第二話 その1
第二話
「ほらそこ違う。手が甘い」
皐月の鋭い声が飛んでくる。庭の芝を踏みしめながら舞の練習をする依月は、その言葉にハッとしながら手元を直した。足を踏む位置、腕を伸ばす角度、すべてが細かく指摘されていく。
「……こんな細かいの、祭りの日には誰も気にしないと思うけどなー」
依月は軽く口を尖らせながら、もう一度型を繰り返す。練習が続くにつれ、真夏の太陽に照らされた額から汗が流れ落ち、頬も赤くなってきていた。
「誰が気にするかじゃない。舞は形じゃなく、魂を伝えるものだから。気を抜いて踊れば、想いなんて届くはずがないでしょ?」
皐月は木陰に立ちながら、扇子を片手に教え子を見下ろす。普段から無愛想な姉の表情は、指導中だとさらに険しくなる。
「魂って……そこまで大げさに考えなくてもいいんじゃない? どうせ祭りだし、みんなお酒飲んで盛り上がるだけでしょー」
依月がそう言うと、皐月は一瞬だけ眉を吊り上げたが、すぐにため息をついて座り込んだ。
もちろん依月も常に舞の稽古には真剣で、この愚痴も本心ではない。度重なる指摘に、少し心がざわついてしまっただけだ。皐月もそれを承知している。
要は、甘えだ。
「分かってないね。色々秘密が解禁されたから言うけど、『鬼姫の舞』は、ただのパフォーマンスじゃない。これはこの町の根っこみたいなもの」
「根っこ?」
「そう。船麓町は神がいない場所だって言われてる。でも、その代わりに私たち巫が、堕ちた神からこの土地を守ってきた。舞はその象徴なの」
依月は踊りの型を中途半端に止め、皐月のほうを見た。姉のいつもの無表情にほんの少し真剣さが混ざっているのを見て、彼女が何を言いたいのか理解しようと努める。
「えーっと……わたしたちの家のプライドってこと?」
「まあ、それに近いかもね。でもそういうんじゃない。この舞を踊ることで、町の人たちの祈りが形になる。だから、いい加減な舞を披露するのは絶対に許されないの」
「……よく分かんないけど、わかった」
依月は汗を拭いながら、少しだけ居住まいを正した。姉の言葉には、いつものきつい言い回し以上に、舞への思い入れが感じられたからだ。
「でも、さつ姉はすごいよね。ずっとあんなのと戦いながらこんなきっつい舞も踊ってきたんだから」
依月のぽつりとした一言に、皐月は目を丸くし、次いでそっぽを向いた。
「別に。慣れただけ」
「うそだー。ほんとはすごく頑張ったんでしょ? そんな偉いさつ姉さまなんだからさ、わたしにもうちょっと優しくする努力もしてみていいんじゃない?」
依月が軽口を叩くと、皐月は苦笑して扇子を閉じた。
「優しくしてほしいなら、まず自分で努力ね。私が言いたいのはそれだけだよ、後輩」
「うへぇー。はいはい……分かったよ。頑張ります、先輩」
依月は手をひらひらと振りながら、もう一度舞の型をとる。姉の厳しさの裏に隠れた真剣な思いが、ほんの少しだけ伝わった気がした。
もう一度通して、少し休憩する。
「――てか3月から一人暮らししてるけどさ、夏休み以外はあの蛇のことはどうしてたの?」
「実家には寄らないけど毎晩こっちに帰ってる。そのために近場の大学にしたし、高校もここから通える場所にしたわけ」
「あー……さつ姉ならもっといい学校行けるのになって思ってたんだよねー。そういうことなんだ。でも、大変じゃない?」
「さっきも言ったように、慣れたよ」
「すごいね……わたしは何も知らずに遠くの学校通っちゃってるのが申し訳なくなってきたよ……」
自分だけ何も知らない、というのは疎外感が強いものだ。ましてや家族の中での話なら、なおさら。
皐月は空を見上げながら、静かに言う。
「私は巫を継いでいるから、責務があるだけ。依月に何も知らせなかった選択を取ったのも私たちの判断だし、特にじじーは自由に人生を進んで欲しかったんじゃないの?」
「ふーん……」
気のない返事。無論、依月とて分かっているのだ。家族に、愛されてないなんてことは一切ないなんて。
16年、内緒話されていたことにもやもやしているわけではなく、自由な自分と違い、皐月は自分の人生を棄てているのではないか――懸念しているのはそこなのだ。
だが雰囲気でわかる。皐月は、そこの追及を許さない。
「おまえが何を考えてるかはわかるけどね。余計なお世話というやつよ」
「そうかな」
「私は自ら責を持ち、自らの意思によって巫として立ち、力を振るっているの。別に強制されて嫌々やってると思われると、今後に困る」
「今後?」
鋼のように真っ直ぐで強靭な意思。誰の手にも折れ曲げられなさそうなその強さに少し安堵しながら、依月は首をこてんと傾げる。
「依月はこれから力を取り戻すことで、将来の可能性の中に巫としての未来が含まれる」
「う、うん。ぜんぜん想像つかないけど」
「そしておまえは本来桁外れに強い力を持っている。そんな奴が姉が嫌々やってるからわたしが代わりにやる! って言い出しそうなのが面倒なのね」
鼻に皺を寄せながら嫌そうに語る皐月を見て、依月は目を泳がせた。
「別に私はおまえの自由のために率先して巫を継いだわけでもないし、上凪家長女として〜みたいな変な責任感は持ってないの。だから依月は依月で好きな選択を取っていいし、誰かを慮って将来を狭めるようなことはしてはだめ」
「はーい……なんか、ごめん」
なんて芯の強く優しい姉だろうか、と依月は思った。
――自分は、ここまでの強さを以て人生を歩めているだろうか?
しかし、当の皐月は依月の謝罪を聞いた後、やや表情を濁らせていた。
「まあ、おまえが要らないと言う力を取り戻させるのは、純然たるあいつらの……いやこちらの都合でしかないけどね」
「あいつらって?」
「なんでもない。……いい依月? これから力を取り戻して、またその必要に至った経緯も知ることになると思うけど」
「うん」
「忘れないで。巫の力は強大だから、何を為すかは必ず自分の意思で決めること。やれと言われて為す物事に、この力は相応しくない」
そう言って、皐月は休憩を終わりと言わんばかりに立ち上がり、依月を庭へ手招きした。
依月は贈られた言葉を、胸元でギュッと手を握りしめ、心に刻み込む。
まだ分からないことが多すぎるけれど。
家族は、依月を優しく導こうとしているのはわかるから。
引き続き、草臥れてきた体を鞭打って稽古へと臨むのだった。
●いっちー②
船麓町をひとり離れ、地方都市の学校で寮暮らしをすることになったのは、
近くの高校だと受験で受かるか怪しかった点、制服が可愛くて是非着たいと思った点、都会(彼女にとって)で暮らしてみたい点という3つの理由が大きいです。
皐月のように最初は実家からバスで近くの高校へ通う案を家族からおススメされていましたが、意外に頑固でどうしてもという熱意に押され、秦月が折れました。
その頃はまだ依月にかかる使命を軽く見ていたので、そういった決断も出来たのでしょう。
或いは、まだ「その時」でない今のうちに平和な人生を謳歌してもらいたかったのかもしれません。