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さよなら、それもいいさ

作者: Soh.Su-K
掲載日:2026/02/14

この物語は、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの『ソラニン』をBGMとして再生した瞬間に完成するように構成しています。ぜひ、イントロのギターとともに読み始めてください。

 南青山の裏路地にひっそりと佇む私のサロンは、いつだって深い海の底のような静寂に包まれている。

 分厚い防音ガラスの向こう側では、東京という巨大な生き物がせわしなく呼吸を繰り返し、流行に敏感な人々が色鮮やかな服を翻して行き交っているけれど、ここには完璧な静寂と、私が長い時間をかけて調合したベルガモットと白檀の香りが満ちている。

 予約のお客様が到着するまでの、わずか十五分の空白。私は、レセプションの重厚なデスクに置かれた一冊の雑誌を、指先でそっと撫でた。


 経済誌『フロンティア』。

 普段の私なら、美容専門誌や最新の画集以外に目を向けることはない。けれど今朝、駅の売店を通り過ぎようとした瞬間、表紙にある、見覚えのある横顔と目が合ってしまったのだ。その瞬間、私は自分の心臓が大きく一度だけ跳ねるのを感じた。


 表紙をめくり、光沢のある紙の感触を指で確かめながら、特集ページを開く。

 そこにいたのは、五年前よりもずっと自信に満ち、仕立ての良いジャケットを完璧に着こなした、かつての恋人だった。


『僕たちが選んだのは、妥協のない未来でした』


 太い明朝体で綴られた見出し。その下で、彼は記憶の中よりも少しだけ大人びた、けれどどこか寂しげな瞳を湛えて微笑んでいる。


「……妥協のない、未来」


 ぽつりと呟いた私の声は、誰もいないサロンの壁に吸い込まれ、あっけなく消えた。

 記事の中の彼は、IT業界の寵児として、世界をより効率的に、より自由に書き換えるのだと熱っぽく語っている。かつて、狭い部屋の隅で、壊れかけのノートパソコンに向かって「いつか世界を驚かせるんだ」と、青白い光に照らされながら呟いていたあの日の彼のままで。


 私は、自分の手を見つめた。

 五年前、彼の背中を追いかけていた頃の私の手は、見る影もなく荒れていた。

 下っ端の私に任される仕事は、華やかな施術などではなく、お客様に触れた後の重いタオルの洗濯や、サロンの隅々の徹底した掃除。冬の冷たい水で何度も何度もタオルを絞り、一日に数十回も繰り返すアルコール消毒。指先は常に白く粉を吹き、あかぎれがパチンと弾ける痛みに耐えながら、私は自分の夢を必死に繋ぎ止めていた。

 夜、彼に触れるとき、そのカサついた指先を悟られないよう、私はいつも不自然に手を隠して布団に入った。彼は私の手を握ろうとしてくれたけれど、私はその優しさが痛くて、そっと手を引いてしまった。そんな小さな拒絶が、私たちの間に少しずつ、けれど確実に溝を作っていったのかもしれない。


 今の私の手は、どうだ。

 あの頃の傷跡ひとつ残さないよう、毎日欠かさず手間と時間をかけて整えられた指先は、吸い付くように滑らかで、それでいて触れた相手の筋肉の強張りを一瞬で見抜く。この手は、私の誇りであり、そして彼を失ったことの証明でもあった。


 五年前。

 私たちが暮らしていたのは、下北沢駅から徒歩十五分、築三十年の木造アパートだった。

 六畳一間のワンルーム。そこが、私たちの世界のすべてだった。

 玄関を開ければすぐに小さなキッチンがあり、その奥に私たち二人の生活が、文字通り折り重なるように詰め込まれていた。壁は薄く、隣人のテレビの音や話し声が筒抜けだったけれど、当時の私たちはそんなことさえ「いつか笑い話になるね」と笑い合っていた。狭いシングルベッドで体を寄せ合い、お互いの体温を確認しなければ眠れない夜が、永遠に続くと信じていた。


 けれど、夢という魔物は、そんな甘い時間を許してはくれなかった。

 二人のベクトルは、同じ「輝かしい未来」を向いているはずだった。でも、その歩幅とリズムは、決定的にズレ始めていた。


 ズレは、音から始まった。

 深夜二時。

 明日も早番で、山のようなタオルの洗濯が待っている私の耳に、部屋の隅から、あの音が響き始める。


 カタ、カタ、カタ、ターン。


 彼が愛用していたメカニカルキーボードの打鍵音。

 彼にとって、それは世界を変えるコードを書き連ねる、創造の旋律だったろう。でも、疲れ果てた私にとっては、神経を逆撫でする冷たいノイズでしかなかった。

 耳栓をしても、頭蓋骨に直接響くようなその乾いた音。

 布団の中で背中を向けながら、私は何度も「うるさい」と言いかけた。でも、言えなかった。青白いモニターの光に照らされた彼の横顔が、あまりにも真剣で、あまりにも必死だったから。彼もまた、戦っているのだと、誰よりも私が知っていたから。


