第八話 倒錯
長い夢を見た。
薄暗い部屋にベッドがあって、私は太った女と一緒に横になっている。甘ったるい匂いが室内に充満していて、私は鼻が馬鹿になりそうだと思って毛布に顔を押し付けた。私の動作を見ていた女が背中から覆いかぶさってきた。私は暑苦しい彼女を撥ね退けようとしたが、相手は私より体が大きく重かった。向こうの贅肉が波打って震えた。私は解剖を待つカエルのような姿勢でベッドの上に固定された。
女が言った。「どうしてあなたはここへ来たの?」
「悔しかったからさ」うつ伏せになって私は答えた。「無意味な人生なんだ」
「あんまり卑屈になっても駄目よ。ノイローゼになるわ。私のお父さんが鬱病になったんだけど、見てられなかったわ。あの人もう死んじゃった」
「僕は鬱病じゃない。ここに来たのは、納得するためだ」
女は私の上からどいた。同情するような光が瞳に映っている。私は聞いた。
「もう全部変わったんだ。聞いてくれ。女の子が一人部屋で死んでたんだ。私が探していた女の子だよ。母親に依頼されたんだ。見つけはしたけどもう事切れてた。可哀想な死に顔だったな。でも依頼はもう終了したんだ。勿論後で一応連絡はするけど、これ以上どうしようもない。犯人を捜すのは警察の専売特許だ。私は探偵じゃないしね。でもむしゃくしゃするんだよ。ずっとそうだ。こういう気分が延々と続いてるんだ。もしかすると誰だってそうかもしれない。みんなこういう胸の燻りを抑圧して生活しているのかもしれない。真っ新な気持ちで生きていられる人は少ないもんね。でもどうにかしたいんだ。どうにかしないといけないんだ。それが世界を守るってことにつながると思うんだ」
「あなたは私より年上なのね? 信じられない。どうしてこんなことになってしまったの? でも困ってるのね。私には何もわからないわ。あなたは説明が下手ね。そうして独りよがりだわ。だから私のところに来たんだわ。仕方ないものね。私にもあるわ。お父さんのことも彼氏のこともお金のことも同僚のことも、全部私にとっての燻りなのよ。でも我慢してるの。人生は永遠の忍耐だわ。人間はね、馬鹿にならなきゃどうしようもないのよ。わかるでしょう? 前提として死の恐怖があるし、それを四六時中考えていたら無気力病になるわ。だから人間は死を忘れるの。自分の真後ろに死神が立っていて、いつだって目を光らせていることから逃げるの。そうしないと正気を保っていられないのね」
「私は逃げたくないんだ。もう散々逃げ続けてきたから」布団の裾に皺が寄った。天井から降る怪しげな光が油絵のような陰影を部屋全体に落としている。「どうにかしなくちゃいけないんだ」
「なら続ける事ね。あなたはもういい年なんでしょ? それならやるしかないわ。たとえそれが無意味なことに思えてもね。無意味なことなんてないと私は言わないわ。世の中には無意味なことだらけ。でもね、私は思うけど、それは歴史から見れば無意味でも、本人たちにとっては非常に意味があると思うのよ。車輪の再発明ってあるでしょ? あれは確かに無意味なことだけど、発明した本人にとっては様々な啓示があるはずだわ。無意味な事だったと知って、そこで折れなきゃ更に素晴らしい人生になるのよ。そう信じたいわ。だからね、あなたはあなたが思う事をするべきだわ。人生は一人称で主観がすべてなの。主人公かどうかは知らないけれど、それだけは確かだわ」
部屋の壁の裏側にある歯車は、嚙み合わせが悪いようで不気味な音を立ててその回転を止めた。私はベッドの上で這い上がって女を見た。それから鏡に映った自分を見た。魔法少女になる前の私だ。上半身が裸で、髪の毛がボサボサだった。私は首だけで振り向いて女を見た。女は照明の効果で顔色は南瓜のようである。
これは古い記憶なのだった。私はこの一か月後に魔法少女になり、すべてに別れを告げるのだ。今はもうこの女も墓の下に骨となって埋葬されているだろう。もしかすると無縁仏になっているのだろうか。どうしようもない空白感が胸にドッと押し寄せて、私は泣きたい気持ちで声を上げた。
ベッドの上で猛烈な寝汗と共に目を覚ました。薄暗い室内には微かに光が差し込んでいる。肌寒い朝の空気が部屋を満たしていた。夢であってほしいものが夢ではなく、夢であってほしくないものが夢なのだ。この世界は全体が倒錯している。そう思った。
私は夢の中の啓示に従って淡光の事件について調べることにした。昨日斎藤警部が私に話した経理殺害の事件である。ただの直感だが、なにかが繋がっている気がした。同じ世田谷区内の殺人である。
ニュースを検索してみると、幾つかの記事が出た。11月8日の未明に世田谷区桜ヶ森の住宅の一室で樋口桔平(37)が死んでいるのが発見された。第一発見者は淡光のメンバーで、彼らが警察にも通報した。樋口氏の死亡推定時刻は7日の午後九時ごろで、拳銃で胸と頭に一発ずつ銃撃された痕が見つかっている。今のところ容疑者の特定には至っていない。
私はお茶漬けを食べながらテレビのニュースを見た。天気予報によると、今日もまた曇りらしい。明日は朝から晴れるようだ。
着替えて車に乗り込み、出発した。目的地は樋口桔平の自宅がある桜ヶ森である。これは誰の依頼でもない。報酬も発生しない。危険だけが隣り合わせになっている魔女の暇つぶしである。私は私を納得させるために、事件を調べる。それが延いては世界を守ることに繋がると祈って。