったら、彼は心の底から驚いたようで、「レガイア文字の方が遥かに簡単ですよ」と言っていた。……ううん、わたしにはこの国の文字の方が難しいんだけどなぁ。
「ハルカの国では、全ての人に家名があるのですね」
「うん。日本……わたしの国では名前が後ろにくるんだけど、違う国では、ここと一緒で姓……家名が先にくるんだよ」
アディートにこの国についての話を聞いたとき、この世界では身分制度が昔からあること、そして大陸にあるほとんどの国では平民には家名、つまり姓がないことを教えてもらった。
平民であるアディートにも、元々は家名がなかったそうだ。彼の『ルクス』という家名は、騎士になった際に、王様から授与されたものらしい。
だからアディートは、別に自分が選んだわけでもないのに、「『ルクス』は酷いなぁ。お前には全く似合わん花の名前だ」と殿下が笑いながらからかってくるのに、とっても困っているようだった。殿下、ちょっと意地悪なんだよなぁ。しかも言ってる内容が小学生レベルだし。
「ハルカの名前は、どういう意味なんですか?」
「えっとね……。家名の『三谷』は3つの谷っていう意味。もしかしたら、ご先祖様が谷間に住んでたのかも」
「なるほど。……それで、ハルカの名前は?」
「う……い、言わなきゃだめ……?」
日本じゃ、「綾乃」とか「桜子」とか、豪華な名前の子もいたから、あんまり深く考えたことなかったけど。よく考えたら、わたしの名前って、けっこう恥ずかしい意味だった。だから、あんまりアディートには言いたくなかったんだ。
「駄目、ということはありませんよ。でも、ハルカが教えてくれたら嬉しいです」
わたしに対してあくまで下手に出るアディートは、卑怯にもきらきらと眩しい、素敵すぎる笑顔で「お願い」してきた。その笑顔に撃沈したわたしは、顔が真っ赤になるのを自覚しながら、ごにょごにょと呟くように答えた。
「えっとね……。春の香りっていう意味なの。わたし、春生まれだから」
視線をアディートから逸らして、自分で書いた名前を見つめる。
お父さんと、お母さん。それに、両方の家のおじいちゃんとおばあちゃんが、一生懸命考えてくれたらしい、わたしの名前。
日本には、たくさんの可愛い名前が溢れていて、今じゃちょっと奇抜な名前の女の子もたくさんいた。そんな中では、平凡な部類に入るわたしの名前。たくさんの名前が載った名簿の中に入れば、簡単に埋もれてしまうだろう。
でも、この世界では……浮いてるんだよなぁ、この名前。
そんなことを考えていたら、アディートに優しく頭を撫でられた。
不思議に思って顔を上げると、薄い青色の瞳を細めて、アディートが微笑んでいた。
「春の香り。……ハルカに、よく似合っていますよ。とてもいい名前です」
優しい声で言われて、ぽかんとしてしまった。
でも、温かなアディートの手の感触に、なんだかとても安心してしまって、じわりと涙が滲んできた。
お父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃん。わたしが生まれたことをとっても喜んでくれた、大切な家族。会いたい、家に帰りたい。そう思ってしまった。
この世界には、わたしの誕生を心から喜んでくれて、一生懸命名前を考えてくれた、あの人たちがいないから。わたしの名前を聞いて、変な名前だって言って馬鹿にする人すらいたから。
アディートの優しさが嬉しかったし、どうしようもなく寂しかった。
泣くのを必死に我慢するために俯いて黙りこんだわたしに、アディートがどんな顔をしていたのかは、わからなかった。でも、彼はわたしが落ち着くまで、何も言わずに、優しく頭を撫でていてくれた。
アディートは、本当に優しくて、温かな人だった。
わたしは、彼の温かさが好きだった。いつだって、彼のその温かさに安心できた。
彼の温かさは、わたしの中に芽生えた不安も恐怖も、全部溶かしてなくしてくれた。
だから、早くアディートに帰って来てほしいのに。
どうして、彼はわたしの元に帰って来てくれないんだろう。
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「ハルカ、もう少し食事を食べられないか? 最近、ほとんど残しているじゃないか」
心配そうな顔をした殿下が、わたしの顔を覗き込んできた。
わたしは彼に、曖昧な笑みを返した。
食事は、ちゃんと摂っているつもりだ。でも、もしかしたら殿下の言うとおり、ほとんど食べていないのかもしれない。自分ではおなか一杯食べているつもりなんだけど、サラさんも食事の度に、殿下と同じことを言う。
心配かけて、ごめんなさい。
そう言ったら、殿下にとても悲しそうな顔をされてしまった。
