第二話 調査
世田谷区にある横ノ宮という町は閑散としていた。そして陰気だった。いくらかは、現在頭上に広がる重苦しい曇天の影響もあるだろう。それに、今の時代は、日本のどこを見ても陰惨とした印象を受けるものだ。
罅割れた道路はいつから放置されているのか、私の車はそこを通る時がたりと揺れた。
信号を待っている時、横断歩道を背の低い男が、運転席に座っている私をジロジロ見ながら、小走りで通り過ぎた。私は苛々して飴を舐め始めたが、信号が変わるまでに噛み砕いてしまった。舌先で歯の間に挟まった欠片を舐め乍ら運転していると、日に焼けた文字で「ノンナ薬局」と書かれている店を見つけた。
車から降りると霜月の寒い風が吹き私のトレンチコートを揺らした。吐く息は白い。ポケットに手を入れながら自動ドアを通った。店内は明るい賑やかな音楽が流れて、ここに来るだろう病人や病人の知人、そして病気に怯える人々を励まそうとしているのだった。
受付には誰も立っていなかった。私がブザーで人を呼ぶと白衣を着た若い女の薬剤師が顔を見せた。私は態と左手の腕輪を、彼女が即座に発見できる場所に見せた。女は面倒くさそうな顔をして、私に聞いた。
「何か御用ですか?」
「ここで働いている石原鮎菜さんに就いて聞きたいことがあるんだけど。鮎菜さんのことを彼女の家族が探しているんだ」
薬剤師は困った表情を浮かべて「少々お待ちください」と独り言のように呟き、再び裏へ消えた。明るい音楽が降り注ぐ白い清潔な店内に、私はまた一人残された。店内に人影はなく、今は私だけらしかった。棚に並べられた錠剤や、四角い箱に書かれた文字は今の私には無縁だった。魔法少女は病気にならないし風邪もひかないのだ。
今度は奥から中年の白衣を着た男が出てきた。彼は私の方へぐいぐい来て言った。
「石原さんの家族に頼まれたのですか?」私が頷くと男は言った。「では事務所へ来てください」
男は胸に名札をつけていて小川という苗字だった。依頼が終わればもう二度と会わない男の名前だった。小川の後ろを歩きながら、私は薬局独特のフレグランスな香りを鼻腔に感じていた。
事務所には机が並びその上にパソコンが置かれてある。パソコンの手前に紙の資料が雑然と広げられており、細かい字が表と共に並んでいる。棚には色とりどりのファイルが並べられて背表紙に年月日が印刷されたシールが貼られている。床には照明の白い光が、こべりつくように反射していた。
「石原さんに何かあったのかね?」小川が私に聞いた。私は惚けた顔をした。
「何かあったんですか?」
「何かあったからここへ来たんじゃないのかね。それとも、別の理由があるのか?」
「何かあったかもしれないし、ないのかもしれない。それを確かめるために今私は働いているんです。取り敢えず石原さんは今日はここに来ていないんですね?」
「来ていない」小川は婉曲な私の喋り方に腹立たしそうに答えた。「本当は今日も勤務していなければおかしいんだ。しかし彼女は来ていない」
「彼女から連絡はありましたか?」
「あった。しかしあんなものは連絡でもなんでもない。まるで友達の遊びを断るようなものだった。社会人として許される態度ではない」
「いつ電話があったんですか?」
「一昨日の朝だ。いきなり私の携帯に電話があって、私が出ると、彼女は『しばらく休養を貰う』という。どういうことかと聞いてもはっきり答えず、いつまで休むのかと聞いても答えない。すべてが曖昧な返事だった。あれは大人げなかったが、私が電話口へ怒鳴ると、向こうは無言で勝手に電話を切った。その後は幾ら電話しても一切出なかった」小川はそこまで言うと、突然静かになり、感情が急降下したようだった。「しかし、少し時間が経つと、もしかしたら彼女には電話では言えない特別な理由があるのではないか、何か厄介なトラブルに巻き込まれたのではないかと思い始めた。だから私は石原さんの自宅にも電話したのだ」
「どうでしたか?」
「母親が出て私に謝ってきたが、詳しい事情は教えてもらえなかった。私としても家族に強く聞いたところで、意味はないと思ってね。結局どうして石原さんが姿を消したのかはわからず仕舞いだった。私も心配しているんだ。彼女は仕事が丁寧な薬剤師だ。去年からここで働き始めたが勤務態度は真面目だし、容量もいい。少し内気なところもあるが、それで空気を悪くするタイプではない。彼女がいなくなって他の職員も心配している」
「彼女と親しい職員はいましたか?」
「五十嵐さんが比較的、親しかったかな」小川は立ち上がって呼びに行ってすぐに戻ってきた。「休憩室まで案内しますよ」
休憩室にはロッカーが並んでいて、その前で五十嵐と呼ばれた薬剤師はスマホを弄っていた。小川が部屋を出て私たちは二人だけになった。
五十嵐がロッカーにスマホを仕舞って私と向き合った。垂れ目の、ショートカットの若い女だった。「鮎菜ちゃんがどうかしたんですか?」
「行方がわからなくてね。君は親しかったの?」
「まあ他の職員と比べたら、親しかったと思います。でもそんな……、休日に遊びに行く仲とかではなかったです。あくまで職場での関係です」そこまで言って、どうやら自分の口吻が冷たいことに気づいたらしく、慌ててつけたした。「でも誘えば遊びに来てくれたと思うし私も行ったと思います。鮎菜ちゃんは積極的に人と絡むタイプじゃなかったから、そういうことはなかったんですけど」
