覚悟を決めるとき
誰もがその身に生体波と精神波という二つの波形を持っているが、リンセルは生まれた時からそのうちの一つ、生体波の輝きがひどく弱かったのだという。
生体波は生命力の波動であり、輝きの強弱はそのまま生きる力の強さを示す。また波容は一生涯変わらず、また一つとして同じものはないとされる。精神波は力――魔界人の場合は魔力――によって形作られ、環境や経験、心的状態などに影響を受けるため、その形状は短期間で様々に変化する。
普通自分以外の波動は感じないが、訓練次第で他人の波動も感じられるようになる。基本的に生体師とは、二つの波形を見る目を持たなければ名乗れない。つまり、生体波の流れを知り、精神波の力を利用することは治癒術において大きな比重を占めているのである。しかし、それを利用して身体的疾患を治す手法は確立されていたが、それ自体の欠陥に関してはあまり研究が進んでいない。
問題となっているリンセルの異常は、波形そのものにあった。簡単に言えば、生体波が外に向かって開いている状態なのだそうだ。身体的には健康なのに、生命力が生体波に乗って身体を巡らず流出してしまうから、器質的にはどこも悪くないにもかかわらず、機能が低下する。それは老衰の症状に似ていたが、目に見えて変わるところはほとんどない。一見健康そうな少年の姿のまま、一歩一歩死に近づいていく。そういう病なのだそうだ。
血が流れすぎれば死に至る。生命力も同様、生み出す力より失われる力が多ければ遠からず底をつく。そして、ある日突然動かなくなるのだ。
手を尽くして、その時を数年先に引き伸ばしたけれど、結局、完治させられないまま限界がきてしまったとサキアは言った。
当代一の生体師であり、魔界で唯一の理命司である彼女にできないのなら、他の誰にもできない。もはや成す術はないと思われた命は、しかし土壇場で繋ぎ止められた。
(だが、それだけでは解決しない……聖獣の遺物ってのはどれもすごいんだが、扱いがややこしいというかなんというか……)
土を踏む気配を背後に感じ、レティイは思考を中断する。庭先の柵に浅く腰掛けたまま降り返ると、頼りない顔のギーセルセスがいた。目が合うと何やら気まずげに視線を外した。だが、立ち去らない。
「そーいういかにも助けを求めるような顔はするなと言ったろう。まったく。おいで」
呼んでやると、ようやく足が動いた。隣にずるずると座り込み、うなだれる。
「そこまで落ち込むような話だったか?」
「そうじゃない。そうじゃなくて。つい、責めるようなこと言っちまったんだ……だって、最初から何も言うつもりなくて、その上、せっかく助かったのにやっぱり黙って死ぬ気だったなんて、ひどいじゃないか。信じらんねぇ。でも、あんな顔させるつもりじゃなかったのに」
「文句の一つや二つ、別にいいじゃないか。君みたいな弟に甘い兄さんが言いっぱなしで出てきたとは思えんしな」
「甘いっつーか弱いんだよ、俺は」
膝に顔を埋めたままぶつぶつと呟くギーセルセスから、ふいと空へと視線を転じた。
「リンセルは、なんであんなにギィが好きなんだろうな」
ギーセルセスはわずかに眉を寄せてレティイを見上げた。しかし、夜空に向けられた表情はわからない。
「今日、意識のないギィを連れ帰ったら血相変えて。集中し過ぎて疲れたんだろうと言ったら、何させたんだって食って掛かられるし。それで、一ヶ月も課題サボってたらしいから勉強になーなんて言い訳したら、それは自分の所為だって。甘えてしまった自分が悪いんだってさ。今まで離れてたのを取り戻すみたいに、家にいる間はなるべく自分と一緒にいてくれようとしてたのが嬉しかったんだと。馬鹿だよなぁ…………リンセルはどうしてもギィと普通に暮らしてみたかったんだから、黙ってるしかなかったんだ」
ギーセルセスは大きく息を吐き出した。
「知ってるよ。今日か明日かなんてびくびくされながら一緒にいるなんてのは嫌だったって、聞いた。俺は芝居下手だからなぁ。知ってたらなんでもない顔なんてできなかっただろうよ。それにしたってここに着いてたったの十日後に倒れたんだぞ、あいつは。本当ならその時死んでるはずだったなんて言うんだ。助かったら助かったで『死にます』て手紙書いたっていうんだから馬鹿にしてる」
次第に声が低くなり、力がこもってきた。喋っているうちに腹が立ってきたらしい。