以前のようにわたしをからかってこない殿下は、とても優しい。でも、わたしは彼に悲しそうな顔ばかりさせている気がして、それが申し訳なかった。
殿下は突然現れた異世界人であるわたしを保護してくれているのに、彼に迷惑ばかりかけてしまって、自分が情けない。でも、謝ったら、それはそれで悲しそうな顔をされてしまうから、どうしたらいいのかわからない。
アディートは、どうして帰って来ないんだろう。
アディートがいたら、殿下はすぐに、いつもの自信満々の笑顔になるのに。
そう考えて、わたしは馬鹿だなぁ、と思った。
アディートは死んでしまったから、もう2度と会えないのに。
そうやって、わたしは何度も同じことを思って、すぐに否定して――それをずっと、繰り返している。
本当に馬鹿だなぁ。
でも、わたしはアディートが死んでしまったということをちゃんとわかっているつもりなのに、どうしても彼の帰りを待ち続けてしまうのだ。
大好きなのにな。
わたしは本当に、アディートのことが大好きなのに。
「愛してる」なんて恥ずかしい言葉を心から言える、初めての人なのに。
この世界でわたしが生きる意味を与えてくれた、大切な人なのに。
『光の神の使者』ではなく、『三谷春香』を求めてくれた、唯一の人なのに。
なんで、わたしはアディートが死んでしまって、悲しくないのだろう。
泣きたいはずなのに、涙が全然出てこない。
「……ハルカ」
優しい声で、殿下に名前を呼ばれた。
顔を上げると、殿下がわたしを優しい顔で見つめていた。
相変わらず綺麗な顔だなぁ、殿下。羨ましいなぁ。
どうでもいいことを思いながら、殿下を見つめ返す。
殿下は苦笑して、わたしの頭を少しだけ乱暴に撫でた。くしゃくしゃに髪の毛が掻き乱されてしまった。
ああ、これ、からまって変なことになるんじゃないかな。サラさんに怒られるよ、殿下。
「お前は、どうしたいのかな」
殿下がわたしの髪の毛をくしゃくしゃにしながら、そんなことを呟いた。
「選択権はお前にあるんだがな、ハルカ。私はアディートにお前のことを頼まれはしたが、それは『王太子』としてで、私個人に頼まれたことではないのだよ。アディートは、何がお前を守るのに大切なのか、それをよくわかっていたからな。
だから私は強制はしない、お前にはな。だが、このままのお前を見ているのは辛いんだよ。
……早く、アディートが死んだことをわかってくれ、ハルカ」
わたしはぼんやりと殿下の顔を見つめた。
殿下の言っている言葉は、聞き取れた。でも、意味は分からなかった。
殿下は悲しそうな、怒っているような、苦しそうな――たくさんの感情が混ざり合った、複雑な表情を浮かべていた。そして、くしゃくしゃにしたわたしの髪を、今度は丁寧に手櫛で梳いて整えてくれた。
……何が言いたいんだろう、殿下は。
ぼんやりと、そう思った。意味が分からなかったから。
アディートが死んでしまったことは、分かってるのに。
今更、そんなことを言われたって、しょうがないよ。
でも、どうしてもアディートの帰りを待ってしまうんだ。
ただ、それだけなんだよ。
殿下は優しい声のまま、静かにわたしに語りかけた。わたしは殿下の顔を見るのをやめて、自分の左手の薬指に咲く、『アディート』の花を見つめた。
「ハルカ、今日でもう4週間だよ。アディートが私のせいで死んで、4週間だ。……お前は1度も私を責めないし、泣かないな。私にはそれが1番辛いとわかっていて、やっているのか?」
殿下が何か言っているけど、わたしにはもう、彼の言葉が分からなかった。
言葉が言葉ではなくなって、ただの音として流れて溶けてゆく。
「……ハルカ。せめて、食事だけはちゃんと食べてくれ。お前、だいぶん痩せてしまったぞ? 顔色も悪い。城の者も神殿の者も騎士たちも、皆、お前のことを心配しているんだ。頼むから、このまま消えてくれるな。アディートが死んでしまって、お前にまでいなくなられてしまったら、私は一体、どうすればいい?」
ふいに、殿下に抱きしめられた。
サラサラと、殿下の綺麗な金色の髪がわたしの頬をくすぐって、それが奇妙に心地よかった。殿下は香水か何かを王族の嗜みとしてつけているのか、彼の身体からは微かに甘い香りがした。
でも、アディートに抱きしめられたときのような安心感はなくて、殿下の行動の意味が分からないわたしは、ちょっと困ってしまった。だから、わたしの肩口に顔を埋めた殿下の頭を、できるだけ優しく撫でてあげた。
陽の光をぎゅうっと集めたかのような、キラキラと輝く殿下の髪は、妙に手触りがよく艶やかだった。きっと枝毛なんて存在しないに違いない。それがなんとなく腹立たしくて、途中から乱暴に撫でまくってぐしゃぐしゃにしてやった。
「……ハルカ、お前な……」