 そして、朝六時。

 今度は私の番だ。

 明け方、ようやくコードを書き終えてベッドに潜り込んだ彼。その安らかな寝息を、私の目覚まし時計が無慈悲に切り裂く。

 ピピピピ、という電子音に、彼の体がビクリと跳ねる。


「……ん……」


 不機嫌そうに眉を寄せ、毛布を頭から深く被る彼。

 私は息を殺してベッドを抜け出し、暗がりの中で身支度を整える。ドライヤーの音は出せないから、半乾きの髪をタオルで押さえるだけで家を出る。トースターの音も申し訳ないから、コンビニの冷たいパンを駅のホームで食べる。

 玄関のドアを閉めるとき、私はいつも心の中で謝っていた。

 ごめんね。起こしてごめんね。

 でも、どうして私が謝らなきゃいけないの? 私だって、自分の夢のために必死なのに。

 そんな理不尽な苛立ちが、朝の満員電車の中で私の胸を黒く、重く塗りつぶしていく。


 大好きだった。

 彼が深夜、煮詰まった時に淹れる不器用なコーヒーの匂いも、夢を語るときの少年のような瞳も。私のあかぎれだらけの手を見て、何も言わずにハンドクリームを買ってきてくれた優しさも。

 でも、生活という現実は、そんな綺麗な感情を容赦なく摩耗させていく。


 私たちは、お互いの存在が、お互いの夢を邪魔していることに気づき始めていた。

 狭すぎる部屋。近すぎる距離。

 愛し合っているはずなのに、私たちはまるで、限られた酸素を奪い合う二匹の魚のようだった。どちらかが生き残るためには、どちらかが死ぬか、あるいは、別々の水槽に移るしかない。


 限界を迎えたのは、ある雨の火曜日だった。

 その日、私は店で大きなミスをした。お客様の予約を間違えて取ってしまい、店長からこっぴどく叱られた。その罰として、営業終了後に一人で冷たい水を使って床の雑巾がけを命じられた。かじかんだ手で、何度も何度も硬い床を拭いた。あかぎれが裂けて、血が滲んでいた。