「石原さんに他に友達はいたの?」
「この職場には私より仲いい人はいなかったと思います。でも高校の友達とかは普通にいたんだと思います」五十嵐は再びロッカーからスマホを出した。自分のスマホを暫く触って、私に画面を見せた。「これ、彼女のSNSのアカウントです。写真とか投稿してあるの見ると、友達はいたと思います」
私の方でもSNSで検索してみたら、アカウントに鍵がかかっていた。承認されていなければ投稿を覗くことも叶わない。五十嵐のスマホを借りて、幾つかの写真を見た。大抵は景色の写真や集合写真が多かった。一枚だけ、遊園地で耳のついたカチューシャをつけた二人の女子がピースをしている投稿があった。左の、顔が薄い方が鮎菜だろう。右は誰なのだろうか。目が大きくて赤い口紅が目立つ女子だ。私は写真の投稿にコメントしているアカウントを辿って、それがサアヤという女子だと知った。スマホを返して私は聞いた。
「サアヤって女の子に心当たりはある?」
「ないです。私が北海道に住んでいた頃の友達にはいた気がしますけど、関係ないですよね?」五十嵐は苦笑した。「本当に鮎菜ちゃんとは職場だけのつながりで、彼女がどこの高校を出てるのかとかも知りませんし、彼女がどこに住んでいるのかも知りません」
「石原さんと最後に会ったのはいつ?」
「先週の金曜日だったと思います。いつも通りで、何か変わったところなんてなかったです。そういう兆候も感じませんでした。本当に普段と同じでした」
私は休憩室の壁に張られたシフト表を見た。細かい文字と数字が記入されている。鮎菜は週五勤務だった。火曜日と水曜日が休みだ。昨日と今日のシフトの予定は黒い線が引かれている。
「電話はやっぱりつながらないの?」
「そうみたいです。さっきもかけてみたんですけど、多分向こうの方で電源切ってるんじゃないかなあ?」五十嵐はもじもじしながら言った。「あの、あなたは魔女なんですよね? 探偵をやってるんですか?」
「いや、私は傭兵をやってるんだ。一人で事務所を開いて、活動してる。繁盛はしてない」
「実を言うと、うちのお父さんが魔女……というか魔法少女が好きで、だから私もそんなに抵抗はないっていうか……。だからちょっと魔法少女になってみて欲しいな」
「奇特なお願いだな」私は胸を張って言った。「もっとなにか、有益な情報をくれたら変身してもいいよ」
未だに純粋な魔法少女のファンがいるのは意外だった。純粋過ぎて少し不躾だが……。
世間は魔女を忌み嫌っている。魔女教なんて集団も存在するが、それは自然な形だとは思えなかった。
2008年に参謀局が解体されて、魔法少女が自由になり、今日まで日本を支配してきた。残虐な事件を幾つも起こしておきながら、正当に裁かれたことは一度もない。市民は魔法少女を魔女と呼び始め、魔女は諸悪の根源だった。左手の腕輪は死ぬまで外すことはできない。これは魔法少女になった時は祝福だったが、今では立派な呪いなのだった。
五十嵐は目を瞑って色々と苦悶していた。今彼女の頭の中では、記憶を整理した抽斗を次々に開き、記憶を捨てたゴミ箱を次々にひっくり返しているのだろう。私が時計を見ると正午過ぎだった。シフト表によれば一部の薬剤師がそろそろ休憩室に押し寄せてきそうだった。特にないなら別にいいさ。私はそう言って帰ろうとした。
「そういえば!」五十嵐が目を見開いて言った。「私忘れてたんですけど、これは結構前の話です。あの、鮎菜ちゃんと一緒に帰ろうとして、退勤したんですけど、店の前に黒い車が止めてあって、車の中にいる厳つい男の人がこっちに手招きしてきたから不安になって鮎菜ちゃんを見たら、彼女が私に『あれは彼氏だ』って言って、そこで別れたんです。鮎菜ちゃんは車に乗り込んですぐ車ごと走り去っちゃいました」
「その男はどんな風貌だった?」
「日も暮れてたし車内にいたからよく見えなかったですけど、髪の毛はこれぐらい短くて、鼻は高かったかな。結構イケメンって感じの顔立ちだったと思います」
「あとでその男に就いて聞かなかったの?」
「鮎菜ちゃんは自分のプライベートにあんまり踏み込んで欲しくなさそうだから、聞きたかったんですけど、聞けませんでした」
わかったのは、鮎菜に彼氏がいたかもしれないという話だった。五十嵐のような女から見れば、大抵の男は厳つく見えるので、彼女の印象は話半分に聞いた。
休憩室にノックが響き、二人の薬剤師が入ってきた。どちらも男だった。彼らは私の姿を見て気まずそうな顔をした。私は五十嵐に約束は守れそうにないと言った。彼女も無理には頼まなかった。
「あの、どんな名前で活動していたんですか?」
魔法少女は基本的にレートが上がって注目度が高まると魔法少女名を求められる。命名を参謀局に委ねてもいいし、自分で考案して提出してもいい。それが採用されると公の文書にもその名前が用いられる。今もネットで魔法少女の名前を検索すれば写真や、運がよければ戦闘シーンの録画が残っているだろう。ほとんどは消去されているだろうが……。
以前自分の名前を検索したら、写真も映像も見つからなかった。
なので私は答えた。「ホワイトリリィという名前だよ」