その価値を知らざりしは
多くの開拓地がそうであるように、アラリスも美しい土地だった。
『緋の剣』の封印による大戦終結で、ほとんどすべての生き物が神宣結の内でしか命をつなぐことができない時代は終わった。しかし、神宣結を創造し維持した守護者たちの強大な魔力は健在であり、長い暗黒の時代に多くの命を守り抜いた彼らへの尊敬と信頼もまた失われることはなかった。それ故、最初の数十年は住み慣れた土地を離れる者はほとんど皆無だった。土地そのものよりも、神宣結の守護者の庇護を失いたくなかったのかもしれない。
しかし、守護者たちはいつまでもそうあることをよしとしなかった。『緋の剣』という脅威が封印された今、徹底した管理は害にしかならないとわかっていた。たとえ、人々がそれを望んでいたとしてもだ。
しかし、数千年に及びそうして生きてきた人々の意識は簡単に変わらない。守護者たちは長のもと、新たな体制作りに尽力することとなった。
変化は緩やかに訪れ、やがて新しい街や村が作られるようになった。
世界は本来の活力を取り戻しており、人が暮らすには厳しい場所も多くあったが、そうではない場所はそれ以上にあった。
アラリスは白の枕山のふもと、豊かな水と緑に恵まれた爽涼な気候の土地だ。
ほとんどの移住者と同じく、アラリスの住人も大方現状に満足していた。同時に、ほとんどの人がそうであるように、一つ二つ問題を抱えてもいた。しかし、それはさほど深刻なものではなく、全体的にみて、アラリスの人々は幸福だった。
だから、一年前、等級第七級の創石師がやって来た時もすんなりと受け入れた。世間的に通用する等級は五級以上とされており、また一般的にあまり馴染みのない技能であったことも手伝って、期待されたのは創石師としての腕前よりも若い労働力だった。だから、ギーセルセスが創石を依頼されることは滅多にない。あってもごく単純な魔力の石化を頼まれるくらいで、小遣い稼ぎにしかならない。
小さな畑を作ってはいたが、家庭菜園の域を出ず生業にするには無理がある。そもそも、いくら開墾する土地にまだ余裕があるとはいえ、経験もなく永住する予定もない者にいきなり広い土地を任せられるはずもないし、もし仮に任されたとしたらギーセルセスの方も困っただろう。
それでは普段何をしているかといえば、今日はあっちで種蒔きを手伝い、明日はこっちで柵の修理といった具合だ。仕事のない日もあったが、村長の采配でだいたいは何がしかの労働が割り振られていた。
だからもちろんこの日も予定があった。朝、寝不足顔のまま、付き合えるのは夕方になると告げたギーセルセスに、しかしレティイはあっさり行かなくていいと答えた。
「村長の許可はとってある。ご婦人方にもちゃんと謝っておいたから心配するな」
「昨日着いたばっかだよな……?」
「そうだ。だから昨日のうちに済ましておいた。何もおかしいことはなかろう」
後は片付けておくからいいですよ、というリンセルの厚意に甘えることにしたらしく、レティイは朝食を終えるとすぐにギーセルセスを伴い湖へ向かった。
空は気持ちよく晴れ上がっていた。
村を離れてしばらく歩いたところにある森に入り、さらに奥へ進むと湖がある。人の足で踏み分けられた通り道はあるが、歩きやすいとは言いがたい。けれどレティイの足取りは軽やかで、楽しげだった。葉を染めた秋の木々に瞳を細め、木の実を目にして口許を綻ばせる。
「あのさ、俺は何をすればいいんだ?」
「何をするというわけではないんだが、なるべくいろいろ見せてやってくれとルゼブルに頼まれたからな」
ここにはないものをたくさん見てくるんだぞ。
ふと、ビノスカリナを発つ日にもそう言われたことを思い出した。ただの見送りの言葉ではなかったのだろうか。
「ところで、石は用意できたのか?」
「あ、ああ。その……」
ギーセルセスは気まずそうに言いよどんだが、レティイはさして気にする風でもなく言った。
「いいよ。なければ仕方がない。普通は一朝一夕で創るものじゃないからな」
「いや。三つ、持ってる」
渡されたのは、親指の先ほどの大きさで、それぞれ形も色も違う石だった。
鼈甲色の石は指で押したように中央がへこんでおり、薄水色の石は涙形をしている。二つとも表面は磁器のようになめらかだ。もう一つは少しざらつきがある薄緑の平べったい石で、削れたような溝が不規則に幾筋かあり、その部分は橙色をしていた。
