幸運を呼ぶ法則
レティイの宿連使が二人を降ろしたのは、あの、湖のほとりだった。
水光樹の根元。白い花びらが散るその場所へ、リンセルを横たえた。
レティイの強大な魔力がリンセルの身体を包んでいる。けれど、本人から離れた今、どうしても制御が甘くなる。意志を欠く力は弱い。実際、彼女がリンセルに届けた魔力は押し返され始めている。
緊張で神経が焼き切れそうだった。だが迷っている時間はない。魔力の方向性を定め、操ることがギーセルセスに託された使命だ。
「壊れるなよ……頼む……!」
汗ばむ手でさっき返してもらったばかりの地石を握り、リンセルの胸の上へ持っていく。ぐんと押し返す強い力を感じたが、そのまま石を近づけた。
抵抗するように胸の鱗が黒銀に輝き、その光はリンセルの全身を包む。
光に浮かび上がったリンセルは穏やかな顔をしていた。額に掛かるゆるく跳ねた髪の一筋。鼻に散ったそばかす。まだ幼い頬の輪郭。これが失われてしまうなんて、閉じたまぶたが二度と開かないなんて、そんなことにはさせない。
基本は昼間と同じ。石の魔力を使い、周囲の力を動かす。できるはずだ。できないことをやれとは言わないと、彼女は言った。なら、今度もできるはずだ。
地石に一年かけて溜めた魔力と、託されたレティイの魔力を統合する。それを均等に配分して、包み込む。黒竜の力を外界から遮断する。地石を要としてゆるやかに導き、リンセルの内へ定着させる。揺らぎをおさめ、落ち着かせ、固定する。
一つ一つ手順を思い浮かべ、そのつど小さく頷きながら確認する。
脈打つように押し返す拍動の合間を狙って、ギーセルセスは地石の力を解放した。
「……っ」
強い。
レティイの濃密な魔力をあわせていなければ、弾き飛ばされていたかもしれなかった。最初の衝撃はどうにか堪えたが、己の考えの甘さを思い知った。とても思い描いた通りにすんなり運ばせてくれそうにない。
突き刺すように放たれる波動。痛い。痛みでどうにかなりそうだ。
(だが、通すわけにはいかないんだ!)
散っていきそうな意識を掻き集める。
気が遠くなりそうな攻防のその中で、ギーセルセスに別の意識が触れた。そして、滑り込んできた一つの記憶を垣間見る。
風がカタカタと窓を鳴らしている。
正面に懐かしい人が座っていた。
「すまないね、今日は俺だけだ。君に話があったものだから」
「何でしょうか、ルゼブル様」
「君の兄さんのことだ。ギィには稀有な素質がある。魔力が弱いせいで苦労しているが、そんなものは補って余りある。構築の正確さも均衡を測る感覚も素晴らしいものを持っている。ここ百年ばかりそういったところの評価が低くてね。よくない傾向だと思っているんだが、俺は創石師ではないからあまりくちばしを挟んで欲しくないらしい。まぁ幸いにして、資格の認定権を持っている。だから、ギィに創石師の称号を許そうと思う」
ルゼブルは少し間を置いて表情を緩めた。
「だが今のままでは心許ないのも事実だ。あれは、魔力がすべてだと思い込んでいる」
「ルゼブル様のように持っている方が身近にいて、違うと言っても説得力はありませんよね」
「わかるようなわからないような理屈だな。ずっと間近で俺を見てるくせにそう思えるのかと、逆に問いたいよ」
「それでも、大戦を知らない僕たちにとっても、大戦期の守護者は特別なんです」
「それを言うなら、リンセルだってサキア様に育てられたクチだろうに」
「センジュの施療院とビノスカリナは環境がぜんぜん違います。センジュにもサキア様の崇拝者は多いですけど、ビノスカリナほど閉鎖的ではありませんから。いろんな人がやってきますし」
「確かに、幼い頃から俺のところにいたせいもあるんだろうな。ビノスカリナには比較的魔力の高いのが集まるし、そのことに矜持を持ってるのが多いからなぁ」
ルゼブルはちょっと情けなさそうに言った。
「このままだと劣等感を募らせて、卑屈な生き方をするんじゃないかと心配でね。今までは俺がしつっこく眉間のしわを伸ばしてやってたが、ずっとそうもいかないしな」
「その心遣いはあんまり通じてないみたいですけど」
「ついやりすぎちまうんだよなぁ楽しくって」
リンセルは笑いを誘われた。
「少しは手加減してあげてください」
「とにかく、このままセンジュの創石師に弟子入りさせてもあれは変わらない。一元的に下される評価を前に、ますます狭い世界に閉じこもる。あれは自ら知る必要がある。他者と比較する必要などないということを。だから、一度まったく違う環境に置くことにした。三年間、アラリスへ預ける。だからまだ、君のところへ帰してやれない。それを言いに来た」
沈黙が落ちる。
見つめ合ったまま、風の音が耳に近く響くのを聞いていたが、しばらくしてルゼブルがふっと瞳を伏せた。
「すべては、あれが称号を受けると言えばの話だが」
「兄さんは創石師になります」
きっぱりと言い切った。
ルゼブルは興味を引かれたようで、口許に笑みを刻んだ。
「どうしてわかる? あれの創る石の特性を長所と認める者は少なく、必要とする者はもっと少ない。独り道を究めて喜ぶ性格でもない。創石師を選ばない方が楽だと思うが」
「ルゼブル様」
「白々しかったか……俺も、できることならあれには創石師の道を歩んで欲しいよ。だが、俺にはギィがこだわる理由がわからない」
「約束したからです。だから、兄さんは創石師になります」
確信に満ちた言葉。
「その約束があったから、僕はまだ生きています。その約束があるから、平気です」
まるで万能の呪文のように唱える。
ルゼブルはわずかに目を見張り、それから不思議な微笑を湛えて言った。
「それがギィの理由か」
リンセルは微笑んだ。
嬉しそうに、誇らしげに、微笑む。その笑顔を取り戻したくて、必死だった。涙を止めたかった。
石の中に命だって閉じ込められると信じていたころのこと。
いや。今こそ、それを信じる。
この黒竜の力がリンセルを生かしてくれるのなら、閉じ込められる。逃がさない。
俺はそのために、リンセルを守るために創石師になったのだから……!
