『刃』のシニカタへようこそ 1
滑らかな快感を死ぬ前に差し上げます。
「サトミサマ!」
不意に呼ばれた自分の名前。
キクカワと手を繋いだまま振り返ると、そこには見たことのない女の子。
茶髪のメッシュにつけまつげ、短いショートパンツにスニーカーというラフな格好の女の子が息を切らしながら駆け寄ってきた。
こんな子、知らない。
キクカワに視線を走らせたが、彼は無表情でその女の子を見ているだけ。
「サトミサマ、ごめんなさい。用事が立て込んじゃって、遅れました」
「だれ?」
「や、やだなぁ。加穂留ですよ。もう忘れたんですか?」
「加穂留?」
「メールも送ったじゃないですか」
確かに、加穂留の写真を思い出してみると、こんな感じだった気がするけど、こんなギャルギャルしかったっけ? もっとこう、清楚な感じがしてたような。
「......てかんじで、遅れるのでまずはキクカワに来てもらったんですって、サトミサマ聞いてます?」
「あ、悪い悪い、ボケッとしてた。ちゃんと聞いてる」
こんな口調だったっけ? メールは違った気がする。なんかこんな不良崩れみたいな、「なになにっすよ」みたいなそんな感じじゃなかった。
「ここのショー、面白くて有名なんですって。だからサトミサマと一緒に見たくて。まだ見たことないですよね」
「そうみたいだね。そんなのがあるなんてさっき初めて聞いた。その、あれだ、キクカワさんに?」
「キクカワにっすか? あいつ不愛想だし無口だからちょっと気持ち悪かったんじゃないっすか? 二人にするの不安だったんですよ」
少し後ろを歩いてついてくるキクカワの方をチラッと見て、加穂留は小さい声で耳打ちした。
やっぱりこんな話し方なんだ。この感じからしてキクカワさんのことはあまり好意的には見てないってことか。
そんな加穂留の態度に少しだけほっとした自分を複雑に思った。
パーク内を奥の方へ歩くが、周りには私たち以外に誰もいない。
時おり聞こえる鳥の囀り(さえずり)が妙に不気味に感じ、何度も辺りに目をやった。
誰かいるわけじゃないんだけど、なんだか得体の知れないものがそこにあるような、私の回りを黒い幕のようなものが覆っているような、そんな気がしてならなかった。
到着した場所は薄暗い場所。
今は使われていない病院の跡のような建物で、本当に人の出入りがあるのかすら疑わしく見える。
どういい方向に考えても、人の出入りはないとしか思えない。
蜘蛛の巣は辺り一面に張ってるし、ドアも壊れている。見た目お化け屋敷。
「ねえ、これって、お化け屋敷なんかじゃないの? こんなところでショーなんてやるの?」
「あは、やっぱお化け屋敷に見えます? でもこれも演出の一部なんで……なんすよね。私も最初びっくりしましたから」
「......へー、来たことあるんだ」
「何回も」
「何回も?」
「あ、キクカワ」
なんで何回も来たことがあるのか聞こうとしてたところで、加穂留は後ろにいたキクカワさんを呼び、手招きした。
キクカワさんは小走りに近寄ってきて、そんな光景を見ていると、なんだかキクカワさんが不憫に感じた。
もしかしたら加穂留にいいように使われているのかもしれない。そう思ったらなんだか、なんとも言い様のない気持ちになった。
胸をくすぐるというか、加穂留と私とは違うと思わせたいというか、兎に角、よく理解できないけど、そんな複雑な気持ちだ。
「サトミサマ、これどうぞ」
加穂留はキクカワから半ば奪い取るように小袋を取ると、それを私に手渡した。
手作りなんだろうか、その小さな袋の中には大小、形もさまざまなクッキーが入っていた。
「加穂留が作ったの?」
「まさか。こんなもん作ったこともあり......ないっすよ。あはははは、これはキクカワが作ったんですよ。あっ、ちっ......。あいつ、あんな感じなのに料理は上手いんですよね、あ、料理だけはですけどね、お菓子作りとかする男ってどう思います? 嫌じゃないですか」
「そんなことないよ。お菓子作れる男の子っで魅力的じゃない?」
「他はなんもできないっすよ。下手すぎて笑えるっていうか最悪」
下手すぎて笑える?
何が?
何が下手なの?