(三つも見れば腕はわかるものだが、なかなか好みだ。使ってみるかな)
レティイは四本の指の間に一個ずつ石を挟み、光に透かして瞳を細めた。不透明な石なのにほんのりと内部が明るくなる。ひとしきり眺めると取り出した柔らかい布に石を丁寧に包み懐に仕舞う。それから製作者の顔を見て苦笑した。
「そんな顔するなら納得してない代物を出すな。啖呵を切った手前意地で三つ揃えたんだろうが、確かにあの炎石は雑だったな。体裁を整えただけの急ぎ仕事だ」
まさにその通りだったので、言葉もない。
「地石が一番質がいい。それだけに慌てて仕上げたのは勿体無いな。氷石は苦手か?」
「どうしてわかるんだ?」
レティイはくすりと笑った。
「取っ掛かりでてこずった跡が見えた」
再びずばり言い当てられたギーセルセスはすっかり驚いて目を丸くした。
「レティイさん、創石師なのか?」
「いや。私にその素質はない。だが鑑定ぐらいはできないと不都合が多いからな、っとぉ、ほら、足元気をつけろよ」
木の根につまずいたギーセルセスの腕を掴んで支えてやる。道はゆるい下り坂になっていた。湿った土と濡れた落ち葉は滑りやすい。
「しかしこの道を歩くのはリンセルには大変だったろうに」
「リーンがここを?」
「湖に水光樹があると教えただろう。水光樹の周辺に生えた薬草は質がいい。それを採りに行ったと言っていた。そこへ行きたい。湖が見えてきたぞ。どの辺りだ」
木々の隙間に水の煌きがあった。ギーセルセスは迷いなく一つの方向を指し示す。
「岸に沿って向こうに歩いてけばすぐだ」
その言葉通り、湖岸をぐるりと行くと大きく張り出した水光樹の枝が見えてきた。だが、ギーセルセスは奇妙なものでも見たかのように目を眇めた。同じく目を凝らしたレティイは短く断じた。
「花だな」
「花!? 水光樹の花が咲くのは春だぞ」
「だがあれは、どう見ても花だろう」
近づくにつれ、彼女の言葉の正しさは証明された。
白い雪のような花房が枝をしならせるほどに咲き誇っている。おかしいのはそればかりではなかった。鮮やかな黄色に染まった葉がわさわさと茂り、落葉樹だというのに散った気配がまるでない。
頻繁に人が訪れる場所ではないといえ、長い間こんな状態であったならアラリスで噂にならないはずがないから、最近起こった変化だろう。
レティイはギーセルセスに少し離れているよう言い置き、湖を正面に水光樹の白い幹を背にして立った。
空は高く澄み、湖水には落ち葉が静かにたゆたっている。餌を探す水鳥。陽射しは眩しく。小さな生き物の気配。葉擦れの音。水面の虫を狙う魚。風が、吹き抜ける。
(思ったほど厄介ではなさそうだな)
足を踏み出す。その足が三歩目を踏んだ時、ギーセルセスは短い悲鳴を上げた。
湖上に巨大な幻が出現した。
小山のような生き物。
恐ろしく立派で、威厳ある姿。
黒銀の鱗。金の角。濃緑の瞳。
「黒竜だ……」
書物でしか見たことのない生き物が目の前にいる。薄く透けてはいるが、紙に描かれたものとは受ける衝撃がまるで違う。ぽかんとして見上げたギーセルセスだったが、大きな体に刻まれた生々しい傷に気づき、眉を寄せた。
黒竜は首を曲げ、レティイに顔を寄せる。荒々しさのない、ゆっくりとした重たげな動きだった。片目が潰れ血を滴らせていたが、残ったもう一つの眼は穏やかだ。
「ありがとう。レイユ・オーク」
優しく彼女が言うと、黒竜はふっと消え失せた。
視界を支配していたものの突然の消失にはっと我に返る。夢から醒めたような気分できょときょとと周囲を見回せば、湖は何事もなかったかのように静まり返っていた。
「なあ、今、ここに、黒竜が、いたよな」
「驚いたか?」
悪戯っぽく問われ、何故かほっとした。
「当たり前だ! すっげえびっくりした!」
興奮した様子でレティイのそばに駆け寄る。
「聖獣なんて初めて見た。でも、なんであんなひどい傷」
「あの黒竜は戦ったんだよ。そして、ここで死んだ」
「聖獣がこんなところで!?」
「一時期、聖地から落っこちてくることがあったそうだ。『緋の剣』が封印されるずいぶん前のことだから相当昔の話だな。とある契約のおかげで聖獣の痕跡は私に反応するから」
