とっとと逃げんのよ!
ヴァレムント樹海に足を踏み入れるのは初めてだった。まあ当然と言えば当然。先生に出会うまで俺は国を出たことなんてなかったのだから。
噂には聞いていたが、想像以上に明るい樹海である。樹海の入り口を眺めるだけでそのことは容易に察することができた。木漏れ日が差し、柔らかな光が森を満たしている。清廉な空気。工業の盛んな俺の国ではなかなかこれは味わえない。
一つ大きく深呼吸して、体の空気を入れ替える。これだけで体の調子が上がりそうなくらいだ。
「何やってんだお前?」
樹海の味を満喫してみたら呆れた風な声が届いた。俺を連れ出してくれた張本人。先生――アドルフ・ルグナーだ。白髪交じりの黒髪、目じりに刻まれた細かな皺から人生の貫録を漂わせる中年男である。ブラウンのコートに包まれた体は長身ですらりとしている。さすが先生、中年太りに屈することなくナイススタイルを維持していらっしゃる。
「森の空気なんてありがたがるもんか? これからここ抜けるんだ。いやってほど食えるぜ、この空気なんぞ」
いやあ、まあ、それはそうなんだけど。
俺は苦笑いとともに頭を掻いた。
「まあ、ぼちぼち行くか。荷物落っことすなよ」
先生の青色の目が、ちらりと俺の背に負われたバックパックを見る。俺はこくりと頷いた。
先生に同行して以来、俺の仕事はすっかり荷物持ちに収まっている。寝袋食料着替え諸々。旅の荷物にしては極限まで切り詰めているのだが、若干十五才の俺の背中には少々きつい。
そんな俺を気遣ってくれているのだろう。先生はゆったりとした足取りで歩き出した。うん、気を遣うなら荷物をちょっと持ってくれた方がうれしいんですけどね。
俺の恨めしい視線をその背に受けながら、先生は樹海へと足を踏み入れた。
「止まれ、ヴァン」
歩き出してすぐ、先生が俺にストップをかけて立ち止った。何かあったのかと思ったが、その疑問はすぐに解けた。前方の茂みから獣の尻尾がふらふらとのぞいていた。
「おい、そこの。追い剥ぎなら別でやれ」
先生の声に、茂みの尻尾がびくりと痙攣する。しかしながら、その茂みから動き出す気配はない。
先生は盛大に溜息をついた。
「あのな、尻尾見えてんだよ」
再びビクッと震えた尻尾がさっと茂みの中に消える。
いや今更だろ。
先生はまた溜息をついて茂みに歩み寄った。
「出てこい。やれるもんなら分けてやる」
ああ、極限まで削った荷物から何を分け与えるというのかこの人は。お人よしというか抜けているというか、時々先生が分からない。
やがて、観念したかのように尻尾の持ち主が現れた。茂みからひょっこり立ち上がったのは、獣人の女の子だった。丈の短い赤のノースリーブジャケットが印象的で、むき出しのおへそについ目がいってしまう。
「お、追い剥ぎじゃないし」
小麦色の長髪から覗く犬のような耳を萎れさせて、獣人の少女はふてくされた。
「ちょっと脅して荷物奪おうとしただけだし……」
「それを追い剥ぎっていうんだよ」
先生の指摘にむっと頬を膨らませる少女。
一族をガランティスと自称する獣人の娘――凛風と俺たちはこうして出会った。
「道案内?」
少女の申し出に先生は意外そうな声を漏らした。
なけなしのサバ缶を彼女に分け与え、早すぎる小休止をとっていたところである。
手に入れたサバ缶を食べるわけでもなくさっさと腰巾着に収納した彼女が、道案内などと言い出したのだ。
「そ、道案内。こうして物を恵んでもらった手前、恩返ししないわけにはいかないよ。私たちガランティスはそこのところきちんとするのが掟だし。あんたたちもできるなら早く抜けたいでしょ? それに、最近物騒だしさこの森も」
追い剥ぎに言われると説得力がある。
「ふむ……」
僅かに思考した先生は、本当に僅かに思考しただけで答えを出した。
「いいだろう。案内人はいた方が助かる」
「ほんとに!」
獣人の娘は驚いたような反応を見せた。こうもあっさり承諾されるとは思わなかったのだろう。俺だって心境は同じだ。
ああもう、なんで先生はこう来る者拒まずなのだろうか。俺が付いていった時もそうだったけどさ。
「じゃあさじゃあさ、自己紹介といこうよ」
軽やかに一回転すると少女は漫画のキャラクターみたいに決めポーズをとった。
「私は凛風。生まれも育ちもこのヴァレムント樹海。ここは家みたいなものだから、案内は任せてよね」
そっちは? と促されると先生が口を開いた。
「俺はアドルフ。ミッドガルドの出身だ。で、こっちがヴァン。まあ、俺の使用人みたいなもんだな」
「ふんふん、アドルフとヴァンね。オッケー覚えた。それで? 二人はこの森抜けてどこ行くの?」
「ネルトだ」
「ふぇ? ネルト? それだったら街道から樹海を迂回した方が早いよ?」
「ああ、それは分かっているんだがな」
俺と先生が目指している街ネルトは交易で栄えた港町だ。そのために流れ込む街道も多く、わざわざ樹海を突っ切っていく物好きはいないだろう。ただ、それでも俺たちがここを抜けるのは――。
「極力人目にはつきたくないんだ。ちょっと訳ありでな」
「訳ありって?」
遠慮のない少女だ。
「簡単に言えば荷物だ。運んでるのが曲者でな。これが結構狙われる。だから街道はな」
「車のドライバーなんかは信用できないし、後を付けられていたりなんかしても気が付きにくい」
「こっちには足の遅いオマケもいるしな」
言って、先生はちらりと俺を見た。足が遅いのはあなたが持たせてるバックパックのせいなんですけどね!
