ままならない心
女子から好かれない女子、というものは、往々にして存在する。
「あ、吉沢ってば、まーた男子侍らせてるよ。」
その声は、私に掛けられたものでは無かった。
昼休みの教室。お弁当を食べ終えた私は、他の休み時間と同様、自分の席で読書をしていた。周りの喧騒も、文字を追うことに集中してしまえば気にならない。けれど私の耳は、「吉沢」という名詞を拾って、脳へとシナプスに載せて運んでしまった。
声を発したのは、私の前の席を中心に屯っている女子のグループ。こそこそと悪口を囁きながら、教室の入り口をちらちらと見ている。そちらを見ると、確かに数名の男子に混ざって吉沢さんがいた。
彼女のミルクティーのような明るい髪は綺麗に巻かれ、顔はきっちりとメイクで覆われている。この学校の校則では染髪もパーマも、化粧も違反だ。更に言えば、スカートは膝下五センチと定められているのに、彼女の裾は膝上何十センチですか、と問いたくなるくらい短い。まあ、全てを守っている生徒なんて、殆どいないが。
吉沢さんは笑顔で男子と話している。少したれ目な目元に、可愛らしい唇。だるだるのカーディガンに、男子を見る目つき。少しだけ態とらしく見えるその見た目は、女子の間ではいわゆる「ぶりっこ」というやつに分類される。女子はそういう存在を、生理的に嫌悪するのだ。私は吉沢さんが、女子と仲良く屯っている場面を、最近見たことが無い。
吉沢さんと男子たちは、何か面白い話題でもあったのだろう、みんなで笑い始めた。笑い声が一際大きな音となって教室に響く。私は手元の本に視線を落とした。
女子という存在は、なぜかグループを大事にするものである。
お弁当を食べる時のグループ、遊ぶ時のグループ、部活のグループ。空気を読んでみんなと行動を合わせ、その輪から外れないように、細心の注意を払っている。
クラスに三つ四つのグループは当然だが、グループに入れない一人二人の生徒も当然存在する。うちのクラスで言えば、一人は私、そしてもう一人は浅賀さんだ。
私はマイペースなところがあって、人に合わせるのが苦手だし、声を発することもあまりない。何を考えているか分からず、反応も薄い私を相手にするお人よしはそうそういない。よって、私はクラスで孤立している。まるで透明人間のようだが、ただ誰からも相手されないだけで、イジメではない。なぜそう断言するかと言うと、苛められている生徒が一人いるからである。
カシャン。軽い音に意識を取られ目を向けると、浅賀さんがペンケースを机から落としたようだ。ペンが散らばるが、近くにいる誰も拾おうとしない。斜め後ろにいた吉沢さんが、足下にあったペンを蹴って遠くへ飛ばしたらしい。周りの男子がニヤニヤ笑っている。
「浅賀さーん、なんかぁ、向こうの方まで転がって行ったよ~?」
笑いながらそう言う吉沢さん。浅賀さんは俯いてそれを拾いに行った。クスクスと、小さな笑い声が吉沢さんを中心に広がった。
浅賀さんは苛められている。別に私物が無くなったり、身体的暴力を受けたりしているわけではない。ただ、意図的に無視され、孤立させられている。時には思い出したように視界に入れられ、何かしら笑い物にされている。不細工ではなくどちらかと言えば美人で、普通苛められるなら私のような人間に罵声を浴びせる方が簡単だろうに、なぜか彼女がターゲットとなっている。ただ、苛めるという行為は相手を意識しているということだから、浅賀さんの方が私よりもクラスに受け入れられているのかもしれない。
そして私は知っている。一学期始めは、浅賀さんがクラスに馴染んでいたことを。浅賀さんが孤立した原因は、吉沢さんであることを。
私は、放課後は図書室に入り浸る。部活動が強制では無いからだ。図書委員でもあるので、週一回はカウンターの中で、他は閲覧席で課題をしたり気儘に読書したりの毎日。
図書室は二階で、窓からは中庭が見える。その奥には校庭が広がっており、部活動に勤しむ生徒たちの喧騒が、空気に乗って運ばれてくる。