「その返事が俺宛てに来たもんだから、全部打ち明けろって暗に言われてる気がして悩んだそうだ。でもやっぱり言えなかったってさ。まあそれは正解だったかもな。あんたがリーンを殺しに来るって知ったら、あいつ連れてとっとと逃げ出したよ」
「人を殺し屋みたいに言うな。『緋の剣』がいたころならいざ知らず、歪みを生むかもしれないなんて理由で簡単に命を奪ってたまるか」
「レティイさん。あなたは本当に、リンセルを助けてくれるのか?」
誰も予想さえしなかった黒竜の介入により与えられた、生き延びる機会。それをその手に掴むことをリンセルは望んでいる。ならば、やることは一つしかない。
「もちろんだ」
風に揺れる髪に隠れてやっぱり顔はよく見えなかったが、微笑んでいるのがわかる。
「あの黒竜は、どうしてリンセルを助けてくれたのかな」
酷く傷ついて、でもとても穏やかな眼をしていた。どこか哀しく、優しい瞳。
「願わくは――――。
願わくは、助けとならんことを。
我の遺すこの一鱗が、孤独に戦う幼き命の助けとならんことを……」
厳かな祈りの言の葉を唱えるようだった。
「それは?」
「湖で聞こえたんだ。それから、胸を突く悲しみと、祈り。暗黒の中で誰もが一度は願うことだ。それがリンセルの間際の感情なり意思なりに触発されて、黒竜の最期の力を宿した鱗が目覚めた……てところだろーな」
ギーセルセスは少し考えて首を捻った。
「あの近くで不本意ながら死にかけると、黒竜の力が目覚めて助けてくれるってことだよな。今まで一度もそういう事態がなかったって不自然じゃないか? その黒竜が死んだのはずーーーっと昔のことだろ」
「有り得ないことではないさ。神宣結からは外れてるし、大戦後もアラリスができるまで近くに人は住んでなかったしな。ましてや子どもに限るとなると」
「子ども?」
「黒竜が想いを遺したのは、幼い命……つまり子どもを助けたかった。実際そういう力だしな。これが身体的な怪我や病だったら問題なく治ったんだろうが、リンセルは」
「このままじゃダメなんだろ。リーンはあなたを信じると言ったから詳しくは聞かなかったが、なんであいつばっかり治らないんだ。生体波に異常がある患者は他にもいるし、その中にはサキア様の治療で完治した人もいるのに。こんな、死にそうなのを生き返らせる、奇跡みたいな力でも治らないなんて」
「そう言いたくなる気持ちもわかるが。……絹布に細かいビーズを包んでおいたら、小さな穴が開いてしまった。というのと、包んでみたらなんとレース編みだった。の違いかな。穴ならちょっと繕ってやればいい。でもレース編みは下手に手を加えたら繊細な模様が台無しだ。一度解いて作り直しても、出来上がった品はもう別物。つまりはそういうことだ。リンセルの生体波の容は欠けても歪んでもいない。ただ、外への志向性が高いだけできれいなもんだ。だから、難しい」
リンセルの生体波を害がない容にするとすれば、それはもうリンセルの生体波ではなくなってしまうのだ。
「サキア様の治療も、厳密には治すと言うより補う方向で進められていたようだし。今のリンセルは、失われる力を上回る力を注ぐことで魂を繋ぎ止めている。しかし黒竜の力は強過ぎるんだ。さっきギィは奇跡みたいな力と言ったが、あれは万能薬であると同時に劇薬でもあるんだよ。使うなら一回きり。常服薬には向かない。元来一処に留まる力ではないから、切っ掛け次第で簡単に離れる。治したら離れるというのは理想的なんだが、リンセルの場合あれを手放すのは命取りになるからな。とりあえずの問題はそこだ」
失われないよう定着させること。体への負担が軽くなるよう濾過すること。
「昨日、応急処置程度のことはしておいたが、早い方がいい。リンセルの体調次第だが、明日にでも片を付けるよ」
「そっか」
ギーセルセスは首をいっぱいに反らして瞬く星を見上げた。喉の辺りがぐっと突っ張る。いつまでも下を向いていても仕方がない。立ちあがって背筋を伸ばし、レティイと向き合った。
「よろしく頼みます」
レティイが深く頷く。今度はちゃんと微笑みが見える。やっと気持ちが軽くなった。
「そうだ。ギィ。手出して。目が覚めたら渡そうと思ってたんだ。石の代金」
差し出した手のひらに銀貨二枚と、鼈甲色の地石が置かれた。
「ちょっと多いってこれ」
「今日の労働分も入ってるから。あとそれな、課題の石だろう? いくら数がそろわなかったからといって思い切ったことをする。せっかく一年近くかけて創ったんだ。これはこれでルゼブルに見せるといい」
