第四話 秘密
私は車の中で溜め息を吐いた。どうしてこうなってしまうのだろう。私が悪いのだ。どうしても腹が立った。機嫌も悪かった。低気圧の所為なのだ。
時々、魔女よりもずっと人間の方が邪悪じゃないかと思う。元々はと言えば魔法少女が生まれた原因は人間や社会が悪いからだ。私たちはいわば生贄なのだ。なんて。……
すべては私の我儘なんだ。
この依頼を受けてから私は昔の信条を何度も思い出していた。あの頃──魔法少女として国の為に毎日働いていた頃、私は『世界』を守るために戦っていたのだ。私にしか世界は守れないと信じていたのだ。
しかしそれは急速に崩壊した。今となっては私の中にしか世界は存在しないように思えた。守るべき対象がいないから、私は表舞台から姿を消した。今さっきの下らない一幕は、結局私の中の世界を守るための行動だった。それは他人から見れば正しくないだろう。しかし私の中では、どうしようもなく正しかったのだ。
車を路上に停めて、段々と落ち着いてきた頭で考えた。取り敢えず、サアヤという女子について知らなければ意味がない。私は携帯を取り出して石原家へ電話をかけた。暫く発信音が鳴って、誰かが受話器を取った。私は言った。「もしもし?」
「はい、どちら様ですか?」若い男の声だった。
「石原さんですか?」
「そうです。石原琥太郎です」
「今お宅に窺ってもいいですか? 私のことに就いて美穂さんから窺っていませんか?」
「誰なんです? 俺聞いてないですよ」
私は角崎へ車を走らせた。角崎は寂れた住宅地が多かった。人気が少なくて、歩いているのは高齢者ばかりだった。町全体が高齢化しているといった感じである。
石原家が住んでいるマンションは庭に動物を模した遊具が並ぶ幼稚園を過ぎて、左に曲がった狭い道の先にある緩い傾斜を下ったところにあった。
何もかもに取り残されたという雰囲気のマンションだった。壁の漆喰は所々剝がれていた。駐車場のコンクリートの隙間からは雑草が逞しく伸びていて、名前の知らぬ黄色い小さなあまり美しくない花を咲かせていた。
集合玄関には明かりがついていない。自動ドアの前のパネルに、美穂から聞いた部屋番号を入力する。琥太郎が応答して自動ドアが開いた。私は通路を歩き、階段を素通りしてエレベーターに乗った。
三階まで静かに上昇した。足元の靴の汚れに塗れたカーペットの上に立って、私は扉とは反対側に或る鏡を見た。髪の毛を整えてコートの襟を直した。鏡にはやはり女子中学生ぐらいの少女が映っていた。顔立ちは恐ろしく整っていて、瞳は長い時間をかけて職人が磨いた漆黒の宝石のような深みがあった。少女は憐れむ様な冷めた目線でこちらを見つめていた。
黒髪を指で梳いていると、エレベーターが停まり、扉が背後で開いた。私は石原家の前に立ち止まって呼び鈴を鳴らした。琥太郎がやってくるまで、後ろの景色を見ていた。相変わらず曇天の下に、家々の軒が連なり、電信柱が方々に生えて電線を広げている。遠くに野球場のフェンスが見えた。耳をすませば子供たちの声が聞こえるかもしれない。地上にいるよりかは塞いだ気持ちが救われる風景だった。
琥太郎が玄関を開いた。私の姿を見て吃驚したようだった。私は挨拶した。もしかすると美穂は琥太郎に自分が鮎菜の捜索を依頼した事実を知られたくはなかったかもしれなかったが、それを気にしていてはいられなかった。
室内に案内された。私はリビングの椅子に座って琥太郎が出したお茶を飲んだ。琥太郎が言った。
「姉貴がいなくなったのは知ってたけど、まさかそんな大事になっているとは知らなかった」
「君は鮎菜さんをそこまで心配していないのか?」
「昔から母さんは心配性なんだよ。神経が過敏なんだ。姉貴がいなくなってからまだ三日も経ってない。それで色々なところに駆け込んで……」
「しかし鮎菜さんから電話が来たんだろ?」
「なにそれ、知らないなあ?」琥太郎は初耳だという反応だった。私は迷ったが説明した。「つまり姉貴は誰かに命を狙われてるってことか。どうしてそんな」
「君のお姉さんの部屋を見せてもらっていいかな」
「ちょっと待ってて」琥太郎は一足先に鮎菜の部屋を覗いて、顔を出した。「いいよ。別に散らかってないし」
そこは一般的な女子の部屋と大差なかった。壁に沿った位置に置いてあるベッドには布団が綺麗に敷かれている。ベッドの下に抽斗があり、開けると靴下が入っていた。
反対の壁に箪笥と棚があって、棚の上には化粧道具が並んでいる。部屋の中央に小さな木製の円卓があって、新し目の絨毯の上で寂しく主人の帰りを待っているのだった。
私は部屋の中に入ってから琥太郎に聞いた。「サアヤって女子に心当たりあるかな?」