今日もいる。本棚から本を抱えて席に戻る途中、ちらりと中庭を見てそう思った。中庭には花壇の他に、ベンチが設置してある。その一つに、毎日のように浅賀さんが座っているのだ。クロッキー帳を持っていることから、私は彼女が美術部に所属しているのだろうと予測した。彼女は花壇の花を観察するのではなく、毎日校庭をじっと見ている。
私は以前、中庭にサッカーボールが飛び込んでくるのを見た。その時も浅賀さんはベンチに座っていたが、今とは違い花を真剣にスケッチしていたようだった。ところがボールは花壇へと押し入り、浅賀さんの目の前に生えていた花を押し潰してしまった。突然の出来事に固まる浅賀さんを、私も吃驚して思わず眺めてしまった。そこへボールを追って来たらしい男子生徒が現れ、現状に気付くと頭を下げて謝っていた。その時にはクラスで孤立していた浅賀さんは、そういった態度に免疫が無いのか、非常に慌てた様子で、しばらく二人はやりとりをしていた。声は聞こえなかったが、「ごめんなさい」と「気にしないで」の応酬だろうことは見て取れた。
一目惚れというのは、存在するらしい。それからというもの、浅賀さんはほぼ毎日中庭のベンチに座り、校庭を眺めている。そして男子生徒の方も、部活の休憩時間だろうか、浅賀さんの元に駆けよって来ては、何やら二言三言会話しているようだった。勝手にそれを観察しながら、青春だなあとしみじみ思った。
吉沢さんの噂が、私の耳に入ってきた。どうやら、他のクラスの男子に目を付けたらしい。休み時間毎にその人の元へ訪れ、始終べったりしているそうだ。あからさまな態度に、女子は陰で眉をひそめる。浅賀さんの顔色は、悪かった。
休み時間にトイレへ行く途中、吉沢さんとすれ違った。彼女が腕を回している男子生徒の顔をちらりと見て納得する。どうやら彼女がアプローチをかけているのは、中庭の彼らしかった。それからと言うもの、中庭に浅賀さんが現れることは無くなった。無理も無い。それでも来れるような丈夫な精神を持っているなら、クラスでの現状も打破できるに違いないのだから。
そんな日がひと月ほど経った頃、また吉沢さんの噂が耳に入った。
「吉沢、振られたんだって。」
くすくす、と噂を振りまく女子たちは笑う。嘲ったその声は、良い気味と思っていることが明白であった。しかも、どうやらその彼と浅賀さんが付き合うことになったらしい。吉沢さんが、苛めていた浅賀さんに男を奪われた。そのゴシップは、女子の間で非常に盛り上がる話題だった。おそらく、クラスどころか学年中で噂になっているに違いない。
クラスで孤立する人間に、吉沢さんが加わった瞬間だった。
その日は、図書室の設備点検だとかで、私は下校を余儀なくされた。きちんと予定を見ていなかった私が悪いが、こんなことなら昨日の内に続きの巻を借りておけば良かったと後悔する。
下足に履き替え昇降口を出たところで、吉沢さんが数名の男子に囲まれているのを見つけた。少し近づいて聞こえた言葉によると、どうやら宜しくない遊びに誘っているらしい。言葉の端々には、吉沢さんが振られたことを匂わせている部分もあり、吉沢さんは眉根を寄せていた。
「だから行かないって言ってんでしょ!」
声を荒げる吉沢さんに、男子は笑いながらおっかねえ、と言った。しかし、その目の奥に険呑な光が見え始めたのも事実だ。彼らの風体は不良と言って良いもので、きっとこのままいけば悪い結果を迎えるだろう。普段なら要領よく言動を選ぶ吉沢さんも、失恋と孤独感に傷心していて、当たり散らしているようだった。私は吉沢さんに近づくと声を掛けた。
「吉沢さん、お待たせ。行こうか。」
男子たちは、怪訝な顔で私を見た。それはそうだろう。今まで接点の無い、これからも接点の無さそうな地味な女子が話しかけて来たのだ。何かの間違いと思っても仕方ない。
けれど振り返った吉沢さんは私のことを覚えていてくれたようだった。驚いているには違いなかったが、その目は泣きそうで、私は彼女の手を握った。
「ごめんなさいね、今日は私が先に吉沢さんと約束していたの。」
接点が無い、好みでもない女子には、声を掛けにくいようである。黙った男子にさようならと告げて、私は吉沢さんの手を引いて、その場を離れた。
「なんで助けてくれたの。」
私の家に向かう住宅街の細い道を歩きながら、吉沢さんがぽつりと呟いた。彼女を見ると、髪もメイクも、いつもより荒れている。私は少し考えて、それに答えた。