「ほうほう。君が背負ってるそのバッグがねぇ」
あからさまに値踏みをするような目で俺を観察する凛風。欲しいと言うならくれてやる。マジで重いんだこれ。
「ね、何が入ってるの?」
目をキラキラさせて聞いてくる。
「寝袋と着替えと食糧だ」答えたのは先生だった。
「おっちゃんには聞いてないよ」
ぶーたれる凛風。先生は少しだけ申し訳なさそうな顔になった。
「別に言いたくて言ってるわけじゃねーよ」
「そいつな、口がきけないんだ」
「は? え? そうなの?」
俺の顔を不思議そうに眺めながらそんな疑問が投げられる。
こくりと頷けば、その先は先生が説明してくれた。
「元々は喋れたらしいんだがな。六年前、両親が死んでからこうなっちまったそうだ」
自動車の衝突事故だった。どこにでもある、ありふれた死に方だった。ただ、二人の存在は俺にとって想像以上に大きかったらしい。三日三晩泣きはらした後、俺は喋ることができなくなっていた。
「ふーん。通りでさっきから喋らなかったわけだ」
「ま、言葉が分からないってわけじゃないからな。どうしても話したかったら筆談で何とかなる。短い間かとは思うが、よろしくしてやってくれ」
「オーケーオーケー。よろしくね!」
明るい声でそう言った凛風は、まぶしいくらいの笑顔を咲かせた――俺のバックパックに向かって。
少しは物欲を隠せ。
森を歩き始めてからここまで、一つ分かったことがある。凛風はお喋りだということだ。
「ねーヴァン君」
さっきから俺は質問攻めにされている。
「ねーねーヴァン君。ヴァン君はなんで喋れないの?」
世界で一番俺が知りたい。
「刺されたりとかしてさ、体に激痛が走った場合も声でないの? うぎゃーとか」
さあ、どうだろうな。俺は思案の表情を示した。
少なくとも前に足が攣った時は出なかった。刺された経験はまだないから分からないが、たぶん出ないんじゃないだろうか。
「あ、荷物重いでしょ? 代わってあげよっか?」
代わってもらいたいのは山々だが、代わったとたんにトンズラこかれたらそれはそれで困る。俺は首を振った。
「そんな遠慮しなくてもいいのに。代わってほしくなったらいつでも言ってね?」
「代わってください凛風ちゃんって」
だから口きけないっつってんだろ。
まったく。
さっきから凛風はずっとこの調子だ。俺の周りをぐるぐるぐるぐる。荷物を狙っているのは明らかだった。っていうか先頭歩けよ。案内人だろうが。
先頭を行く先生はと言えば、何を勘違いしているのか俺たちのやり取りをニヤニヤと眺めるばかりだ。ちょっとは助けてくださいよ。ムッとした目で先生を見つめてみる。
俺の意図が伝わったのか、
「そういえば凛風」先生はようやく助け舟を出してくれた。
「ほえ?」
「お前自分のことガランティスって言ってたよな? 聞いたことのない名前だが、リカントロープとはまた別の種族なのか?」
一口に獣人と言っても種族は様々だ。その中でも耳と尻尾以外が人間と変わらない凛風のような獣人はリカントロープと呼ばれる種がほとんどだ。月夜に獣へと姿を移す狼の化身。
ところが、その名を出した途端凛風は声音を強めて否定した。
「違う違う。全然違うよ。群れなきゃ狩りもできないあいつらなんかと同じにしないでよね」
「私たちガランティスは誇り高きクズリの血統を継いでるの。孤高の戦士、正義の狩人なんだから」
正義の狩人は追い剥ぎなんてしないと思うけどな。
「初耳だな。そんな種族がいるなんてのは」
「掟があるからね。この森の外で暮らしちゃいけないんだよね、私たち。だから知らないのは当たり前。そりゃあ事情次第で外に出ることもあるけど、見た目もこの通りリカントロープそっくりだからさ」
「なるほどな。通りで認知されないわけだ」
「ってことはあれか? 抜ける途中にお前のお仲間にも出くわすかもしれないのか」
「あー……」
凛風は少しだけ口ごもると、それはないよと言った。
「この森も物騒になったってさっき言ったでしょ? 言ったのはそのことなんだけど、最近厄介なのがこの森に住み着いてね。私の仲間はみんなそいつにやられちゃった」
「それは……、すまん。詰まらないことを聞いた」