聞きたいけど、なんか、聞けない。なんでそんなこと聞くのとか思われても嫌だし。
てか、まず加穂留もキクカワさんも同じ高校生なのかな。
同じ年くらいだろうか。そんなかんじにも見えるけど、もっと上にも見える。
どこの学校なんだろ。うちの学校では見たことない。この二人がいたら絶対目立つはず。
お化け屋敷のような劇場の中は薄暗く、ひんやりとしている。
客席にはやはり誰もいない。ステージを見下ろすかたちとなっているこの劇場は、ボロボロ。本当にこんなところに人が入ってるんだろうか。
騙されてるんじゃないかと不安になる。
「そうだ、サトミサマ、私ちょっと飲み物買ってきますね。キクカワと二人きりになってしまいますけど、ちょっと辛抱しててください」
加穂留はキクカワに一言二言命令すると、さきほどとは違うドアへと向かって歩いて行った。
いきなり不安と恐怖に襲われた私は加穂留のあとを追いかけようと腰を浮かせ......
「やっぱ俺が作ったクッキー、口に合いませんでしたね」
「クッキー?」
後ろの座席にキクカワさんがいて、体を乗り出してくる感じですぐ近くにいる。
後ろから抱き締められる感覚に襲われる。でも、嫌じゃない。
「それ、捨てちゃっていいですよ」
悲しそうに笑うキクカワさんの顔を見たら、胸がキュンとなった。
「捨てないよ。ちゃんと食べる」
「無理しなくていいですよ。慣れてますから」
やっぱり邪険に扱われてるんだ。なんでそんなことをされるのに一緒にいるんだろう。ああ、そうか。加穂留のほうが先にあのサイトに入ったんだ。そのあとにキクカワさんが入ったってことか。
この二人も希望者なんだろうか。それにしては加穂留は元気すぎるんじゃないか。キクカワさんには憂いがあるが、加穂留は楽しんでいるようにさえ思う。
「あ、ほら、加穂留が飲み物買ってくるって言ってたでしょ、だから帰ってきたら......」
「あいつ、すぐには帰ってきませんよ。そういうやつですから」
「そうなの?」
「はい」
目を伏せたキクカワさんは深い憂いに包まれ、逆に抱き締めてやりたくなる。
でも、できない。そんなこと、したことないし。
「ひとついいですか? 自分で作ったのにあれなんですけど」
クッキーの袋を指指して、私の目をじっと見つめてきた。
「あ、じゃ、一緒に食べながら待ってようか」
「いいんですか」
「もちろん」
加穂留とは違うよ。私はあなたにやさしくできる。焦げたにおいのするクッキーは、少しだけ硬く苦味があった。
「あはは、うん、ちょっと硬いけどでもおいしいよ」
「ああ、そう言ってもらえると嘘でも嬉しいですね。作ったものを食べてもらえるだけでもありがたいのに」
嬉しそうに笑うキクカワさんの笑顔が嬉しくて、続けてもう1枚口に入れた。
うん、やはり苦い。
「加穂留とはね......」
キクカワさんが後ろから腕を私の胸のところに回してきて、びっくりして息を飲んだ。
「聞いてくれます?」
「も、もちろん」
「よかった」
硬めのクッキーを無理矢理飲み込むと、胸の前で両手に持っていたクッキーの袋の中にキクカワさんが手をいれ、1枚掴む。
袋越しに手が胸に当り、ドキドキした。
激しく打つ心臓の音を隠すように、高ぶった神経を落ち着かせるように、腹で深呼吸。
「どうぞ。ちょっと硬いけど。次回はもっとうまく作れると思う」
次回?
また会えるってこと?
そんなこと、あるの?
「加穂留とは仕事のパートナーなんです。
ただそれだけで、でも彼女の方が先輩だから逆らうことはできない。
言われたことはやらなければならない。きびしいですよ。理不尽なところもある。
それでも言い返せば逆にやりこめられる。
すごく頭のいい人だから、咄嗟の判断がきくんです。そこは尊敬しているところでもありますが。
しかし、一日たりとも休むことは......休めることはないんです。呼び出されたら行かなければならないし、どんなことでも言われた通りにやらなければならない。
一日中です。昼も、夜も。
はは、言葉の意味は想像におまかせします。
だから、俺もそんなにまともな人間じゃない。下僕のように扱われるんですよ。それでも、離れられないと思ってた。でも......あなたに......」
「私に......なに?」
「あなたに......
パークの入り口で会ったときにドキッとしたんです。なんであなたみたいな人が死にたいのかなって。悩みごとは誰にでもあるけれど、そこまでの悩みを持っている人は、こういうふうに......