「吉沢さんは、不器用だから。」
そう言ったら、吉沢さんは目を見開いて―――すぐにその瞳から涙がぼろぼろと零れ始めた。慌ててポケットからハンカチを取りだし、目に押しつけた。私の家は、もうすぐそこだ。私は吉沢さんの手を引いて、家に入った。
一頻り泣いた吉沢さんは、洗面所を借りて溶けたメイクをすっきりと落とした。スッピンを始めて見たが、メイクが無くても目元が赤くても可愛らしい顔立ちである。眉は半分しか無かったが。
「ごめん、ハンカチ汚しちゃって……。」
申し訳なさそうに言う彼女に、私は首を横に振った。ハンカチくらい、別に良いのだ。淹れておいた暖かい紅茶を差し渡し、二人で火傷に注意しながら飲んだ。
「不器用なんて、初めて言われた。」
ティーカップを覗きながら、吉沢さんがそう言う。
「失礼なこと言ってごめん。」
今気付いたが、普通そんなことを言われれば、怒られても仕方が無い。そう思って謝ったが、吉沢さんはいいの、と首を横に振った。
「図星突かれて、なんだか安心したの。泣いたら落ちついたし。助けてくれてありがとう。」
そこに浮かんでいたのは、悲しげだったが紛れもない微笑みで、久々の笑顔だった。
私はまだ、淡い恋心しか抱いたことがないからよく分からないが、きっと燃えるような恋とか、ひどい執着心とか、激しい嫉妬とかは、大きなエネルギーを製造するのだと思う。そして、互いに幸せならプラスで、不幸だったり嫌われたりするとマイナスのエネルギーが増えて行くのだと思う。
クラスのひとつのグループの中で、浅賀さんが笑っている。彼氏が出来て、吉沢さんの地位が落ちてから、浅賀さんはクラスに溶け込んだ。それでも憎しみは根深いようで、浅賀さんは吉沢さんに決して話しかけないし、時には睨み付けもする。吉沢さんのメイクを施した顔は決して歪むことは無い。もしかしたら、泣かないためにメイクをしているのかもしれない。
浅賀さんのいるグループが、聞えよがしに吉沢さんの悪口を言う。吉沢さんの手が、ぎゅっとシャーペンを握ったのが見えた。私はおもむろに立ち上り、吉沢さんの隣に歩み寄った。
「吉沢さん、この前言ってた本、昨日返却されたの。暇だったら、今から借りに行かない?」
普段クラスで口を開くことなど、教師に授業中指名された時くらいの私が、誰かに話しかけるなんて珍しい行動だったらしい。ざわめいていたクラスが、一瞬にして静かになってしまった。
「……わかった。」
勿論、本の話題などしたことが無い。けれど、吉沢さんは私の意図を汲んでくれたのか、肯くと一緒に教室を出た。
「ごめんなさい、逆に注目を浴びてしまったわ。」
「ううん。あそこから連れ出してくれて、助かった。」
そう言う吉沢さんの声は、涙声だった。
まあ、今までの悪い噂から、孤立していた二人が仲良くなった、という噂に変われば、ダメージも少ないかもしれない。
「なんで人は、人を好きになるんだろうね。」
哲学的な問いが、私たちしかいない廊下に落ちる。
「あーあ、私もさっさと諦めれば良いのにね。」
明るくしようとして失敗したような声が、吉沢さんから発される。きっと、彼女も立ち直りたいに違いないのだ。いつまでも見つめ続けても、報われないことはわかっているから。
「しょうがないわ。毎日顔を合わせているのだから。」
私の言葉に、吉沢さんはこちらを見るが、どちらにでも取れる言葉だったからか、藪を突くような真似はしなかった。
私は気付いていた。吉沢さんが、浅賀さんを好きなことを。
吉沢さんは、不器用だ。好きな子に嫌われるような真似をして、それでも浅賀さんの興味を引きたくて。浅賀さんに彼氏ができるのが嫌だったから、あの中庭の彼に近づいて。嫌われたことに傷ついて。
報われない恋と、最初から知っていたからこそ、嫌われるという立場を選んだのかもしれないが、あまりにも不器用だった。こんなに傷つくなら、別な方法を取れば良かったのに、と思ってしまう。
私は分かっていた。それでも吉沢さんが、まだ浅賀さんを好きなことを。
だって、私の目も耳も、吉沢さんを追ってしまうのだから。
心とは、ままならないものである。