「ああ……うん、ありがとう」
一応礼を言ったものの、表情が冴えない。
「どうした。いい石じゃないか」
「そんなことないさ。一年もかけてこの程度の石を創るやつなんかいなかったよ」
「そうか? きれいでいいと思うがな。石の力は小さいが、ギィは魔力が強い方じゃないからそれは仕方がないし」
顔色が変わるのが自分でもわかった。するとさらに傷をえぐるような発言が続く。
「魔力が弱いことを気にしてるのか?」
何故この人は昼間といい今といい、狙ったように触れて欲しくない場所にばかり踏み込んでくるんだ。
「ギィは創石師だろうが。ルゼブルもそんなことは気にするなと言わなかったか?」
言った。確かに何度も言われたが、下手な慰めによけい惨めになるだけだ。他の教師は誰もそうは言わなかったし、石の評価はいつも低かった。
「そりゃあ今は、な。短時間でそこそこ力ある石を創る方が需要はあるし、それで実力を計る場面が多いのは知ってる。でも昔はもっと色々な創石師がいたし、私はギィの創るような石が欲しいけどなぁ。最近は粗雑な石が多くってさ。あんなんじゃいざって時、怖くて命預けられないぞ」
意味がわからなかった。ギーセルセスは思いきり疑わしそうに言った。
「石に? どうやって? どんな使い方すりゃ命預けるなんてことになるんだ」
「それはもういろいろと世話に――」
レティイは唐突に言葉を切った。真剣な表情にギーセルセスも沈黙する。
そう間を置かずして一軒の家に明かりが灯った。レティイが鋭く尋ねる。
「誰の家だ?」
「あれは、イスファさんとミリエルさんの」
「リンセルとここにいろ。いいな。誰に頼まれようと来るんじゃないぞ」
言うが早いか、駆け出した。
レティイは辿り着いたその家に飛び込んで、真っ直ぐに声ならぬ悲鳴の聞こえる部屋――寝室を目指す。扉は手を掛ける前にさっと開いた。向こうも慌てていたのだろう。お互い相手にぶつかりそうになり、急停止した。
「! あ、あなたはギィのところの」
ミリエルの夫と話したことはなかったが、狭い村のこと、向こうは見知っていたらしい。
「私は生体師だ」
その一言で、夜中に断りもなく家に入ってきた人物に対する眼差しは一変する。動転していたこともあるだろうが、イスファは縋るように叫んだ。
「ミリエルにはっ、妻には子どもがいるんです……!」
「知っている」
寝台に横たわるミリエルは震えるように身動ぎし、苦しげにうめき声を漏らす。顔色は血の気がなく真っ白だった。
「ミリエル。私がわかるか?」
弱々しい応えに、レティイは優しく微笑む。
「安心しろ。私は生体師だ。何があった?」
「わたし、夕方、転んでしまった……その時、尻もちを、赤ちゃんは、わたしの」
「大丈夫。生きてる。無事だよ。生体波もしっかりしてる」
ミリエルは痛みに顔を歪めながら、それでもしっかりと頷いた。
「転んだなんて一言も。少し具合が悪いと寝ていたんです。それが急にこんな」
「落ち着いて。人手がいる。二、三人でいいから近所に声をかけてください。ああそれと、助産師がいると聞いているが」
「はい、村長のところの嫁さんが……呼んできます!」
「頼む」
夫がいなくなるのを待っていたのか、ミリエルはレティイの袖を掴み、必死の面持ちで訴えた。
「…………レティ、さん。お願い、この子だけでも、助けて」
「黙って。一先ず痛みを和らげるから。少しお腹に触るよ」
レティイは掛け布の下に片手を差し入れ、ミリエルの下腹部と額に手を当てた。彼女の導きによって乱れていた精神波が安定していく。ミリエル自身の魔力が胎児を護るように包み込む。ミリエルから激しい苦痛の色が消え、呼吸も少し楽になったようだった。
診断は、臀部への打撲衝撃による胎内出血。
「ミリエル。よく聞いて。このまま胎にとどめるのは危険だ。産んでしまった方がいい。大丈夫。早産期は過ぎている。少し予定日より早いだけだ。お母さんの外に出てもちゃんと生きていける。だから、いいか。ミリエル。あなたが産むんだ。だからミリエルは何があっても諦めてはいけない。わかるね。一緒にこの子を守るんだ」
レティイの触れた場所から流れ込む力はとても暖かく、母となる者への敬意と、新しい命への祝福があった。覗き込むのは、それはきれいな、強い瞳。
不安はある。とても怖い。でも、大切な、大切なわたしの――――。
ミリエルの表情が変わった。
「よし」