「え? そんなことできる契約って、ええっと、つまり、本当の、契約?」
レティイは困ったように笑った。
「必要に迫られてな。私はある目的のためにずっと聖獣の遺志を辿っている。リンセルからの手紙はアラリスにそれがある高い可能性を示していた。だからサキア様は私を呼んだんだ。真偽の見極めも含めてね」
「ちょっと待てよ。聖獣のことなんか一言も……リーンは属性の偏りのことを相談したんじゃないのか?」
「それも含まれていた。だがリンセルが最も気にしたのは別のことだ」
ギーセルセスは急に苛立ちを覚えた。それは昨日感じた居心地の悪さと根は同じく疎外感からくるものだったが、もっと攻撃的な感情だった。
「やっぱりわかってないのは俺だけかよ」
「まだ言ってないからな」
当然とばかりに返され、それがまた気に障った。
「どうせ教えてもらわなきゃ分からねえよ。偏りのことだって今になってやっと気づいたくらいだ。リーンは俺なんかとは出来が違うからな」
レティイは不思議そうに瞳を瞬かせた。
「自分で気づいたなら、教えてもらわなければわからないわけではなかろう」
「でもリーンはすぐに気づいたんだ」
「それは課題をさぼっていたギィが悪い。少なくとも一ヶ月以上創石をしていなかっただろう? ただ普通に生活していて感じ取れるとしたら、かなり感覚が鋭くないとな。もしくは現象の方が深刻な歪みにまでなっているとか。この場合どちらにも当てはまらない」
創師の中でも特に創石師が土地の属性に敏感と言われるのは、創石の際、土地の持つ力に深く触れるからだ。それをしていないなら仕方がないではないか、とレティイは言った。
「でも、その前はしてた! でも偏りなんて感じなかったんだ」
「なら答えは簡単に出るだろう。変化は最近起こったことだ」
「そんな……だって…………」
ギーセルセスは咄嗟に反論できず、口篭もった。自分の能力が低いから気づけなかったのだと頭から決めつけていたので、迂闊なことにその可能性は考えもしなかった。言われてみれば、レティイの言うことには筋が通っている。けれど、素直に頷けなかった。
「だ、だけど、それ以上のことは何もわからなかった。聖獣のことも、今日何のために湖に来たのかも、全然わからない。石だってちゃんとしたのを用意できなかったし、弱い魔力しか持ってない俺にできることなんか、何もないんだ!」
「どうしてそんなに何もかもできないことにしたいんだ?」
「したいんじゃない。実際できないんだよ! いつだってそうだった」
「私にできないできないと喚いたところでどうなるものでもないだろう。私にはギィが何をしたいのかさっぱりわからない」
レティイは本気で困惑していた。
彼女はとても有能なのだと、ギーセルセスは思った。こんな情けない気持ちなど味わったことがないに違いない。いくら声を張り上げても伝わらないのだと思ったら、今度は泣きたくなってきた。
どうして創石師の適性があったりしたのだろう。修練館へ入らなければ経験しなかっただろう惨めな思いもいっぱいした。ちっぽけな魔力しかないことが創石師としてどれほど不利か嫌というほど思い知った。いくら頑張っても、皆とは比べ物にならないくず石しかできなかった。どうにか使えるものができるようにはなった頃には、周りはもっと高い水準の石を創っていた。
正直、創石師になれるとは思っていなかった。何とか課程を修了したが、資格を得るには最終試験に合格しなければならない。とても及第に達したとは思えなかった。ルゼブルがそれを覆す特別認定権を有することは知っていたが、まさか自分にその権利を行使するとは想像だにしなかった。
「どうして先生は創石師の称号をくれたんだろう」
「まさかくれると言うから貰っておいたなんて言うんじゃないだろうな」
「……」
レティイは呆れ果てて大きなため息を吐いた。
ルゼブルの権利は、今は亡き偉大なる創石師七代目デミルサークが与えたもの。その道を歩むのに称号は必要ないが、そうして表舞台から消えてしまえば後継が育つのはますます難しくなる。彼は石の評価が画一化される風潮を憂い、その前に切り捨てられる才能の救済を願っていた。
ルゼブルがこの権利を主張したのは過去三回。やはり反発はあったが、その声が大きくならないのは見出された彼らが努力を怠らず、世に認められる実績を上げてきたからだ。
