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雨、やまないね

 雨の音が響いている。村にこびりついた血糊を洗い流すように。轟々と。

 あの後、私たちはひとまず自宅に戻ると、簡単に食事を済ませて早々と布団へ潜り込んだ。久々に身を横たえた自分の布団は、微かに太陽の香りがする。そういえば、あの日の前、外に干しておいたんだっけ。あんなことがあるなんて思ってもいなかった事件の前日、お父さんがいてお母さんがいて、長老がいて、おっちゃんがいて、おばちゃんがいて……、みんながこの村で生きていた日常の、よく晴れていたあの日、私は布団を干したんだ。この暖かな香りは、平穏の残り香とでもいえばいいか。

 思い出は厳しい。

 笑い合ったどんな過去も、きりきりと私の心を責め立ててくる。思わずにはいられない。もっと何か、何とかすることは出来なかったのかと。言われるがままに逃げることしか出来なかった自分を、悔やまずにはいられない。私一人を逃がすために次々と竜に立ち向かっていったみんなの死に様が、瞼の裏側でまざまざと蘇ってくる。

 思い出は残酷だ。

 逃げろ、生きろと。残響が鳴りやまない。気が変になりそうだ。

 溢れ出る思い出に気持ちを揺らされて、私は目を開いた。

 まだ真夜中だ。闇がとっぷりと屋内を包んでいる。聞こえる寝息はヴァン君のものだろうか、声は出せないのに寝息は立てるなんて変な感じがする。

 アドルフは――いない。

 ぐるりと見回してみてもその姿はなかった。なんとなく気になった私は静かに布団から抜け出すと、抜き足差し足忍び足で彼の姿を求めた。

 家族で暮らしていたとはいえ小さな家だ。探すのには苦労はしない。しかし意に反してアドルフを発見することは出来ず、発見らしい発見と言えばキッチンにまだ温かいポットが置いてあることくらいだった。

 外に行ったの?

 雨の降りは強い。何のために……?

 暗い家を歩いて私はドアノブに手をかけた。

 キシっと蝶番が小さく泣いて戸が開くと、アドルフ・ルグナーはそこにいた。壁際に座り込んでタバコを吹かしている。足元には湯気を上げるマグカップ。

「なんだ。眠れないのか?」

 アドルフは私に気が付くと、吸っていたタバコを消し去った。この美少年がみんなの遺体を抱きしめていた光景が脳裏にちらついた。

「うん。なんか目が覚めちゃって」

「雨、やまないね」

 黒い空を見上げながらそう言うと、私はアドルフの隣に腰を下ろした。

「そうだな」

 天気の話は一瞬で終わった。


 雨止みの気配はない。壊れたラジオみたいなノイズが延々とこの森を包んでいる。

 ずーっと雨を眺めていると、なんだか様々なことが押し流されていくような気がした。心にうつる記憶が無くなるというわけじゃないのだけれど、なんというか、そこに付着している悲しいとか悔しいと腹立たしいとか、幸福とか不幸せとか、そういう感情が洗掘されていくような感じ。あるいは、ぐねぐねと波立っていた湖面が、打ち付ける雨の水圧で宥められているかのような。

 私を包むのは暗闇と雨のノイズ。お腹の中の赤ちゃんになった気分だ。

 愛情はたっぷりもらってる。だから今存在できている。でも、私には何も見えない。ノイズしか聞こえない。叫びも怒号も泣き声も、誰にも届けることができない。孤独。

 まるで生まれる前の赤ん坊だ。

 ただ赤ん坊と違うのは、この闇とノイズから解き放たれた瞬間に、たっぷりの愛情を注いでくれた家族が迎えてくれることがないことだ。待ってくれている人がいないことだ。

 果たして、最後の一匹に残された価値などいかほどのものなのだろうか。

 生まれたその時に、自分は最後の一匹だと悟った赤ん坊は、どうやって生きる目的を見出すのだろう。

 もう血を繋げない種に、生きていく意味など……。

 私はこれから、何のために生きていくのだろう。

 降り続く雨を眺めながら、私はアドルフの隣でそんなことを考えていた。


「愛した女がいた」

 ふとアドルフが言った。突然何を言い出すのかと思って彼の方を振り向くと、アドルフもまた、じっと雨を眺めていた。目の前の闇に自分の記憶を投射しているような、そんな目をしている。きっと今のアドルフの目には過去が見えているのだと思った。

「自分勝手なやつでな。人が大事にとっておいた冷蔵庫のモンブランを勝手に食うような女だった。いらないって言うのに勝手に弁当作ったり、入るなっつってたのに勝手に俺の部屋入ったり、あげく、俺がせっかく部屋に隠しておいた誕生日プレゼントを渡すより先に見つけ出したりしてな。本当に、勝手な女だった」