 這うようにして帰宅した時、彼はまだベッドで眠っていた。昨夜も遅くまで開発をしていたのだろう。


「……ねえ、起きてよ」


 私の声は、自分でも驚くほど冷たく、鋭かった。


「……あとでいい。ちょっとだけ、あと三十分だけ寝かせて」


 毛布の中から、くぐもった声が返ってくる。

 その一言が、私の張り詰めていた最後の糸を、プツリと切った。


 私が、どれだけ音を立てないように気を使っていると思っているの。

 私が、どれだけこの痛みに耐えて、あなたの睡眠を守っていると思っているの。

 私は、あなたの夢を支えるための踏み台じゃない。


「……私だって、もう限界なのよ! あなたがいると、自分の夢が壊れそうになる!」


 叫んでいた。

 言ってしまった。

 決定的な言葉を。

 部屋の空気が、一瞬で凍りついたようだった。窓を叩く激しい雨音だけが、私たちの沈黙を埋めていた。

 彼はゆっくりと起き上がり、充血した目で私を見つめた。そこには怒りではなく、深い、深い哀しみが湛えられていた。


「……そうか。分かっていたよ、君がずっと無理をしていたこと。……俺も、同じだったんだ」


 彼は自嘲気味に笑い、冷蔵庫から飲みかけのぬるい麦茶を取り出した。

 私たちは、小さなテーブルに向かい合って座った。

 怒りはもう、どこにもなかった。残っていたのは、底の見えない諦めと、ようやく口にできた真実に対する奇妙な安堵感だけだった。


「別れようか」


 彼が言った。それは提案ではなく、二人で導き出した唯一の正解の確認だった。


「……うん。その方がいい。私たち、一人になったら、もっと自由になれる」


 私は頷いた。涙は出なかった。ただ、胸の奥がひどく寒かった。


「このままだと、二人ともダメになる。君の夢も、俺の夢も、この六畳一間じゃ狭すぎて、窒息しちゃうよ。……君には、もっと広い場所で、その手を輝かせてほしいんだ」


 翌週、私は荷物をまとめた。

 段ボール箱三つ分だけの、私の五年間。

 最後に鍵を返すとき、彼は私に背を向けたまま、震える声で言った。


「絶対、自分の店持てよ。俺も、絶対世界を驚かせてやるから。……いつか、笑って答え合わせができるように」


「うん。見ててよ。私、あなたに負けないくらい、自分を磨くから」


 アパートの階段を降りる私の背中には、冷たい風が吹き抜けていた。

 イヤホンから流れてきたのは、彼がよく聴いていたアジカンの『ソラニン』だった。


  『さよなら、それもいいさ』


 その歌詞が、私の心に深く、鋭く突き刺さった。

 ああ、本当に「いい」んだ。私たちは、お互いを嫌いになったから別れるんじゃない。もっと高く飛ぶために、お互いの重荷を下ろしただけなんだ。そう自分に言い聞かせると、ようやく涙が溢れ出した。下北沢の駅へ向かう道すがら、私は声を上げて泣いた。


 それからの五年間は、文字通り、記憶が曖昧になるほど必死だった。

 一人の夜は、驚くほど静かだった。

 誰も私の眠りを妨げない。誰も私の朝を奪わない。

 その自由は、時に暴力的なほどの孤独を連れてきたけれど、私はその孤独を燃料にして走り続けた。

 誰にも気兼ねせず、二十四時間のすべてを技術の習得に費やす。解剖学の専門書を隅々まで読み耽り、自分の肌の状態さえも「美のアルゴリズム」として解析し、あの頃のボロボロだった手を、今のこの完成された手に磨き上げた。

 いくつものサロンを渡り歩き、指名が取れずに悔し涙を流した夜もあった。でも、そのたびに「あの日の別れを間違いにしたくない」という意地だけが私を奮い立たせた。


 そして今日、私はこの静かな場所で、雑誌の中の彼と再会した。


 彼は勝ったのだ。

 あの頃、深夜までキーボードを叩き続けていた、あの狂気にも似た情熱を、世界を動かすシステムへと形にしたのだ。

 そして私も、この南青山という場所に、自分の城を手に入れた。


 世界は、驚くほど公平にできている。

 寂しさに背中を向けて、なりふり構わず、ただひた向きに戦い抜くことを決めた者にだけ、ふさわしい景色を見せてくれる。

 五年前、あのアパートの冷たい水に流した涙も、あかぎれの痛みも、すべては今のこの充足感を手に入れるために、どうしても支払わなければならなかった、高価なチケットだったのだ。


 私は雑誌をそっと閉じ、デスクの一番深い引き出しにしまった。

 不思議と、未練は微塵もなかった。

 あるのは、同じ時代を、違う戦場で戦い抜いた、最高の戦友に対するような、静かで深い誇らしさだけだ。


 私たちは、愛することよりも、自立することを選んだ。

 その結果が、この成功であり、この距離感だ。

 これでいい。これが私たちの、一番美しい結末なのだ。


「オーナー、次のお客様がお見えです。本日もよろしくお願いいたします」


 スタッフの凛とした声が、静寂を優しく破る。

 私は立ち上がり、大きな姿見の前で白衣の襟を正した。

 映っているのは、もう誰かの顔色を伺って泣いていた、あの頃の女の子じゃない。

 自分の足で立ち、自分の手で誰かの人生を少しだけ明るくする、完成されたプロフェッショナルだ。


「さよなら、それもいいさ」


 脳内で鳴り止まない、あの日からずっと私を支え続けてきた、乾いたギターの旋律。

 私はそれを、そっと心の奥の一番大切な場所に仕舞い込む。

 そして、真っ直ぐな、一点の迷いもない足取りで、私の居場所――温かなオイルの香りと、完璧なロジックが待つ施術室へと向かった。


 あの日の別れを、世界で一番幸せな「正解」にするために。

 私は今日も、私の道を歩いていく。

1Kの部屋で二人が夢を追う。それはロマンチックな物語の定番ですが、現実の「生活」という戦場では、キーボードの打鍵音や目覚まし時計の振動ひとつが、致命的な不和の火種になります。


今回、エステティシャンという「手」の解像度が必要な職業をヒロインに据えたのは、彼女が手に入れた成功が、かつての「荒れた生活」の対極にあることを象徴させたかったからです。


『ソラニン』を聴きながら、もしあの時、二人が無理をして一緒に居続けていたら……という「If」を想像してみてください。おそらく、この物語のような清々しい空の色は、そこにはなかったはずです。


誰かと別れた経験があるすべての人へ。その寂しさが、いつかあなただけの「勝利」に変わることを願って。

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