第二話 その2
夕方になり、稽古を終えた依月と皐月は山を下りて社にやってきた。山の木々に囲まれた小さな社の境内は、すでに忙しそうに働く町の人々で賑わっていた。
山の静けさを破るように、町の住民たちの声や木槌の音が響き、木々を揺らす風が提灯をかすかに揺らしている。
ここは上凪家のある山、天陰山の麓にある社で、誰が呼んだか「神薙鬼社」という。
神を薙ぐ鬼――皐月によると祟り神を退治する古い巫のことをそう呼んだのが由来だそうだが……神を祀らない神社なんて、ここ以外に依月は知らない。
「こうやって見ると、意外と大掛かりだよねー」
依月は家から持ってきた掃除用の箒を持って歩きながら、あちこちに立てられた提灯や、屋台の骨組みを眺めた。町の人々がわいわいと笑い合いながら作業をしている姿に、自然と自分の頬も緩む。
「毎年のことだから、みんな慣れたもんよ。でも、今年はおまえが主役なんだから、気を抜かないこと」
「それは分かってるってば。ちゃんと踊れるようにがんばるから!」
依月は軽く言い返しながらも、心の中で少しだけ緊張が走るのを感じた。自分が踊る舞台の設営が進むのを見ると、否応なく祭り当日の光景が頭に浮かんでくる。
「……にしても町のみんな、楽しそうに準備してるなー」
「そうね、私は準備なんてごめんだけど、これも祭りのいいところなのかも」
皐月は境内の隅で作業を見守りながら、依月の言葉にそう答えた。姉妹の間に一瞬だけ穏やかな空気が流れ、箒が地面を擦る音だけが響く。
「さて、舞台のほうも確認しておこうか。おまえ、当日の動線くらいはちゃんと覚えなさいな」
「はーい。頼りにしてます、先輩」
皐月の指示に従いながらも、依月の胸の中には緊張だけでなく期待が膨らんでいた。この祭りが、どれだけ自分の心に何かを残すのか。
それを考えると、楽しみな気持ちになる。
「おーい、上凪さんとこの姉妹じゃないか!」
元気な声に振り向くと、境内の中央で脚立に登って提灯を吊るしていた老人が、汗を拭いながら手を振っている。町の世話役の一人だ。
「こんにちわ、春吉おじさん!」
依月は笑顔で駆け寄り、皐月は淡々と一礼する。
「毎年のことだが、こりゃ大忙しだ。お前さんたちも手伝いに来たのかね?」
「掃除と下見ですよ。私は今年から依月の監督役ですから」
「わたしは……まぁ、ちょっと楽しみで来た感じ?」
依月が照れ隠しのように笑うと、春吉は大きな声で笑い返した。
「そりゃ結構! 新たな舞姫様がこの舞台に立つんだから、準備し甲斐もあるってもんだな。こっちは任せろ、最高の舞台に仕上げてやるでな」
その舞台は、拝殿のすぐ手前に特設された木製の高台で、数段の階段が設けられている。真新しい白木の板が敷かれ、中央にはこれから祭壇が飾られる場所が空いていた。周囲にはすでに提灯の骨組みが組まれ、境内全体を淡い光が照らす準備が進んでいる。
もう殆ど完成していて、あと飾り付けが少し残っているくらいのようだ。
「じゃ、舞台の動線、お勉強しようか」
皐月が依月から箒を預かりながら、春吉に一礼して暇を告げる。
「ちゃんと覚えないとまずいよね?」
「そうね。鬼姫の舞は町への捧げ物なんだから、最初から最後までの流れを完璧にしておかなきゃだめ」
はじめに皐月は、舞台袖となる拝殿に依月を招き入れる。
「まずはここで待機ね。時間になったらそこの通路を通って舞台横につく。気をつけるのは、この段階から既に人に見られるから、音楽に合わせてゆっくり歩くこと」
視線で促され、依月は本番のつもりで一歩一歩ゆっくり、舞台横へと歩いていく。皐月は特に指摘することなく、舞台前へと移動した。
「ゆーっくり一段ずつ階段を登って、舞台中央に」
依月は少しだけ緊張しながら舞台の階段を登り、中央に立った。そこから見えるのは、設営中の社殿と、その向こうに続く山の緑。山間の集落全体が、どこか神秘的な空気を帯びている。何人か作業中の町人が気づき、依月に歓声を贈った。少し赤面する。
「はい、舞の始めは『主座拝領の型』から」
皐月が舞台の下から指示を出す。
