旦那様が幼馴染を優先するたび、結婚指輪の数字が減っていくのですが
「すまない、アリシア。リリーが熱を出したんだ」
結婚二年目の記念日の夕食で、夫のエドガーは、スープに口をつけないまま立ち上がった。
食卓には、料理長が三日かけて準備した料理が並んでいた。夫の好きな鴨のローストも、わたしが選んだ葡萄酒も、まだ栓を抜いていなかった。
「リリーは、体が弱いんだ。一人にしておけない。君は丈夫だから、分かってくれるだろう?」
夫は、わたしの返事を待たずに、外套を手に取って出ていった。
食堂の扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
わたしは、膝の上で、左手の薬指を見下ろした。
銀の結婚指輪。その内側に、わたしにだけ見える数字が刻まれている。
さっきまで、十五だった。
数字が、すうっと溶けるように揺らいで、別の形になった。
九。
*
わたしの家、グレンフォード伯爵家は、古い家柄だ。古い家柄の貴族は、今も教会の「誓約の指輪」で結婚する。
誓約の指輪には、数字が刻まれる。妻の指輪には、夫が妻に積んだ信頼の数。夫の指輪には、妻が夫に積んだ信頼の数。結婚の日は、どちらも百から始まる。
相手を大切にすれば、数字は増える。ないがしろにすれば、減る。
そして、どちらかの指輪がゼロになったとき、誓約は解けて、婚姻は終わる。
数字は、指輪をはめている本人にしか見えない。だから、夫には、わたしの指輪の数字は見えない。わたしにも、夫の指輪の数字は見えない。
夫は、自分の指輪を、一度も覗いたことがない。
『指輪の数字なんて、古い迷信だろう』
結婚した日、夫はそう言って笑った。
*
「奥様。お下げいたしましょうか」
家令のオズワルドが、静かに声をかけてきた。七十歳。父の代から、この家に仕えている。
「いいえ。いただくわ」
わたしは、一人でスープを飲んだ。冷めかけていた。それでも、料理長が三日かけた味がした。
「旦那様は、今夜もお戻りにならないでしょうな」
「ええ。リリー様の熱は、いつも朝まで下がらないもの」
オズワルドは、何も言わずに、葡萄酒の栓を抜いて、わたしのグラスに注いだ。
リリー様は、夫の幼馴染だ。男爵家の娘で、二十三歳。体が弱くて、月に一度は熱を出す。不思議と、いつも何かの記念日に。
二年前の結婚式の夜も、そうだった。
*
二年前の春、父が急な病で亡くなった。
わたしは十九歳で、グレンフォード伯爵家を継いだ。女が家を継ぐことは、この国では珍しくない。けれど、若い女伯爵には、あちこちの親戚が「後見人に」と言って群がってくる。夫がいれば、それを退けられた。
エドガーは、父の古い友人の、子爵家の次男だった。明るくて、よく笑って、人当たりがよかった。葬儀のあと、落ち込んでいたわたしを、何度も庭の散歩に誘ってくれた。
『君は一人じゃないよ、アリシア』
あのとき、そう言ってくれた。だから、この人なら、と思った。
結婚式の日、わたしたちは教会で、誓約の指輪を交換した。誓約官が、二つの指輪に祝福を与えた。指輪の内側に、わたしにだけ見える「百」が浮かび上がった。
その夜の祝宴の途中で、リリー様が熱を出したと知らせが来た。
夫は、花嫁を残して出ていった。
*
ベッドに入っても、眠れなかった。
わたしは、指輪の数字を数えるように、この二年間を思い出していた。
結婚式の夜。夫が祝宴を抜けたとき、指輪の数字は、百から八十になった。
大きく減ったのは、それくらいだった。
あとは、小さなことばかりだった。
誕生日に夫がくれた髪飾りと同じものを、翌日、リリー様がつけていた。わたしのほうが、ついでだったのだと分かった。三減った。
わたしが風邪で寝込んだ日、夫は一度も部屋に来なかった。リリー様のお見舞いに行っていた。四減った。
夫は、この二年間、一度も「今日はどうだった」と聞かなかった。
一度も。
それは、一日に一つずつ、わたしの指輪の数字を削っていった。大きな裏切りよりも、ずっと確かに。
気づけば、百だった数字は、九になっていた。
*
翌朝、夫は昼前に帰ってきた。
「リリーの熱は、下がったよ。やれやれだ」
夫は、食堂の椅子にどさりと座って、パンをちぎった。
わたしの顔を、見なかった。昨夜のことを、謝りもしなかった。記念日だったことも、たぶん、もう忘れていた。
「エドガー様」
「ん?」
「昨夜は、二年目の記念日でしたのよ」
夫は、パンを口に入れたまま、少し考えた。
