やめろおおおおおおおおおおおお!
タバコの匂いで目が覚めた。嗅ぎ慣れたこの香りはゼロニコル。先生がいつも吸っている銘柄だ。吸い心地をそのままにニコチンとタールの含有量0mgを実現したのがゼロニコルである。健康志向の高いユーザーに広く愛されている銘柄なのだが、タバコくらいならいくらでも無害化できる体の先生が、これを愛用しているのは何とも不思議な感じがする。
寝袋からのそのそと這い出すと、森はまだ薄暗かった。まだ早い時間のようだ。
「よう、今日はずいぶん早いじゃねぇかよ」
紫煙を吹かしながら言った先生は少年の姿をしている。タバコを吸うときはいつもこうだ。理由は簡単。吸い殻の処分が手っ取り早いからである。見た目は不良少年の不良行為にしか見えないが。
寝袋を丸めながら大きなあくびが出た。なんだかひどく疲れている。寝起きだからというのではなくて、ここに来て現れたガランティスとかいう獣人のおかげだ。悪気がないのはなんとなくわかったが、もう少しデリカシーとか洞察力とかを身につけてほしい。
その張本人はどうしているのかと周囲に目を回してみれば、どういうわけか案内人の姿が見当たらなかった。俺が彷徨わせた視線の意図を汲んで、先生が口を開いた。
「なんか知らねぇが、早くからいそいそとどっか行きやがったぜあいつ。戻ってくるかは知らねぇが、ま、しばらくしたら勝手に出発するからな」
先生は傍らに置いた携帯コンロを着火してポットをかけた。もう一度煙を吐き出して、先生はタバコを処分する。昨晩のサバ缶と同様、手のひらの上から音もなく消える吸い殻。何度見ても不思議な現象だ。手品を見せられているよう気にさせられる。まあ、マジックの種は分かっているのだけれど。
結論から言えば、活性化したTRDでマイクロブラックホールを生成して吸い込ませたのだ。最初はまさかとは思ったが、活性化した先生の細胞はそんなとんでも物質まで複製できるらしい。ただ、俺たちを狙ってくる連中は、そのとんでも細胞TRDより、先生が生成するエネルギーそのものを狙ってきているみたいだが。
先生の身体は、言うまでもなく特別だ。特筆すべきは万能複製装置のTRDと、縮退炉と呼ばれるブラックホールを核としたエネルギー生成炉の二つ。この両要素の内、後者の縮退炉は利用価値が非常に高い。高すぎると言っても過言ではない。
縮退炉は謂わば、廃棄物の出ない火力発電だ。核であるブラックホールに縮退物となる燃料をくべ続ける限り、いくらでもエネルギーを取り出せる。しかもその縮退物は質量さえあれば何でもいいというのだから、利便性において縮退炉の右に出るエネルギー炉はあるまい。
とは言え、当然欠点もある。縮退炉の核となるブラックホールは、くべる燃料がなくなれば消失してしまうのだ。だから、縮退炉唯一にして最大の欠点は、超高速で消費されていく燃料をくべ続けなければならないという一点に尽きる――わけなのだが、この点すらも先生の縮退炉は克服している。
活性化によって異常な増殖を続けるTRDがそのカギだ。エネルギーが供給される限り無限に増え続けるナノマシンはまさに理想の縮退物で、先生はそれを利用してブラックホールを維持しているそうだ。
高効率。高エネルギー。TRDを組み込んだ縮退炉は国家のエネルギー問題を一息に解決しうる。まさに理想のエネルギー資源と言えよう。普及すれば人類の生活は次のステージに進めるかもしれない。
ところが、である。これを実現する技術は今、世界中のどこを探しても存在しないのだ。縮退炉も、TRDも。
完全なるロストテクノロジーなのだ。先生が持つそれらは。
過去にさかのぼれば他にもあったらしい。先生の母国に。ただ、その国は今、この星に存在しない。滅亡したその国の名はミッドガルド。そこで作られた縮退炉の現存する最後の一機が、どういうわけか先生の胸に収まっているのだ。
国家であれ個人であれ、独占された資源は争いを生む。
だから俺たちは狙われる。過去の遺物を求める世界から。おそらくこの先も。ずっと。
……はあ。そう思うと憂鬱だ。
「帰りたいか?」
俺が寝袋を片づけ終えると、急に先生がそんなことを聞いてきた。
「いやなに、疲れた顔してるからよ。故郷を離れての放浪生活ってのは、やっぱお前には合ってないんじゃないかと思ってな」
いやいや、今日疲れてるのはそこが理由じゃありません。俺は首を振った。
大変な人に着いてきているのにはもう慣れた。この疲労感は、凛風があんまりにも無遠慮だから、どうにも振り回されて体力を消耗しているだけなのです。
「そうか。ならいいんだがな」
先生は元の中年の姿に戻ると、ゆっくりと自分の寝袋を片づけ始めた。
中年男が寝床の片づけをしていると思うとなんだか侘しいものがある。
まあ、それは仕方のないことみたいだけれど。
先生はどうやら、子孫を残すことができない。いや、子供を作るという機能そのものに問題はないので、残すことができないというよりは、残さないでいると言った方が的確か。その理由もまた、先生に投与されたTRDのせいだと聞いた。