「両手を静かに広げて、深く一礼。そのまましばらく待機。音楽が始まったら、そこから扇を開いて……」
「こう?」
依月はぎこちなく型を真似るが、どうにも力が抜けている。皐月はため息をつきながら上がってきて、依月の腕を軽く直した。
「もっとゆっくり。動作に意味を込めるの」
「分かってるけど、人が見てると恥ずかしいんだよねー」
「本来もっと多くの人の前でやるんだけど、本番もそう言うつもり?」
「うへぇ」
皐月はそのまま舞台の端を指し示しながら説明を続ける。
「『主座拝領の型』が終わったら、ここから後方に二歩下がる。一度舞台が暗転するから、その間は一切動かないこと。再点灯して、例の音楽が流れ出すと思うから、ここからはいつもやってる稽古通り。『祓えの舞』『鎮めの舞』『恵みの舞』。動きは滑らかに、でも力強くね」
依月は姉の実演を見つめながら、真似しようとするが、足の運びがどうにもぎこちない。
「あーっなんかいつもと感覚違う! これ、当日大丈夫かなぁ!?」
「大丈夫、あとは練習次第。それに、当日になったら提灯の明かりが灯って、おまえの舞もきっときれいにライティングされるよ。まあ本番朝だけどね」
皐月がそう言うと、不安と緊張で舞い上がっていた依月は少しだけ目を丸くして、ふと舞台からの景色を見渡した。
今はまだ未完成だが、提灯や飾りがすべて整い、人々の期待がこの場所に集まる光景を想像するだけで、胸が違うニュアンスで高鳴ってくる。
それは緊張だけではない、期待と歓喜の色も含んでいた。
何もなかった自分が、何かを成せるかもしれないという、喜びだ。
「……で、終わったら一礼して、袖に戻る。こっちは別にゆっくり歩くとかはないけど、浮つかないように」
依月はぺこりとお辞儀をして、拝殿の中へと歩いて戻る。皐月は肩をすくめながら「まあいいか」と頷いた。
「はい、以上。覚えた?」
「……ぜんっぜんだめ! ねえねえ、今度から練習こっちでやっていい?」
「言うと思った……既に春吉さんには掛け合ってるから、夜なら好きにやっていいって」
「さすが!」
舞台の確認を終えた二人は、境内を掃除し始める。依月は小さな竹ぼうきを手に、拝殿の周りの落ち葉を掃き集めていた。
「お、依月ちゃん、そこは任せたぜー!」
遠くから声をかけてきたのは、境内に祭壇を設営中の中年男性だ。彼は祭壇に紙垂を飾りながら、忙しそうに動き回っている。
「はーい! ……辰也おじさん、すごく張り切ってない?」
「そりゃあ、祭りだからな。町中が一番賑やかになる日だろ? 依月ちゃんの舞も楽しみだしな!」
「うへぇ、プレッシャーかけないでよー」
辰也の笑い声が境内に響く中、依月は少しだけ赤くなりながら落ち葉を集め続ける。
「皆、ほんとに楽しみにしてるね……」
手を止めて周囲を見回すと、年配の住民が竹を組んで門飾りを作り、子どもたちが駆け回る姿が見えた。
そんな中で、皐月がぽつりと言う。
「当然。祭りがあるから、この町は生きていけるんだよ」
「どういうこと?」
「何もない田舎町なんて言うけど、こういう日があるから、皆この町を守ろうと思えるの」
その言葉に、依月は少しだけ目を細めた。
舞台、がっかりさせたくないな。
準備が進み、境内には少しずつ夜の気配が近づいてきた。提灯が試験的に灯され、柔らかな光が木々や拝殿に影を落としている。
「わあ……! すごくきれー」
依月は手を止め、思わず見上げる。昼間の賑やかな境内とは打って変わり、そこには幻想的な光景が広がっていた。
「これに溢れるほどの人を加えたら大体本番と同じ環境ね。おまえが主役になる場所の」
皐月の静かな声が背後から聞こえる。依月は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
依月は祭り当日、舞台の上で踊る自分を思い浮かべる。夜風が吹き抜け、提灯が揺れ、木々がざわめく――その舞台で、自分はどんな踊りを見せるのだろう。
胸の中に広がる期待と不安が、少しずつ混ざり合っていった。
祭りまで、あと十日を切っていた。