創石師ギーセルセス
生まれた子どもは女の子だった。予定より早い出産だったため体は小さかったが、元気なものだ。五日もするとミリエルの容態も落ち着いた。
レティイは治療の記録をまとめ、アラリスを含めた三つの村を回診する生体師に渡した。それを見た生体師はよく助かったものだと感心していたらしい。加えて、あの場に居合わせた面々からミリエル出産の話が伝わる過程で、かなり尾ひれがついたようだ。
「予定外に目立ち過ぎたからなぁ」
レティイはため息混じりにこぼしていた。
実体化した翼と角を見たのはギーセルセスとリンセルだけだったようだが、大きな翼のように広がったあの精神波の容だけで度肝を抜くには十分だった。
リンセルの胸に黒い痣はもうない。難しいことはわからないが、もう心配は要らないらしい。レティイはセンジュとビノスカリナへ報告の手紙を出していたが、二人は何も書かなかった。まだ整理がつかず、とても文章にすることなどできなかったからだ。何日か経った今も、あの夜の出来事を正確に理解しているのは彼女だけだろう。
ギーセルセスは窓の外を見るともなしに眺めながら、考える。
今日、ルゼブルが迎えに来る。ギーセルセスも一緒にセンジュへ向かう予定だ。もう時間がない。
一つだけ、目に焼き付いて消えない瞬間があった。その時ギーセルセスの中に生まれ、根付いてしまった想いが彼を悩ませている。大それたことだとわかっているが、それでも言わなければ前に進めない。
そこへ時間切れを知らせるリンセルの声が届いた。
「兄さん、レティイさんが出発するって!」
慌てて出ていくと、レティイはやって来た時と同じ格好で玄関先に立っていた。
「先生に会ってから出るんじゃないのか!?」
「そうすると今日中にヨロンギに着けないだろう。ルゼブルには好きな時会えるし、七日でカーシュラまで行く予定だからな」
「すごい強行軍ですね……」
「これを見せたい人がいるんだ」
レティイは首にかけた紐を引っ張った。水色のような緑のような、不思議な色合いの石が、細い糸で丁寧に括りつけてある。
「黒竜が環ったとお知りになればきっと喜ばれる。あの方のお心が晴れれば、私も嬉しい」
その人のことが好きで好きでたまらないという顔だった。
よくわからないが、ギーセルセスは面白くない気分になった。一番気になる、その人はあなたにとって何なのか、という疑問は何故か訊きづらく、自分でも気づかないくらいの短い葛藤のあとに口から出たのは、別の繋がりについて問う台詞だった。
「その人、あの黒竜と何の関係があるんだよ」
「この光の水を黒竜に贈った方だよ」
二人がそろって目を丸くした。
「いつの話ですか!?」
「あの方は守護者だったんだ」
強大な魔力が寿命を延ばすことは知られている。サキアもルゼブルもかつての守護者であり、正確な年齢は知らないが、見かけ通りでないことは確かだ。リンセルがもしかして、とレティイを見上げた。
「レティイさんもそうなんですか?」
「まさか。私は違うよ」
あっさりと否定し、続けて、やはり拍子抜けするくらいあっさりと別れを告げる。
「じゃあな。ルゼブルによろしく」
「歩いて行かれるんですか?」
「村外れまでは。目立つだろ、あれは」
確かにあの宿連使は目立つ。
「だったらそこまで送ります」
「ここでいいよ。元気でな」
「レティイさんも、お気をつけて」
レティイはにっこり笑って、踵を返した。ギーセルセスはじっと遠ざかる背中を見つめた。
目に焼き付いているのは、石の砕けた瞬間。繰り返し、脳裏をよぎる。
普通に暮らしていれば、あんな常識外れの力と対峙することはない。けれど、レティイにとってあれが日常なのだとしたら、石の持つ力こそを必要とする人々と根本的に違うのだ。
強大な魔力を有する彼女とって、創石師の石はより円滑に力を操るための道具なのだ。石の力は指針に過ぎず、足りない力を補うものではない。その石が使う側の魔力に耐えられないとなると手加減する羽目になる。そして、いつもそんな余裕があるとは限らない。
頭で判断するより、体が先に動いていた。
「兄さん? どこ行くの?」
「すぐ戻る!」
すごい勢いで走って行く兄を、取り残されたリンセルは口を開けたまま呆気にとられて見送ったのである。
「レティイさん!」
叫ぶように名を呼ぶと、レティイは立ち止まって追いつくのを待っていてくれた。ギーセルセスは無理矢理息を整えて顔を上げた。心臓の鼓動が速いのも、顔が熱いのも、全力疾走したせいだけではない。
「俺、石を創る」
ギーセルセスは息を切らしながら、けれどはっきりと言った。
「魔力が弱くても、俺は俺のやり方でいい石を創るよ。レティイさんに会わなかったらこんなふうに思えなかった。リーンのことだけじゃなくて、本当に感謝してる。だから、俺に、あなたのための石を創らせて欲しい。役に立ちたいんだ。俺の石を使って欲しい。必ず、あなたの力に負けない石を創るから……っ」
ギーセルセスは一気に喋った。
最初レティイは驚いていたが、やがてそれはふんわりと優しい微笑みに変わった。
「嬉しいことを言ってくれる。私はギィの石が好きなんだ」
ギーセルセスはわかりやすく狼狽えた。この場面で『好き』という言葉の衝撃は大きい。自分の本当に欲しいものと意味が違うとわかっていても、嬉しさと恥ずかしさは勝手に湧き上がり、まただからこそ、悔しいのやら情けないのやらで、どんな顔をしていいのかわからなかった。
焦りながらも、もう一つどうしても聞きたいことがあったギーセルセスは、もつれそうになる舌をどうにかこうにか動かした。
「あっ、あのっ、お願いが」
「なんだ?」
「貴女の、名を、その……知りたい……」
「覚えられないんじゃなかったのか?」
「あれは……っ」
出会った日にギーセルセスが言ったことを、レティイはしっかり覚えていたらしい。表情から責めているのではなく、ただからかっているだけだとわかったが、居心地が悪いことに変わりはない。
慌てるギーセルセスを見つめる瞳はとても穏やかだ。レティイはいつもよりゆっくりとした調子で尋ねた。
「リアナ・レイティイと聞いて、思い浮かぶものはある?」
「夕焼け砂漠のうた……!」
ルゼブルから届いた手紙。そこに記された文字の連なりに、リンセルに言われるまでもなく、美しい名だと思った。元始の憧憬を謳った、古い時代の素朴な賛歌だ。
「全部、創世代の言葉でうたってごらん」
「全部?」
「そう。全部」
レティイは笑みを深めた。
「それが、レティイさんの名前?」
「由来も知りたいか?」
「知りたい」
「それは、次に会ったとき、いい石ができていたら話すことにしよう。また、寄らせてもらうよ。創石師ギーセルセス殿」
鮮やかな笑顔が目に焼きつく。
胸にこみ上げてくるものに、ギーセルセスは唇を震わせた。
「待ってる」
彼は新しい約束を胸に、頷いた。
※
創石師ギーセルセスの評価は高くない。
けれど、彼は幸福な生涯を終えた。
彼の石を必要とする者は少なかったが、皆無ではなく、ギーセルセスは彼らのために創石を続けた。
彼の創った石の半分は、一人の女性が所有している。
その石が歴史の表舞台で活躍するのはずっと後の世のこととなるが、その時、彼の石は間違いなくその女性の命を救った。
彼女の名は、麗しい古詩のことばで綴られている。