旅は道連れ余は情け。義理が廃ればこの世は闇だ。
ヴァレムント樹海を歩き歩き、途中でいったん夜を明かし、凛風が言った目的地に着いたのは翌日の昼間だった。俺たちの目の前に忽然と現れたのは、森と融合するように築かれた人気のない集落。家屋の屋根に青々と葉が茂り、そびえる樹木を避けるように土道が走っている。
「こっち」
凛風が迷いのない足取りで俺たちを先導する。入り組んだ村道を歩き慣れた感じで。昼間だというのに異様に静かな集落だった。まるで口を開いてはならないというルールでもあるかのような静寂を保つ空間を、俺と先生は無言で凛風に付き従った。
「ここだよ」
凛風が止まったのは集落で一番大きな木の上に建つウッドハウスの前だった。太い枝を利用した基礎の上に、立派な家が据えられている。俺が子供の頃に憧れた秘密基地みたいだ。
「ちょっと待ってて」
それだけ言って凛風は頭上に鎮座するウッドハウスへと登りだした。軽快に梯子を登っていく凛風のお尻を、俺はじーっと見送る。ふと隣を見ると、先生も同じく凛風のお尻を見上げていた。男とはほとほと本能に忠実な生き物だと思う。
「お待たせっ」
戻ってきた凛風は豪奢に飾り付けられたシャベルを持っていた。それは特別な儀式に用いられる道具だと俺は直感した。
「弔いが目的か?」
ずっと沈黙を貫いていた先生が、おそらく凛風がやろうとしていることに言及する。先生も、俺と同じ想像をしていたようだ。しかし、意外にも凛風は首を振った。
「本当の目的はこっち」
言って、一本の巻物を俺たちに見せる。素材は羊皮紙ではないだろうか? 相当年季の入った代物なのは一目で理解できる。
「それがお前が言ってた掟の書か?」
「うん。私たちの魂」
恥ずかしげもなくそんなことを言ってのけた彼女は、その魂とやらを大切そうにしまった。
「本当はさ」
「本当は、最初からここまで二人を連れてくるつもりだったんだよね。あのドラゴンに二人襲わせてる間にこれだけでも持ち出そうと思って」
「でもあんなところで出くわすんだもん。私の作戦大失敗だよ」
笑顔を晒す凛風がどこか虚しそうに見える。
「ハメるつもりが助けられちゃうなんてね。そんなこと全然思ってなかったけど……、結果オーライってやつ?」
「二人がいてくれなかったら、私ここに戻ってくることってできなかったよ」
ありがとね――と、そういった彼女の顔は、見ていられないくらいに弱々しい。
森の空は、嘘みたいに晴れていた。
しばらくはここで休んでてと言われて通された家は、もともと凛風が暮らしていたところらしい。軒先に干された獣肉、屋内には毛皮のカーペット。俺が持つ狩猟民族のイメージそのままの家だ。
「じゃあ、すこし出てくるね」
シャベルを持った凛風は、それだけ告げるとすぐに出ていった。
「ま、そう言われてはいそうですかって待ってる状況じゃねーやな?」
先生の発言に迷いなく頷くと、俺と先生はすぐさま凛風の後を追った。
旅は道連れ余は情け。義理が廃ればこの世は闇だ。
凛風の背中はすぐに見えた。まあ、すぐさま追ったのだから当たり前だ。
先生が凛風の横に並ぶ。彼女は一瞬驚いたようだが、俺たちを追い払うそぶりも見せずにゆっくりと歩き続けた。木漏れ日の下を抜け、畑の脇を歩き、小川を跨ぐ。凛風の足取りは非常にゆっくりで、どこかに生き残っているかもしれない同胞を注意深く探しながら歩いているようにしか見えない。でも、一人も見つけることなく、俺たちはその場所に来てしまった。
森の村の最南端。木々が薙ぎ倒され、家屋がひどく損壊している。激戦の跡地がそこにはあった。尻尾の生えた獣人の亡骸が、そこかしこに散乱している。長くここに放置されているのだろう。その大多数が身体の一部を欠損しており、肉体が青黒く変色している。一帯には腐乱臭が立ち込めていて鼻が曲がりそうだった。
「みんな頑張ったんだけどね。ダメだったんだ」
そう言ったきり黙り込んだ凛風は、亡骸に歩み寄ると傍の地面にシャベルを突き立てた。何度も何度も。まるで自分の心を穿つかのように。悔しい、悔しいと、彼女の小さな背中はそう叫んでいるようだった。
「ヴァン、これ持ってろ」
不意に先生が俺にコートを手渡した。
「あの子にあれをさせるのは酷だ。おそらく死んでいった奴らも、それを望んじゃいない」
「生きろと願ったはずだ」
先生の静かな声が俺の耳に響いた。ブラウンのコートを両手で抱えて、俺は事の成り行きを見守る。
凛風のシャベルがまた地面を抉った。何をやっているのだろうかと不思議がるように、森の小鳥が能天気に鳴いている。風はない。屍の異臭は、行くあてもなく留まり続けている。
先生が、凛風の腕をつかんだ。
「どんな無様を晒しても生きるんだろ? だったら自分から傷増やすような真似するんじゃねぇよ」
諭すみたいな口調で言って、先生はまた「我慢なんぞするな」と言った。
凛風の表情は伺えない。でもそんなセリフを耳にしてしまえば、彼女が今何を我慢しているのかなんて簡単に推し量れた。
「残された者が、先立つ者にしてやれることは少ない。生き残ったお前にできることは……、せめて、見届けてやることだ」
凛風の腕から手を離し、少年の姿へと身を移した先生は、すぐそこに横たわっていた亡骸の前に膝をついた。美しい顔の少年が、胸の前で十字を切る。
そして、事切れた獣人をゆっくりと抱きしめた。
先生の双眸が静かに閉じていく。すると、その背中に白い燐光を帯びた六枚の翼が現れた。
その姿はまるで、死に人を天に導く御使いだ。
御使いの腕の中で、獣人の亡骸は音もなく消えた。ほんの一瞬だけ赤い残光をこぼして。
それから先生は、そこに取り残された獣人たちの亡骸一体一体を手厚く供養していった。膝をついて、十字を切って、抱きしめて、送り出す。野に飛び散った手足の一本に至るまで、先生は長い時間をかけて丁重に葬った。
すべての獣人を送り終えると、先生は最後に凛風の前に恭しく跪いた。荘厳な翼を生やした御使いが、年端もいかない獣人の少女を崇めているその光景は、言い知れない神秘を感じる。
「本来であればお前たちの仕来りに準じて行うべき儀式を、よそ者の俺が済ませてしまったことを許せ」
こうべを垂れる先生。
凛風は何も言わなかった。怒るでもなく、礼を言うでもなく、ただじっと、目の前に広がる景色を見つめていた。彼女の目には何が見えているのだろう。真剣そうな瞳には、そこにあるものが映り込むばかりだ。死屍累々ともいえる惨状を成していたその場所は、今や静かな安寧を取り戻している。
その夜、森に雨が降った。