「……ああ、そうか。悪かったな。来年は、ちゃんとするよ」
来年。
わたしは、膝の上の指輪を見た。
九が、八になっていた。
*
わたしは、その日から、預け入れをやめることにした。
この二年間、わたしは夫のために、いろいろなことをしてきた。
夫が夜会を途中で抜けるたびに、「主人は急な領地の用で」と、社交界の皆様に取り繕った。夫がリリー様に贈る花や菓子や薬の代金は、すべて伯爵家の帳面から出ていた。わたしは、それを知っていて、黙って支払いの判を押してきた。
入り婿の夫には、自分の財産がない。伯爵の称号も、屋敷も、毎月の年金も、全部、わたしとの結婚で手に入れたものだ。
そういうことを、わたしは一度も口にしなかった。
夫の誇りを傷つけたくなかった。夫が、いつかこちらを向いてくれると思っていた。
でも、もう、やめた。
「オズワルド。今月から、リリー様あての薬代の請求は、エドガー様ご本人にお回しして」
「かしこまりました」
オズワルドは、ほんの少しだけ、口の端を上げた。
「それから、エドガー様が夜会を抜けられても、もう取り繕わなくていいわ。皆様に聞かれたら、本当のことを」
「本当のこと、と申しますと」
「幼馴染の方のお見舞いに、と」
*
三日後、教会から誓約官が来た。
年に一度、誓約の指輪を確かめる決まりがある。今年の担当は、初めて会う人だった。
「誓約官のユーグ・マルタンです」
二十代の後半くらいだろうか。灰色の聖職者の上着に、穏やかな茶色の目。背筋がまっすぐで、言葉が少ない人だった。
「旦那様は」
「幼馴染の方のお見舞いに」
ユーグ様は、それ以上何も聞かなかった。
「では、奥様の指輪を、確かめさせていただきます」
わたしは、左手を差し出した。ユーグ様は、指輪には触れずに、わたしの手の上に自分の手をかざした。誓約官には、本人でなくても、指輪の数字が見えるのだそうだ。
ユーグ様の眉が、わずかに動いた。
「……一桁、ですね」
「八です」
「このままでは、年内に誓約が解けます」
「存じております」
ユーグ様は、手を引いて、少しのあいだ黙っていた。
「奥様。誓約の指輪のことを、どのくらいご存じですか」
「数字は、相手を大切にすると増えて、ないがしろにすると減る、と」
「はい。それから、もう一つ」
ユーグ様は、静かに言った。
「数字は、大きなことより、小さなことで動きます。記念日の夕食を一度抜けるより、毎日『今日はどうだった』と聞かないことのほうが、数字を確かに減らします。逆もそうです。大きな贈り物より、毎日の小さな言葉のほうが、確かに増えます」
わたしは、指輪を見下ろした。
知っていた。この二年間で、身に染みて知っていた。
「それから」
ユーグ様は、少しだけ言いにくそうに続けた。
「奥様が旦那様のためになさったことは、奥様の指輪ではなく、旦那様の指輪に刻まれます。奥様が一人でどれだけ尽くされても、奥様の指輪の数字は増えません」
「……ええ」
「奥様は、旦那様の指輪の数字を、ご覧になったことはありますか」
「いいえ。わたくしには見えませんもの。それに、主人は、自分の指輪を一度も覗いたことがございません」
ユーグ様は、何か言いかけて、やめた。
ふと、ユーグ様の左手が目に入った。薬指の付け根に、指輪の跡のような、細い白い線があった。指輪は、はめていなかった。
*
それから七日後、夫が、わたしの母の形見のブローチを持ち出した。
真珠をあしらった、銀の小さなブローチだ。母が亡くなる前に、わたしにくれたもの。宝石箱の、いちばん奥にしまってあった。
「リリーの快気祝いの夜会に、つけていく飾りがないって言うんだ。少し貸してやってもいいだろう? どうせ、君はつけないんだから」
「それは、母の形見です」
「だから、貸すだけだって。大げさだな」
夫は、ブローチをポケットに入れて、出ていった。
指輪の数字が、八から四になった。
*
その三日後、領地の村長たちとの会議があった。
女伯爵として、年に一度、領地の村々の長と顔を合わせる大事な会議だった。夫には、ひと月前から、一緒に出てほしいと頼んであった。伯爵の称号を持つ夫が同席すれば、村長たちも安心する。
夫は、来なかった。
リリー様の快気祝いの夜会の、準備を手伝っていたらしい。
四が、三になった。
会議の席で、白髪の村長の一人が、空いた椅子を見て尋ねた。
「伯爵様は、ご欠席ですか」
以前のわたしなら、「主人は急な用で」と取り繕っていた。
「幼馴染の方の、夜会のご準備だそうです」