レティイはきり、と背に広がる赤紫の髪をきつく束ねた。
まず灯り。沸かした湯に清潔な布。消毒液。イスファに頼まれて駆けつけたエリスとマイラに次々と指示を出し、必要なものを揃える。その間も精神波を整え、母体に治癒力を注ぎ、出産を促す働きかけを始め、胎児の負担を減らすために魔力を使い続ける。
魔力を込めた道具も創薬師の薬も一切使わず、数箇所で同時に異なる治癒術こなす彼女は、間違いなく一級の生体師だった。
そうこうするうちに助産師も到着し、いよいよ慌ただしくなる。さすがにレティイも他に気を配る余裕がなく、近づく気配に気づかなかった。
「リンセルが、創薬師が来たよ! 必要なものがあったら言ってくれって」
誰が言ったのかわからない。けれど、それを聞いた瞬間、レティイは冷たい手で抱きすくめられたような気がした。
寝室の扉が開く。
守ラネバ ソノ 幼キ命ヲ
それはまさにこの場に満ちた祈り。ここにはその想いが強過ぎる。引きずられる。止められない。同調する。
「来るな!」
突き刺さるような一喝に、皆が動きを止めた。誰もが硬直したその時、リンセルだけがゆっくりと体を傾ける。力の抜けた体が床に転がる音が、大きく響いた。
「リンセル……!」
我に返ったギーセルセスは弟を抱き起こし、無意識にレティイの姿を求めた。その狼狽と焦燥は、しかし驚愕に取って代わられる。
レティイから赤い揺らめきが立ち昇っていた。翼のように大きく広がり、なめらかな弧を描いて足先へ環っていく波動。
精神波は、魔力の強い者が力を高めた時、誰の目にもはっきりと見えることがあると聞いた。けれど、そんな光景に出くわしたことはない。まさかそれが、こんなに圧倒的なものだとは想像さえしなかった。部屋中の者が魂を抜かれたようにレティイだけを見ていた。
「何を呆けている……! ミリエルから眼を離すな」
押し殺した声はひどく切迫していた。さすがに助産師は専門家なだけあり、己の責務を思い出したようだ。レティイの視線は再びリンセルに戻る。
ギーセルセスは、リンセルの胸の辺りに強い振動を感じていた。力がせめぎあっている。一方はレティイの、そしてもう一方は黒竜のそれだ。
「説明している暇はない。ギィ。私は生まれてくる子どもを助ける。絶対にだ。だから私が行くまで持たせろ。決してそれをリンセルから放すな」
放したら最期、魂は去り、二度と戻らない。
事の重大さにギーセルセスは青褪める。
「さっきの地石を持ってるな。悪いがルゼブルに見せるのは諦めろ。行け」
さっと振られた左腕から純白の獣が飛び出す。
(宿連使までいるのかよ!)
「頼むぞ。きっとその石なら持ち堪える」
その言葉が終わらぬうちに、白い獣に攫われていた。
白い獣は空を駆ける。
その背の上で、ギーセルセスは意識のない弟を抱きしめる。
冷たい風が頬を叩く。震えるのは寒さのせい。恐ろしいからではないといくら言い聞かせても、無駄だった。
「どうして……ッ」
手放したら命取りだと、言っていたのに。今はまだ、レティイの力が抑えてる。でも、抑えきれなくなったら?
彼女は来られない。ミリエルと赤ん坊を助けなければならないから。イスファもとても心配してリンセルを呼びに来た。止められなかった。レティイは誰に頼まれようと来るなと言って――――。
「こうなること、わかってた……?」
あの時点で、限定条件付きだがリンセルは健康だった。
目の前には消えそうに弱々しい生まれる前の命がある。救いたい、守りたいと願うだろう。黒竜の想いは同調する。同調して、そして。
彼女は何て言った?
赤と金の波に包まれて、青灰色の瞳が射抜くように見据えていた。
「…………俺に、やれってことか」
声が震えた。ここにきてようやく理解した。自分しかいない。いないのだ。
ギーセルセスは呆然とリンセルの顔を見つめた。
ずっと昔の記憶がよみがえる。
違う。本当は、ずっと忘れたことなんてなかった。
泣いていた、小さな背中。
センジュの施療院。その、広い庭の片隅で。
「すごい『創石師』になってリーンをたすけるよ。やくそくする」
「やくそく?」
「やくそくするよ」
自分は確かに、そう、答えた。
本気だった。本当に、信じてた。助けられると、信じていたんだ。
だけど、身の丈を知るにつれ、信じられなくなった。そんな力、どこにもないと、思い知った。ただ、諦められない。できないってわかってるのに、諦めることだけができなかった。
ずっと。ずっと。ずっと。