憮然とした表情で、殿下が顔を上げてわたしを睨んだ。
至近距離で絶世の美貌に睨まれたのは初めての体験だったけど、かなり怖かった。
わたしは無言で殿下から視線を外して、ずりずりと座ったまま長椅子を移動して、殿下から距離を取った。殿下は不機嫌そうな顔でわたしを睨んでいたようだけど、怖いから見なかった。……美人が怒ったら、とんでもなく怖い、本当に。
殿下は溜息をついた後、長椅子から立ち上がって、わたしの方を見て一言、「明日もまた来るよ」とだけ言って、ぐしゃぐしゃになった頭を直しつつ、部屋から出て行った。
……なんだったんだろう。
途中で殿下の言葉がわからなくなってしまったから、状況が上手く飲み込めなかった。
わたしは殿下が座っていた場所を見つめて、ふと思った。
――ああ。殿下も、アディートがいなくて寂しいのか。
彼が毎日わたしに会いに来るのは、わたしのことを心配しているのもあるのだろうが、アディートがいないことが辛い、というのもあるのかもしれない。
殿下とアディートは、仲が良かったから。
わたしは2人のじゃれ合いを見るのが好きだったけど、羨ましくもあった。殿下はアディートを何かと構うのが好きで、アディートも殿下に構われて嬉しそうだったから。
男同士のくせに仲が良いから、殿下がアディートの初恋の相手だなんて変な噂を立てられるんじゃないの、などといじけながら思っていた。
ああ、アディートが今、ここにいてくれたらいいのに。
今ここにアディートがいてくれたら、わたしも殿下も、すぐに元気になれるのに。
それが絶対に無理なことを分かっているのに、そう望まずにはいられない。
帰って来てよ、アディート。
無理だってわかってるけど、わたしはまだ、アディートのことを待っているんだよ。
最近、夜眠ることが、怖くてたまらない。
夢を見るのだ。
それは日本にいる、わたしの家族の夢だ。
やつれてしまったお父さんとお母さんが、わたしの部屋の床に座り込んで、2人でわたしの名前を呼んで、泣いている夢。ときどき、おじいちゃんやおばあちゃんもいる。
わたしがこの世界に来るときに、置いてきてしまった荷物。恐らく玄関に置きっぱなしになっていたのであろう、わたしが学校に行くのに使っていた鞄と卒業証書を抱きしめて、声をあげて家族が泣いているのだ。わたしの名前を何度も呼んで、どこに行ったの、どうして帰って来ないの、どうして、どうして、と泣き叫んでいる。
わたしもかつて、1人きりで隠れて泣いていたときに、同じことを何度も思った。
どうしてわたしはこんな世界にいるの、どうして帰ることができないの、どうして、どうして、と。
答えの出ない問いかけは、とても虚しくて、悲しい。
この世界は、すぐに命の危険にさらされるような、そんな危ない世界ではなかった。
殿下もアディートもレスティアナ様も、優しかった。『光の神の使者』なんて肩書きがついてしまったけど、彼らはわたしのことを、なんとか守ろうとしてくれた。彼らだけではない、神殿の資料室にいた、優しいお兄さんみたいな3人の神官さん、わたし付きの侍女であるサラさん、騎士団にいる騎士さんたち。嫌がらせや悪口を言われたこともあるけど、それ以上のたくさんの人が、わたしに優しくしてくれた。
でも、ただ家族に会えないということが、こんなに辛くて悲しいことだなんて、思ってもみなかったから。
死んでしまう以外に、家族と永遠に別れてしまうなんて、そんなこと、思ってもみなかったから。
だから、悲しかった。涙が止まらなかった。
何の特別な力もない異世界人のくせに、『光の神の使者』なんて嘘をついて、下手くそなお芝居をして、それでたくさんの人に守られているくせに、わたしはそれでも家族に会いたかった。日本に帰りたかった。
アディートに抱きしめられるまで、彼に告白されるまで、日本にいる家族だけがわたしの拠りどころだった。
だから、夢を見るのが怖い。
アディートがいなくなってしまった今、わたしはもう、この世界には用なしなんじゃないかって思ってしまう。家族が日本で待っているんだから、そこに帰らなくちゃって、そう思ってしまう。
帰り方なんて、何ひとつわからないのに。
あっという間に日々が過ぎていくのが信じられない。
アディートのいない毎日は、とても空虚だ。
この世界に来てから、ほとんど毎日顔を合わせていた、大切なあの人。
彼がいないのに、わたしの時間はなんの問題もなく進んでいく。
どうして、わたしはこの世界にいるんだろう。
アディートは、どうして死んでしまったのだろう。
答えの出ない問いと、答えを認めたくない問い。
2つの声がずっと、わたしの胸の中で問いかけを繰り返している。
自分でもどうすればいいのか、わからない心。