 その女性はエルザという名前だったんだとアドルフは教えてくれた。

「あの日も、あいつは俺に勝手に弁当を持たせた」

「元々俺は軍人だったんだが、当時は研究所通いをしていてな。そこで縮退炉の研究開発に協力していたんだ。その日はマイクロブラックホールの生成実験が行われる日で、少しでも長くブラックホールを維持するためにTRDの実験体である俺の立ち合いが望まれていた。TRDの増殖を利用して、マイクロブラックホールに縮退物を送り続けようとしていたんだ」

「まあそれでも、当初研究チームは生成されたブラックホールは維持できてもせいぜい一秒に満たないだろうと踏んでいたがな。すぐに蒸発してしまうだろうから、十分な観測データが得られるまで何度も生成を繰り返そうと。そういうスケジュールだった。ところがな」

 アドルフはマグカップに一度口をつけた。

「ブラックホールが放つ力を得て異常に活性化したTRDの増殖速度は、俺たちの予測をはるかに上回った。TRDは俺に制御できないほどの速度で増殖を続け、ブラックホールへの縮退物供給をカットできない状態に陥った」

「二十七秒」一拍の沈黙を置いて、アドルフはそう呟いた。

「供給カットを諦め、俺が目の前のブラックホールを格納できるだけの縮退炉を作り上げるのに要した時間だ」

「その間に何が起こったと思う?」

「ラボは壊滅、瞬間的に莫大なエネルギー供給を食らった送電施設が軒並みパンクし、国中の電源ソケットから放電現象が起きた。後はお決まりのパターンだ。火の手がそこら中から吹き上がり、ミッドガルドは焦土と化した」

「俺が生まれ育った国は、たった二十七秒で自滅したんだ」

 雨のスクリーンに映るアドルフの過去は今、灼熱に燃えている。金色の瞳は、その色を映し出しているのかもしれない。

「俺は車をブッ飛ばした。立場や義務などすべて忘れて、ひたすらにな。無事でいてくれと念じ続けながら走っていた」

 どこへなどという愚問は考えるまでもない。

「俺たちの家は他と同じように燃えていた。ただ他と違ったのは、その場所に苦しみ悶えるエルザがいたことくらいだ」

「あいつの右腕はあり得ないほどに肥大していてな。その腕に黒い鱗がこびりついていた」

 私の頭に瞬いたのは、あのドラゴンの表皮。

「これはやばいと思った。エルザに何が起こったかは分からないが、とりあえず今してやれることをと、俺は考えた」

「今時の技術なら腕の再建くらいはわけない。彼女の右腕を切断してしまうのが現状もっとも適切な処置だと判断した俺は――」

「嗚呼、あの時の俺はなんであんな短絡的だったのかね。二度目の暴走を恐れて、そこまでは回さないでおいたはずなのにな」

 バカだったって、今なら思うぜと、アドルフは自嘲した。

「エルザの腕を切り落とすべく、自分の手を剣に変えるために、俺は何の躊躇いもなく縮退炉を回した。回しちまったのさ」

「TRDに性交感染の性質があるという事実に気が付いたのは、その現象を目の当たりにしたからだ」

「俺の目の前でエルザは異形に変わり果てた。数倍に肥大した体はもはや人間の原型をとどめず、黒い鱗と大きな翼を生やした……、そう、まるでおとぎ話に出てくるドラゴンみたいな姿にあいつはなっていた」

「そいつがよ。怒るんだよ」

「あいつ食うだろうと思って、冷蔵庫にモンブランの食品サンプルを仕掛けておいた俺のイタズラが感に障ったのかもな。それとも、出かけに玄関でふざけてやってきた行ってらっしゃいのチューを、俺が無下にしたのが気に食わなかったのか。あるいは、朝せっかく淹れてくれた食後のコーヒーを、急ぐからって俺が飲まなかったのが気に食わなかったのかもしれない」

「竜の身体になったあいつは、それでも増殖し続ける細胞に苦しみながら、俺を殺しにきた」

「俺は彼女と戦うことも出来ず、止めることも出来ず、目をそむけることも出来ず、逃げ惑うことしかできなかった」

「エルザの身体はいよいよ限界に近づき、最後には体にたまった腐敗ガスで風船みたいになっていた」

「苦しむ以外にできることが無くなった生物の姿がそこにあった」

 でもな――。

「どんな姿になっても、そこにいるのはエルザなんだ。俺が彼女にしてやれることは、それしかないと思った」

 苦悶の叫びをあげるエルザさんを、アドルフは撃ち殺した。せめて自分の手で終わらせてやろうと思ったと、アドルフは語った。

「大爆発を起こしたエルザの身体は四方に千切れ飛び、燃えるミッドガルドに降り注いだ」

「そしてその肉片が時をかけて再び生物としての形を成したのが、あのドラゴンたちだ」

「俺は結局、エルザを召してやることすらまだできないでいる」

 ぼうっとアドルフが黒い空を見上げる。

「止まないな、雨は」

 そう言って、アドルフはコーヒーを飲んだ。


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