わたしは、そのまま答えた。
村長たちが、顔を見合わせた。気まずい沈黙が流れた。わたしは、かまわずに帳面を開いた。
「それでは、今年の春の種籾の配分から始めましょう。南の村は、去年の長雨で麦が半分やられましたね。種籾の貸し付けは、利子なしで三年の据え置きにいたします」
村長たちが、目を丸くした。
会議は、昼過ぎまで続いた。用水路の修繕、冬の薪の配り方、北の村の橋の架け替え。わたしは一つずつ、村長たちの話を聞いて、決めていった。
会議が終わったとき、さっきの白髪の村長が、帽子を取って頭を下げた。
「女伯爵様。先代様に、よく似ておいでだ」
夫がいなくても、会議は終わった。むしろ、いつもより早く。
*
「奥様。快気祝いの夜会には、お出になるのですか」
その夜、オズワルドが紅茶を運びながら尋ねた。
「ええ。招待状をいただいたもの」
「……お辛くは、ございませんか」
「辛いわ」
わたしは、正直に言った。
「でも、行かなかったら、また『冷たい妻は来なかった』と言われるでしょう。それに」
わたしは、指輪の「三」を見下ろした。
「この数字が、どこで終わるのか、自分の目で見ておきたいの」
オズワルドは、しばらく黙っていた。それから、静かに頭を下げた。
「では、わたくしもお供いたします。帳面を持って」
*
リリー様の快気祝いの夜会は、男爵家の小さな屋敷で開かれた。
招待状は、わたしにも届いていた。夫の妻として。夜会の費用の半分は、夫を通して、伯爵家の帳面から出ていた。
わたしは、行くことにした。
男爵家の広間に入ると、リリー様が、ふわふわした桃色のドレスで、客を迎えていた。胸元に、母の真珠のブローチが光っていた。
「まあ、アリシア様。来てくださったの」
リリー様は、夫の腕にしがみつきながら、にっこりと笑った。熱を出していたとは思えない、血色のいい頬だった。
「エドガーがいなかったら、わたし、どうなっていたか。いつも、本当にありがとう、エドガー」
「当たり前だろう、リリー。幼馴染なんだから」
夫は、リリー様の頭を撫でた。それから、周りの客たちに向かって、少し大きな声で言った。
「妻は、リリーの体が弱いことを、分かってやれなくてね。冷たい女なんだよ。記念日の夕食くらいで、いつまでも根に持って」
広間の何人かが、気まずそうに目を逸らした。何人かは、扇の陰で、わたしを見て笑った。
わたしは、左手の薬指を見た。
三が、二になった。
一になった。
そして、ゼロになった。
*
ぴしり、と、小さな音がした。
わたしの指輪に、一本のひびが走っていた。
ひびは、みるみるうちに広がって、指輪を一周した。それから、銀の輪は、二つに割れて、わたしの指から滑り落ちた。
からん、と、澄んだ音が広間に響いた。
同じ音が、もう一つ聞こえた。
夫の左手から、割れた指輪が、床に落ちていた。
広間が、しんと静まり返った。
古い家柄の貴族なら、誰もが知っている音だった。
「……誓約が、解けた」
誰かが、呟いた。
夫は、床に転がった自分の指輪を、ぽかんと見下ろしていた。
「な、何だ。どういうことだ」
「誓約の指輪が割れました。婚姻は、解消されたのです」
広間の入口から、静かな声がした。
灰色の上着の、誓約官のユーグ様が立っていた。指輪が割れると、誓約官のもとに知らせが届く。ユーグ様は、急いで来たのだろう。少し、息が上がっていた。
*
「解消? 冗談だろう」
夫が、引きつった笑いを浮かべた。
「指輪の数字なんて、迷信だ。僕は、何もしていない。ただ、幼馴染の看病をしていただけだ」
「誓約の決まりにより」
ユーグ様は、夫の言葉を聞き流して、淡々と言った。
「婚姻によって得た称号と財産は、指輪をゼロにした側から失われます。エドガー殿。あなたは本日をもって、グレンフォード伯爵の称号と、伯爵家の屋敷と、伯爵家からの年金を失います」
夫の顔から、すうっと血の気が引いた。
「ま、待ってくれ。ゼロにした側って……僕が?」
「奥様の指輪をゼロにしたのは、あなたです」
ユーグ様は、床から、夫の割れた指輪を拾い上げた。
「エドガー殿。あなたは、ご自分の指輪の数字を、ご覧になったことがありますか」
「そ、そんなもの、見たことは……」
「誓約官には、割れた指輪の最後の数字が見えます」
ユーグ様は、割れた指輪の内側を、灯りにかざした。
「あなたの指輪には、奥様があなたに積まれた信頼が刻まれていました。結婚の日に百から始まって、二年間、一度も減らずに、増え続けていた」