――性交渉による感染。
たった一つ。TRDというデバイスが孕む明確な汚点はそれだと、俺は思う。
人間は交わる生き物だ。それも一度だけではない。何度も、何人もと交わり、増える生き物なのだ。その樹形図のどこかにTRDが紛れ込めば、その先に何が待ち受けるかは想像に難くない。TRDは知られざる間に人類全体に感染して、いつかまた――それが遥か遠い未来だったとしても、どうせ人類は縮退炉を回す。そうなった時人間に起きることは、これまでに見てきたドラゴンの末路と同様だ。縮退炉のエネルギー放射を受けた人間は、自身を形作るTRDの活性化によって瞬く間に死滅するだろう。
『グレイ・グー』と、俺たちはその現象を呼んでいる。
だから先生は女性経験を持たないのだ。誰かにうつってしまえば、もう止められないから。
童貞は、先生が背負う十字架だ。俺なら絶対に背負いたくない。それは多分先生も同じだ。先生だって男の子だ。
先生は寝袋を丸めきると、その上にどっかりと腰かけた。傍らでポットがシュンシュンと湯気を噴いている。
「ヴァンはココアでいいよな? 凛風は……」
勝手に出発するとか言った割には、どうやら待つつもりらしい。口がひねくれてる割には優しいのがアドルフ・ルグナーという人である。
「ま、来てからでいいか」
二人分のカップに湯を注いで、ココアの方が俺に手渡される。先生の中身はコーヒーだ。タバコを吸った後は美味しくなるんだとか前に言ってたっけ。
ズズっとカップをすすりながら、俺は再び周囲を見る。荷物はある。先生が何も言わないところを見ると、何かを盗っていったわけでもなさそうだ。まあ盗るものもないけど。
俺たちについてきたのには何か目的があったみたいだし、それを果たしに行ったのかもしれない。戻ってくるのかどうかは分からないけど。
とそこに、俺の懸念を察したかのように獣人の女の子が降ってきた。上から。
「アドルフー!」
鉄棒選手も顔負けの鮮やかな着地を決めた凛風は、なぜかカゴいっぱいのさくらんぼを持っていた。
「朝ごはん採ってきたよ。ほら!」
満面の笑みで先生にカゴいっぱいのチェリーを見せつける凛風。尻尾がひどい速度で振られている。なんなんだろう凛風のこのデリカシーの無さは。
「昨日アドルフがチェリー好きって言ってたからね。ちょっとひとっ走り行ってきたの。はいどうぞ」
どうしてか、子供は残酷だという言葉を思い出した。
「そりゃどうも」
手渡された一個を口に放り込む先生。凛風はすかさずもう一つをつまみ上げてスタンバっている。やめて差し上げろ。
先生が手のひらに種を出すと、凛風はすかさず次のさくらんぼを先生の口に突っ込んだ。やめろ。
「おいしい?」
今まさに口を封じた張本人が問う。食わせるか喋らせるかどっちかにしろよ。先生は面倒くさそうにうんうんと頷いた。
先生が種を吐き出すと、これまたすかさず凛風がチェリーを放り込む。だからやめろ。
先生がジト目で俺を睨んでいる。その睥睨がお前のせいだと告げていた。
げんなりとした表情でサクランボを食しながら、先生は右手にいつものガントレットを顕現させた。種を処分するつもりなのだろう。自然の中にゴミは残さないというのが先生のポリシーだ。当然先生の容姿も少年のものになった。凛風の尻尾の速度が倍加していた。
「いやー、やっぱそっちの方がいいよアドルフ」
凛風がうっとりしたように言う。
「さくらんぼ食べてるだけでこんなに絵になるんだから。まさにサクランボーイだよ」
おいやめろ。
「あー、でもサクランボーイじゃちょっとおやじギャグっぽいか……」
凛風は少し考えてから力強くうなずいた。
「チェリーボーイだね!」
やめろおおおおおおおおおおおお!
三人でさくらんぼをつまみながら、俺たちは朝のティータイムと洒落込んだ。俺はココア、先生がコーヒーで、凛風もコーヒーをすすっている。これではティータイムというよりコーヒーブレイクか。俺に至ってはココアだからどちらにも当てはまらないが。苦いものは苦手だ。
「いいのか? 俺たちに付き合ってて。他に目的があったんだろう?」
言う先生は中年親父にもどっている。人が口に含んだ種を触るのはさすがに気色が悪いということで、一度別の入れ物に入れてから後で消そうという話になったのだ。
「ああー、うん。そりゃ早い方がいいんだけどさ。アドルフとヴァン君をちゃんと案内するまでは我慢するよ。逃げるものでもないしね」
「そうか」
一口先生がカップに口をつけると、凛風も同じくコーヒーを含んだ。俺も流れに乗ってココアを飲む。
「どれくらいかかる?」
先生が思案顔のままそんな言葉を漏らした。
「急ぎ足で抜けるなら四日くらいかな? 天候にもよるけど」
「そうじゃない。お前の用事がだ」
「ふえ? 私の?」
ああもう、本当に、この人という人間は……。
「別に俺たちも急ぐ旅じゃない。寄り道くらいは気にするな」
俺は深々と溜息をついた。