「え? 沙亜弥? 彼女がどうかしたんですか?」
「知ってるの?」私は琥太郎を見て言った。「彼女は鮎菜さんと親しい友達なんだろ?」
「そうですよ。福田沙亜弥でしょう? 小学校と中学校が確か同じだったんじゃなかったかな。高校は別のところ行きましたね。向こうの親は裕福なんですよ。確か今大学生じゃなかったかな」
「彼女の住所はわかる?」
「いや、俺は知らないけど、多分年賀状とか漁れば書いてあるんじゃないかな。毎年届いてたし」琥太郎はそう言って棚の抽斗を次々に開けていった。「これこれ」
琥太郎が取り出したのは輪ゴムでまとめられた年賀状の束だった。私はそれを受け取って一枚ずつ見ていった。福田沙亜弥の年賀状を見つけた。住所が書かれていた。そこまで遠くない。世田谷区内である。
私は琥太郎に礼を言った。「助かったよ。機転が利くんだな」
「姉貴は生きてると思いますか?」初めてそこで不安そうな声で琥太郎が聞いた。「やっぱり駄目ですかね。もう、姉貴は助からないのかなあ」
「なんでそう思うんだ?」
「俺は思うんだけど、姉貴は淡光の連中に命を狙われてると思うんだよ」琥太郎は滔滔と語り始めた。「母さんから聞いたかもしれないけど、俺たちの父親は、俺が母さんの腹の中にいる時、殺されたんだ。淡光の頭領って言われてるグラジオラスって魔女に」
グラジオラスといえばヘクセンナハトのメンバーで、現在指名手配中の重要人物だ。淡光の頭領を担っているから、かなり強力な魔女なんだろう。
「親父は長い時間かけて殺されたんだ。姉貴はそれを子供ながら見ていた。だから人一倍復讐心が強い。姉貴は勇敢なんだ。だから馬鹿みたいな真似をする。きっとそれで淡光に目をつけられたんだ」
「鮎菜さんは淡光に何かしたの?」
「いや、それはわからないけど……でも子供の頃、俺に言ったことがあるんです。自分がいつか淡光を破滅させてやるって。あの魔女を殺してやるって」
私は福田沙亜弥の住所を暗記して、年賀状を返した。部屋を出てリビングに戻った。カーテンの向こうから白い光が差し込んでいる。
「鮎菜さんに彼氏がいたのは本当?」
「彼氏……、山崎のことかも」
「山崎?」初めて聞く苗字だった。「何者なんだ、そいつは」
「結構前だけど、俺が学校から帰ってきた時、マンションの前に黒いこの辺りじゃ見かけないような車が停まってて、その車の傍に男が立って煙草を吸ってた。男は俺より身長も高くてガタイもよかった。喧嘩したら勝てないね。顔は整ってたけど、なんか目つきや雰囲気から、尋常じゃない感じがした。堅気の人間じゃない、みたいな。……俺は関わりたくないから、出来るだけ存在感を消してマンションに入ろうとしたら、そいつに声かけられて、『お前が鮎菜の弟か』って聞かれた。無視するのも怖いから俺は振り返ってそうですとだけ言ったら、男は嘲笑うみたいに、俺のことを『陰気な奴だな、女も出来んわ』って馬鹿にした。初対面の奴にそんな風に言われたんだ。俺が男に言い返す前にマンションから姉貴が出てきた。なんていうか、そっちの男ウケするような化粧だったな。言っちゃ悪いけど水商売みたいなさ。姉貴は俺に、『さっさと家に帰りなさい』って言って、男の車に乗り込んだ。男は煙草の吸殻をその場に捨てて、踏み消しもせず、俺の方に軽い一瞥をくれただけ。車はさっさと走って行っちゃったけど、姉ちゃんが帰って来てから『あれは誰なんだ』って聞いたら『山崎だ』とだけ答えたよ」
「よく覚えてるもんだな」私はお茶を飲みながら言った。
「そりゃ嫌な記憶だからね。今でも思い出すと虫唾が走るよ。あの男と姉貴がもしかしたらトラブルに遭って、面倒なことになったのかもしれない。俺は思うけど、もし姉貴がこれで死んじゃっても、自業自得だよ。姉貴は勇敢だけど愚かなんだ」
私は玄関で靴を履いて琥太郎に言った。「君は淡光や魔女が憎くないのか?」
「憎いよ」琥太郎は廊下の壁に寄りかかって言った。「憎いけど、どうしようもない。無謀な行動だけは避けるべきなんだ」
「無謀じゃなければどうなんだ?」
琥太郎は答えなかった。私は扉を開けて灰色の世界に帰っていった。
私はマンションの廊下を横切り、手すりから身を乗り出した。真下を確認する。アスファルトが広がっている。奥には舗道が横に伸びていて、今は男子中学生が物憂げな表情で歩いているだけだ。
左手の腕輪が紫色に発光して、私の服装がトレンチコートからゴスロリ風の戦闘服に変身する。重心を前に寄せて、手すりから一気に地面へ落下する。膝を曲げて衝撃を吸収し、服の裾がふわりと空気に膨らみ、私は変身を解除する。
呆然と私を見つめる男子中学生に向け、唇に人差し指を当てて秘密だよ、と合図を送ってから車に乗り込んだ。