ユーグ様は、静かに、その数字を読み上げた。
「百八十二」
広間が、ざわめいた。
夫は、ユーグ様の手の中の割れた指輪を、信じられないものを見るように見つめていた。
「百八十二……?」
「奥様は、二年間、あなたのために尽くされていました。あなたが知らないところで、ずっと。指輪は、嘘をつきません」
*
夫が、ゆっくりと、わたしを振り返った。
「アリシア……」
初めて見る顔だった。二年間、一度もこちらを向かなかった人が、今、やっとわたしを見ていた。
「君は、そんなに……僕のことを……」
「ええ」
わたしは、穏やかに言った。
「あなたが夜会を抜けるたびに、皆様に言い訳をいたしました。リリー様への贈り物の代金も、薬代も、今夜の夜会の費用も、伯爵家からお支払いしていました。あなたの誇りを傷つけたくなかったので、黙っていました」
夫の唇が、震えた。
「でも、あなたは一度も、わたくしに『今日はどうだった』と聞いてくださいませんでしたわね」
「アリシア、待ってくれ。やり直そう。今度は、ちゃんと――」
「エドガー」
夫の言葉を遮ったのは、リリー様だった。
リリー様は、夫の腕から、すっと手を離していた。
「伯爵じゃ、なくなるの?」
「リ、リリー?」
「屋敷も? 年金も?」
リリー様は、一歩、夫から離れた。それから、急に額を押さえて、よろめいてみせた。
「あ……なんだか、また熱が出てきたみたい。わたし、少し休んでまいりますわ」
リリー様は、夫を振り返りもせずに、広間の奥へ消えていった。
胸元の真珠のブローチだけは、しっかりとつけたまま。
*
「オズワルド」
わたしが振り向くと、広間の隅に控えていた家令が、一歩前に出た。
「リリー様に、母のブローチを返していただくよう、男爵家にお願いして。それから、今夜の夜会の費用の請求書は、エドガー様ご本人に」
「かしこまりました。帳面は、すべてつけてございます。二年分」
オズワルドは、懐から分厚い帳面を取り出して、軽く叩いてみせた。
夫は、広間の真ん中に、割れた指輪を見下ろしたまま、一人で立ち尽くしていた。
それから、はっと顔を上げて、わたしの手をつかもうとした。
「アリシア、頼む。僕には、もう何もないんだ。屋敷も、称号も、リリーも――」
夫の手が、わたしの手首に届く前に、灰色の袖が間に入った。
「エドガー殿」
ユーグ様だった。
「誓約が解けた今、あなたはこの方の夫ではありません。この方の手を、許しなく取ることはできません」
夫は、ユーグ様の顔を見上げて、それから、空っぽの自分の手を見た。
二年間、一度も握らなかった手だった。
*
夜会の喧騒を抜けて、わたしは男爵家の小さなテラスに出た。
夜風が、冷たかった。
左手を、月明かりにかざしてみた。薬指には、もう何もない。二年間はめていた指輪の跡が、うっすらと白く残っているだけだった。
「指輪のない手は、軽いですね」
誰にともなく呟くと、背後で、足音がした。
「ええ。最初は、少しだけ、心もとないですが」
ユーグ様だった。
ユーグ様は、わたしの隣に立って、自分の左手を、同じように月明かりにかざした。薬指の付け根に、細い白い線。
「私も、五年前に軽くなりました」
わたしは、ユーグ様の横顔を見た。
「仕事ばかりで、妻が毎晩『今日はどうだった』と聞いてくれるのに、一度もちゃんと答えませんでした。ある朝、指輪が割れていました」
ユーグ様は、手を下ろした。
「それから、誓約官になりました。指輪が割れる前に、気づいてほしくて。……今夜は、間に合いませんでしたが」
「いいえ」
わたしは、首を振った。
「わたくしは、割れてよかったのだと思います。たぶん、ずっと前から、割れるのを待っていましたから」
ユーグ様は、しばらく黙っていた。
それから、少し迷うように、口を開いた。
「アリシア様」
「はい」
「……今日は、どうでしたか」
わたしは、まばたきをした。
二年間、一度も聞かれなかった言葉だった。
喉の奥が、熱くなった。泣くつもりはなかったのに、目の前の夜景が、にじんで見えた。
「……とても、長い一日でした」
「そうでしょうね」
「でも、最後に、少しだけいいことがありました」
「何です」
「今日はどうだった、と、聞いていただけました」
ユーグ様は、少しだけ目を見開いて、それから、困ったように笑った。
結婚指輪の数字は、もう減らない。指輪そのものが、もうないのだから。
――次に、誰かの指輪の数字が増えるとしたら、それはきっと、こんな小さなことからだ。