俺に惹かれたりしないから」
「え?」
「それに、加穂留にライバル意識を持ったりしない。生きることを諦めている人は全てのものから興味をなくすんですよ。だから、もしかしたら君は本当は死にたくないんじゃないかって思った」
「しぬ? 誰が死ぬの」
「心底死を望む人はこういう気持ちにならない。早くこの世界からドロップアウトしたくてたまらなくなる。その局面で誰かに気持ちを寄せることなんてないんだよ」
「ちょっと何言ってるの? 誰が死ぬの。ちょ」
「......ここへ来たのは死ぬためでしょう。それとも俺を見てその気がなくなったとか? 俺のこと、タイプだった?」
冷たい笑い方で耳元でささやかれ、全身が言葉の通りゾワッとした。
キクカワに惹かれはじめていたことを見抜かれてる。加穂留とは違うと思わせたかったことを、こんな短時間で気づかれてる。
なんとか隠してきたのに。どうして分かったんだろう。体中の神経が昂るのが分かる。なんか言わなきゃ。違うってことを、理由を考えなき......
あれ......
「俺の仕事は依頼人を安らかに逝かせることなんですよ」
「いらうぃにゅ」
「それが俺の仕事」
「すぅぃこ」
「つまり、人が死んでいく瞬間を見届けることなんです。好きなんですよあの一瞬を見るのが。とても神秘的な瞬間です。1秒前まではこの世にとどまっていた意識が次の1秒をカウントする時にはもう、
違う、
誰も、
知らない、
どこか、
別の、
誰も知らない世界へ、
旅立っている。
そんな瞬間に立ち会えるなんてこんなに素敵で嬉しい仕事はない。羨ましいですよ。違う世界に行けるなんて」
なにこの人、こいつ、狂ってる。ここから逃げたい。
「ほら、君もそういう世界に興味があるでしょう? この先どうなっているのか知りたくない? 死後の世界とか、死ぬ瞬間に思うこととかどうなんだろうって思わない?」
「なじぇ、しょれお」
「あ、ああ、あれ、そうか、気づくのが遅れました。早かったですね。もう回ってきましたか? 薬。そうやって意識を保つの、大変でしょう?」
「いしゅ」
「大丈夫、すぐに楽にしてあ」
「キクカワ!!!」
怒声にびくりと体を震わせ、声の方を向けば、そこには怒りの感情を身体中に纏っている加穂留がいて、ペットボトルの飲み物を両手に持ったまま仁王立ちで睨み付けている。
キクカワは私に回した腕を一瞬で離し、直立不動で立ったまま動かない。
「どけ」
加穂留の低い声にキクカワはガタガタと椅子にぶつかり、距離を置くように慌てて遠ざかる。
なんなのこの人たち。
私、キクカワという人を間違えて見てたんだ。こいつ、まともじゃないんだ。ただ、ちょっと格好よくて、悲しそうなオーラがあって、だから、なんとなくそれに惹かれてただけで、こいつ、中身は………
口の中が痺れて声が出ない。
キクカワがクッキーの中に薬を仕込んだのかもしれない。
そういえば私の後ろにいたキクカワがクッキーを手にしてはいたけど、食べたかどうかは分からないし。
やられた。
「サトミサマ、大丈夫ですか? まだ無事ですか」
「(声が出ない)」口の形だけで訴える。
「ああ、そうですね、声が出ないんですね。まだ無事でいてもらわないと」
「(どうなってるのこれ)」
「さ、これを飲んでください」
水。
ペットボトルの水を手渡され、勢いよく一気に流し込んだ。口の中のパサつきはなくなったが、あいかわらず痺れていて、怖い。口の中が痺れるなんてことは今までになかったから、それが不安で、焦りになって、怖い。
怖すぎる。
「キクカワ、おまえ何やってんのよ。計画と違うじゃない。なんでもうクッキー食べさせたの? ショーを楽しませなきゃダメだったのに、これじゃ台無し」
「......」
「ほんと、まだあんたを一人にするとダメだね。なにもできないんだから。これじゃあ私はいつまでたってもここから出られない。ってことはあんたはいつまでも私の下にいるってことだよ」
「すまん」
「いい。最初そんなもん。でもいい、これが最後よ。2回目はないと思って。私が行ったことだけすればいい。何も考えなくていい。わかった?」
「わかった」
なに?
どうなってるの?
加穂留?
キクカワ?
この人たちの会話が読めない。
なにこの状況。よく、分からない。
でもなんだか......
眠くてどうしようもない。目を開けているのが苦痛でしかない。