第三話 傲慢
私は薬局を後にした。車が再び灰色の街を走る。
フロントガラスの正面に広がる曇天の奥に聳え立つ大きなビルがある。今は空の色を反射して青黒く淀んでいる。あれが魔女の支配の象徴である横ノ宮淡光ビルである。
もとは20世紀に建設された25階建ての超高層オフィスビルだった。魔女に支配されるまでは横ノ宮もそれなりに賑わった都市として栄えていたが、今では見る影もない。
ヘクセンナハトや淡光が成立したのは2010年あたりだ。
淡光に権利を奪われて乗っ取られ、気づけば魔女の象徴と化した。
私は空腹を感じたのでハンバーガー屋の駐車場に車を停めて店に入った。
マーレバーガーという歴史の浅いチェーン店で、昔隆盛を誇った他のハンバーガー店は魔女の影響で日本から遠い過去に撤退していた。競合はいないが、値段は高騰せずに手頃な価格で済んでいるので、私は気に入って頻繁に利用している。
店員に注文してから番号札を持って二階の椅子に座った。暫くして店員がセットを運んできた。店員は私の容姿を見てギョッとした様子だった。私は礼を言ってハンバーガーセットを受け取った。
曇天の空は薄墨を垂らしたようで、いつ雨が降ってきてもおかしくない息苦しさだった。じめじめした店内で椅子を引くと嫌な音が鳴った。
車の後部座席にビニール傘を置いておいたかな?……私はポテトを二本掴んで口に運びながらそんなことを考えていた。……
今のところ分かっているのは、鮎菜が行方不明であること。サアヤという親しい友人がいること。彼女に彼氏がいたこと。それだけだ。圧倒的に情報が足りない。
私は正直言って、鮎菜の母親への『殺されるかもしれない』という電話は狂言ではないかと思っていた。何のために命の危機を母親へ告げるのかは知らないが、勤務先へ休暇の電話をかける余裕があって、母親に自分の居場所を教えられない状況というのは考えられない。
今回の依頼は娘を見つけることだ。彼女がどういう理由で姿を消したのか調べる必要はない。彼女の居場所さえわかればいいんだ。
食べ終わった後のゴミを一階で捨てていると、入り口から騒がしい男たちが入ってきた。私は捨て終わった手を洗面所で洗いながら、彼らを横目で見た。レジの前に屯したガタイのいい男たちは、何を注文するか下品な笑い声をあげながら話していた。
私が彼らが屯している傍の出入り口から店を出ようとすると、男の内の一人が私の前に立ちふさがった。私は不機嫌だった。彼を見上げて言った。「私の邪魔をしないでもらえるか。ここを通りたいんだ」
「お前魔女だろ?」男が言った。「ここが何処だかわかってんのか? 横ノ宮だよ。淡光の縄張りなわけ。お前ここで何してんの?」
「ハンバーガーを食べに来たんだよ」当たり前のことだった。
私は周囲を確認した。仮に戦闘が始まるとしても、面倒な賠償金は払いたくない。まさかハンバーガー屋で暴れた所為で指名手配されるなんて馬鹿馬鹿しい事態にはならないだろうな。……
「言葉遣いに気を付けな、田舎もんの魔女め」男は私の頭を上から触った。気色の悪い大きな掌が髪の毛を軽く握った。「俺はなぁ、お前みたいな気取った態度でいる奴が一番嫌いなんだ。……自分が一番偉いと思ってる。いざという時はどうにもなると知ってるタイプだ。周りを見て見ろよ。普通の小市民なら、俺たちが騒いでるのに、わざわざこの扉から出て行こうとはしないぜ。離れた出口もあるんだからな。つまり、お前は自分が魔女で、人より強いから、それを自信に思って、ここを通ろうとしたんだ。それで止められたんで、苛々してんだろ? 田舎ならそういう態度でも他の人間はビビッて許してくれたかもしれないが、ここは天下の横ノ宮だよ。もっと謙虚にならねえとな」
男の眼は冷たくギラギラしていた。顔全体が銅で出来ているみたいだった。周りにいる男たちは私と男がどこまでいくのか見物だと言わんばかりにニヤニヤ下卑た笑みを浮かべていた。
「魔女だからって俺たちがいつまでもへっぴり腰でいると思うなよ。俺は前にも田舎から出てきた魔女をのしたことがあるぜ。調子に乗ってたから俺が少し痛めつけたら案外簡単に死んじまったよ。俺はもうちょっと魔女ってのは強いもんだと思ってたがね」
「どうして私を煽るんだ」私は左手で男の腕を掴んだ。「どうして私を怒らせるんだ?」
「なんだ、その腕は。俺に手を出して見ろ。お前みたいな弱い魔女は、すぐ指名手配されて警察に殺されちまうぜ」男は目を細めた。彼は話を戻した。「俺が殺した魔女は糞を漏らしたんだ。俺がナイフで刺しまくってたら小便も漏らしてさ。ダンゴムシみたいに蹲ってピクピクしてたよ。あれは忘れもしない俺が24の時だった。今でも魔女殺しって仲間に呼ばれることがあるんだ。偉い勲章なんだな。当時は魔女狩りが流行っただろ? お前みたいのは田舎でビクビクしてたんじゃないか? あの時、俺は魔女狩りを成功させた英雄になったのさ。それまで俺のことを人でなしとか言って軽蔑してた近所の連中が簡単に手のひらを返したのは滑稽だったが嬉しかったね。あの頃から俺は魔女を恐れなくなった。他の奴は魔女を見かけるたびにビビってたが、俺は違う。逆に狩人が兎を見つけた時みたいに興奮しちまうんだ。だからあんたみたいな活きのいい生意気な魔女をみると、こうしてちょっかいをかけたくなるんだよ」
男の発言にも一理あると私は認めた。確かに私は魔女だから、自分の実力に自信があるから、こういう男たちに対しても恐れることなく、この出入り口を目指したのだ。私はそれを傲慢だとは思わない。ライオンが草食動物を恐れず平原を闊歩するのは傲慢とは呼べないのだ。しかし次に起こす行動は、傲慢だろう。私は言った。
「私がここを通らなかったら、誰がここを通るんだ?」
男の腕を掴んでいる左手に、一息に力を込めた。私の腕に青い血管が透けて見え、男の腕が砕ける一歩手前まで握力が強まる。男が絶叫しながら私の髪の毛から手を放し、汚れた床に膝をついて、私の目前に醜い大きな顔が落ちてきた。黄色い歯の隙間から泡が溢れ、濁った眼が歪んで充血している。私は言った。「糞を漏らしたいのか?」
私は男の顎を右手で一発殴った。男はその場に横向きに倒れた。壁に頭をぶつけるゴンという音が静まり返った店内に響いた。他の男たちは困惑した表情で私を見つめてから、倒れた男に駆け寄った。店員は迷惑そうなしかめっ面で私を睨んだ。この店には二度と入れないだろう。