唐突に、激流のような黒竜の力が少しだけ弱まった。
ここぞとばかりに夢中で力を振るった。
輪が、閉じる。それが、ギーセルセスが黒竜の力を包み込んだ瞬間だった。
リンセルを包む黒銀の輝きは、仄かな琥珀色に変わり、閉じたまぶたがゆっくりと開く。若草色の双眸がギーセルセスを映した。茫洋とした表情のまま、囁くように言う。
「ほら、ね……ルゼブル様、やっぱり兄さんは、いつだって助けてくれる……約束どおり、創石師になって、来てくれたよ」
ギーセルセスは何も言えなかった。震えそうになる唇をかみ締めて頭を振った。
買い被りだ。そんなに立派なものじゃない。
今になって、ようやく気づいた。ルゼブルもリンセルも、情けないばかりの自分をいつもいつも信じてくれていたのに。それなのに、どうせできないと言われることに慣れて、いつしか自分でもそれが口癖になった。努力もしないで体裁だけを気にして、うまくいかないことは全部魔力が弱いせいにした。
変えてくれたのはレティイだ。俯いた顔を乱暴に上向かせ、やってみろと発破を掛けた。そうして、創石師としての価値を教えてくれた。
今まさに、リンセルの命をギーセルセスの地石が預かっている。この石が砕け散ればすべては水の泡だ。でも、耐えている。鋭く突き刺し、激しく揺さぶる力に晒されても、皹一つなく、そこにある。
これが、俺の石。俺の石の強みなんだ。
頭の中はぐちゃぐちゃで、体は自分のものでないように重たく、今にも倒れこみそうなほど疲れていたが、胸の奥が熱かった。ギーセルセスは気力を振り絞り、黒竜の力を完全に外界から切り離そうとした。そうすれば一先ず落ち着くはずだ。
しかし、自分で思っている以上にギーセルセスは憔悴していた。意思に反してすうーっと体中の力が抜けていくのを感じた。リンセルの顔がぼやける。ここで気を失うわけにはいかないのに、指先一つ自由にならない。かみ締めた唇に血が滲む。
「ギーセルセス!」
待ち望んだ声は、上空から降ってきた。
一度見たら忘れられない赤をまとい、ふわりと舞い降りた姿に言葉を失う。その人には、漆黒の皮膜状の翼と捩れた二本の角があった。
「よくやった」
そっと手が重ねられる、それだけで体が軽くなる。急速にリンセルの抱く力が安定していくのがわかる。
赤。
深く透きとおる硬質な揺らめきをまとって、いつ手にしたか、すらりと剣を抜き放つ。
次の瞬間、彼女は一気に魔力を高めた。
色が、変化する。極まった赤にわずかに青みがかかった。現れたのは彼女の髪に近い赤紫色。その中で時おり黄金が散る。水光樹の白い花弁がその波動に合わせて宙を踊った。
魂を、奪うほどに、強烈な――――。
これほど立派な翼と角を具現化するのだから想像はしていたが、それを上回る強大な魔力と黒竜の力の中心で、終に地石に亀裂が走った。顔を強張らせるギーセルセスの視線の先で、音もなく粉々に砕け散る。
喉の奥で声にならない悲鳴を上げたギーセルセスに、レティイが大丈夫、と短く告げ、横薙ぎに剣を払った。
刃は流れるように鞘に収まり、それを合図にすべては終息に向かったのである。
白い手が、何かを頭上に奉げ持つ。
そこには、儚い光が息づいていた。彼女の発する輝きに比べたら、消えてしまいそうに頼りなく力弱いもの。しかし、だからこそ持ち得る、清らかで無垢な輝きがそこにはあった。
「レ・ニトの名において、レイユ・オークに三幻霊の祝福を……。環るがいい。想いは託された」
レティイの言葉に促されるように光は彼女の手を離れ、消えた。レティイを包む色彩も、翼も角も消え去る。
空は白々と明るくなりつつあった。
花は一晩ですっかり散ってしまっており、黄色の葉だけがざわめいている。
そして、リンセルがいた。
よろめいた兄の体をリンセルが抱き止める。命の鼓動を確かめるように、ギーセルセスはゆっくりと弟の背中に腕を回した。
そうして兄弟は、曙光に浮かび上がる世界を共に目にしたのである。