なのにギーセルセスときたら。
「ルゼブルが甘ったれと言うわけだ」
「なっ」
ギーセルセスは真っ赤になって暴言を吐いた相手を睨み付けた。
試験の後、ルゼブルの、創石師になるかという問いに頷いたのは、それが、一番大切な記憶につながるものだという以上に、拒むことそのものが不吉を呼びこむような気さえしたからだ。
一流の創石師にはなれないと、もしなれたところで約束は果たせないと二人とも知ってしまっていたけれど、あの約束の日から創石師になることは絶対の憧れで、称号だけ手に入れたってなんにもならないと知っていたが、それでも欲しかった。リンセルが、とても楽しみにしていたから。
その時点でリンセルに快癒の兆しはなく、年齢的にも限界と言われた年に近づいていた。いつ悪化してもおかしくなかった。だから、だからこそ、創石師になれたよ、と言いたかった。
けれど、そんな思いは誰も知らなくていいことだ。言葉にするつもりはなかった。
だから、ギーセルセスは唇をかみ締める。
創石師の道を歩む覚悟も気概もなく称号を受けたことは、甘えと言われても仕方がない。だが、それを素直に認めるのは面白くないと意地を張る程度には、まだ子どもだったし、このままでいいはずがないと足掻く諦めの悪さも持っていた。
ギーセルセスの表情に何かを感じ取ったのか、レティイは唐突に言った。
「わかった。ではギィにやってもらおう」
懐から白布の包みを取り出して広げ、縞模様の炎石と涙形の氷石を選び、地石は元通り仕舞った。
「属性が水に偏った原因はここにある」
水光樹の根元を示し、そこへ炎石を置く。
「昔、ここにいた誰かは、聖地の外で死を迎える黒竜へせめてもの慰めに、光に満ちた水を送った。水は黒竜の遺物を守り地に深く眠っていたが、ある切っ掛けで活性化し、ゆっくりではあるが外へ広がろうとしている。『緋の剣』に対抗できるくらいの力ある水だ。今となっては少々効果がありすぎる。元来の水に馴染みやすい土地柄のせいもあるだろうが、この水光樹がいい例だ。影響が広範囲に及ぶ前に回収する。やれ」
ギーセルセスに氷石を握らせた。
「ちょっ、なに言ってるんだよ。できな……」
「黙れ。その言葉を無闇に使うな」
ぴしゃりと遮り、説明を続ける。
「偶然にもやり易い石が揃っている。この炎石はお世辞にも洗練されているとは言い難いが、目印にはなる。雑な造りのせいで土地の持つ水系統への偏りに引っ張られていることだしな。最後に氷石。石の魔力を基点とし、周囲の力を動かす。習っただろう?」
もちろん習った。創石そのものがどん底だったのに比べると、成績は良い方だった。だが、こんなに大きな力は扱ったことがない。
焦るギーセルセスをよそに、涼しい顔で手を振った。
「私はできないことをやれとは言わない。これだけ丁寧に教えてやったんだ。終わるまで帰って来るなよ」
遠ざかる背中を追うことも、逃げ出すこともできずに立ち尽くす。
無理だできないと騒いだら、今度こそ軽蔑されると思った。あの、きれいな青灰色の瞳に冷たく見下される。
それは嫌だった。どうしてかわからないが、それだけは嫌だと思った。
ギーセルセスはぶつぶつとレティイの言葉を反芻する。
「炎石は目印……この、下に水……」
季節外れの花房を揺らす木の根元に跪く。
なるほど、と納得した。この環境で炎石の火の要素は目立つ。
「でも、純粋な性質で固まっていないから引き寄せやすいのか……それから」
最後に氷石。目的は回収。つまり、収束と固定を氷石で行う。
「問題は導けるか、なんだよな」
レティイは昨日、石はなんでもいい、核の状態でも構わないと言った。彼女にとっては本当にただの印に使うにすぎず、他の部分は自分の魔力で事足りるのだろう。だが、自分はそうもいかない。石の性質を利用して、氷石に蓄積した魔力も使わなければならない。
もしかして、無理せず核を出していたら、こんな羽目に陥らずに済んだのではなかろうかと、頭を過ったが、後の祭だ。こうなってしまってはやるしかない。
左手に氷石を握り締め、右手を炎石の前に置く。
瞳を閉じて、土に押し当てた掌に全神経を集中する。額にぽつぽつと汗が浮かんだ。
やがて、太陽が中天を過ぎる頃、大地の奥深くでギーセルセスが触れたものは、限りなく清らかな水の恵みだった。