すまなさそうな顔というのは、先生にしては珍しい。
「いいよ別に。この森抜けるなら、これは知っといてもらった方がいいと思うしね」
「ならいいんだがな」
「……お前、森を出ようとは思わないのか? そんな危険があるならここにはいられないだろ?」
確かに、出るくらいならわけないはずだ。樹海の入り口までは来れていたくらいだし、街で暮らしている獣人なんてのも今時珍しくない。しかしながら、彼女は大きくかぶりを振った。
「そんなこと思うわけないじゃん。掟は破れないもん」
彼女にとってそのルールはよほど大事なようだ。
「掟破りは誇りを捨てるのと一緒だよ? 掟にもちゃんとそう書いてあるもん」
「そりゃ立派なこったな」
「当然」
ふふんと鼻を鳴らして、凛風は誇らしげに胸を張った。そのご大層な掟には、人の物を盗るなとは書いてなかったのかな。俺は呆れた目で凛風を眺める。
「ま、おっちゃんが言うことも分かるよ? 森から出れば出くわすこともなくなるだろうし、絶対その方が安全だってね」
「でもダメ。バカだって思われるだろうけど、掟に背くことはガランティスとして死んじゃうのとおんなじだから」
「どんなに無様に見られても、私は生き続けなきゃいけないの。ガランティスとしてね。それが生き残った私の義務」
ちょっとカッコイイことを言った凛風は、言いたいことはこれで終わりといった感じで、また俺の周りをぐるぐるとまとわり始めた。
先生は何を考えているのか、少しばかり難しい顔をしていらっしゃる。この娘の境遇に感じ入っているという風ではないが。
ひたすらに歩き続けて小一時間、先生が立ち止った。荷物を気にしまくる凛風は「この荷物私が守るー」とか言い出して、ついに俺のバックパックにしがみついたところだ。降りろ。
「凛風」
抑揚のない声は警戒の証。ピリッと引き締まった空気の中で先生が指をさした。
「お前が言ってた物騒なやつってのはこいつか?」
その先には、真っ黒な鱗に覆われた巨大な生物が佇んでいた。何かを探しているかのように、ゆっくりと密林をねめまわしている。大きな翼に、金色の眼。おとぎ話に出てくる竜のような生物がそこにいた。
「……は? はあああああ?」
遭遇した相手を認めるや否や、俺のバックパックに引っ付いていた凛風が叫んだ。
「なんで? なんでこんなところに?」
どうやら正解らしい。俄かに慌てだした凛風は即座に俺の後ろから飛び降りた。軽くなって何よりだ。
そんなことよりも、こいつは……。
前で警戒を強める先生に歩み寄って、俺は先生のコートを少し引っ張った。これだけで意図が伝わるのはこれまでの旅の賜物である。静かに先生が頷く。
「ああ、間違いない。まさかこんなところで出くわすとはな」
「ちょっとちょっとちょおっと! なにやってんのよ! とっとと逃げんのよ! 早く!」
鬼気迫る様子で声を荒げた凛風が誰よりも早く駆け出す。
その行動にいち早く反応したのは、あろうことか巨大生物だった。
空気が震えるほどの咆哮を放って動き出した竜は、俺たちになど目もくれずに凛風を追って消えた。早い。巨躯の竜はもちろんだが、小柄な凛風があの速度を出せるのは予想外だ。さすがは獣人ということか、体のつくりが俺たちとは根本的に違うらしい。
「ヴァン、ここで待ってろ」
俺はすぐに後を追おうとした先生の腕をとっさに掴んだ。グイグイとブラウンのコートを引っ張る。
「あ? ああ、コートか。お前もマメだな」
行動の意味を察した先生が少し乱暴にコートを脱いだ。青かった先生の瞳が金色に輝いている。既に“炉”を回し始めているようだ。皺の浮かんでいた肌がみるみる張り艶を蓄え、先生はまるで少年のような容姿に若返った。
「ほら、持っててくれ」
コートを手渡してそう言った先生は、今度こそ彼女を追って走り出した。藍色の衣装に次々と黒銀の鎧が装着されていく。そして走りゆくその背に六枚の羽が現出したかと思えば、青白く瞬いて先生の姿は消えていった。
……ふう。
前に先生が着ていた一張羅はあの推進剤の噴射で丸焦げになったが、今回は守り抜いた。先生が残していったブラウンコートを抱えながら、俺はひとまず安堵した。