第一話
第一話
「我々は、巫である」
蛇事件から明けて朝。秦月が静かにそう告げたとき、依月はちゃぶ台に両肘をつきながら、手に顎を乗せて聞いていた。
祖父と向き合うこの和室の乾いた畳の匂いと、縁側から吹き抜ける涼しい風の心地よさは、彼女にとって話を聞くのに最適なコンディションに思える。普段は堅苦しくて聞き流している祖父の小煩い話も、今日は真剣に聞く所存だ。
「かんなぎ? かみなぎじゃなくて?」
「別に苗字の話をしとるんじゃない」
べつに冗談で言ったつもりでもなかったが、秦月の予想以上に厳粛な雰囲気を悟って、依月は慌てて空気感を整える。
「えっーと、かんなぎ……なんか、神さまに祈るひとのことをそんな感じで呼ばなかったっけ」
「ほう、一応知っとるか。世間一般の意味ではその通りじゃな」
秦月は、孫娘の意外な知識に片眉を上げた。
「しかしそれとは由来からして別ものだ。我々はただ祈るだけの存在ではない。神そのものと渡り合い、時に力を借り、ともに理を支える……そういった存在なんじゃ」
「……? よくわかんない」
「お爺様、依月に説明するならもっと噛み砕いたほうがいいよ」
皐月が小説を読みながら茶々を入れる。秦月はじろりと睨むが、皐月は飄々とした態度を崩さず本から目も離さない。
「……昨日、皐月の力の一端を見たそうだな」
「え、うん。なんかぴかぴか……光ってた?」
「そう、我々上凪の一族は代々、特別な光の異能を有す。『巫参色』と呼ばれる力じゃ」
「かんなぎさんしき」
「対外的には『巫の力』ということも多いがな。力の由来を話そうか」
「うん」
「お前も今舞の稽古で散々聞かされとるこの町の伝説、『神のいなくなった社から生まれた不思議な子供』……あれはわしら上凪家の始祖で、名を上凪 姫月という」
「えっ!?」
祖父の発言に驚き、手に乗せていた依月の顎がずれ落ちた。
目を何度も瞬かせて秦月を見やるが、彼はひとつ頷くばかりだ。
「姫月様は祟り神へ堕ちた蛇神の呪いに抗う人々の祈りに応え、神々の手により生まれ落ちたとされる。わしらの持つ力はそこに原点がある。すなわち、神由来のまことに特別な授かりもの、ということだな」
秦月の話を信じるなら、この世界には。
「……神さまって本当にいるもんなの?」
依月の問いに、秦月は首肯する。
「わしらでも会う機会なぞ一生に一度あるかないかくらいのものだが」
常識がひっくり返るような話に依月は呆けながらも、一番身近な神話である、この町の伝説を思い浮かべていた。
「へ、へぇ……。あれ? 伝説だと白い光で呪いを静めて回ったって話だけど、さつ姉の光は赤とか青とかだったよ? しかも静めるっていうかぶっ倒すぜー! みたいな感じだったような」
「当時と今では、源流こそ同じだけど能力の構造がまったく違うの」
皐月がようやく目を上げて、依月のほうを向いた。その指先には見せつけるように青い光が淡く宿っていて、炎のようにゆらゆらと揺らめいている。
人体にはおよそ不可能な芸当に、依月は息を呑んで光を見つめることしかできない。
「私たち巫の主な役割は、船麓町に時折発生する呪い――通称祟り神から町を守ること。昔はこの力は守護・鎮静の要素が強かったけど、世代を経て能力がどんどん実用的に編纂され、多岐にわたる効果を得るに至ったの」
「よく分かんないけど、祟り神って昨日見たおっきい蛇みたいなやつ?」
「そ」
「うちってずっとあんなのと戦ってきたの!? じーちゃんも?」
「そうだ」
「うっそ……」
「現在は私が今の依月の歳だったときからお爺様に代わって対応してる。呪いは大体夜に山奥で発現するからお爺様も歳で危なっかしいし」
皐月の発言に思うところあるものの、話が進まないので睨むだけに留める秦月。
「あ、それで時たま夜居なくなってたんだねー……じゃあばーちゃんも?」
「ばあさんは一般人だ。昔は神道学者だったこともあり力には詳しいがな」
ちなみに、祖母弥美は現在秦月の代わりに町内会にでており、祭りの会議をしているところだ。今頃くしゃみでもしているかもしれない。
「ふーん……じゃあわたしも一般人? てか、わたしだけなにも知らされてなかったのはなんで?」
「今日の核心はそこじゃな」
秦月は渋面をつくる。深い皺に刻まれたその顔は、どこか後悔しているようにも、迷っているようにも見えた。
その表情に、なぜだか、依月の古い記憶が想起されて、少し胸が苦しくなる。
ひと際強い風が、居間を吹き抜けた。
「実は依月。お前には、膨大な力がある」
「あれ、そうなの?」
「ああ。だが、あまりに強すぎるあまり、わしが幼少期に記憶ごと封印しておるのだ」
「封印……」
「家族の命に関わる非常に危険な状態じゃった。苦渋の決断だったが、許してほしい」
「って言っても……別にわたしはなんにも知らないからなぁ。じゃあわたしが子供の頃のこと何にも憶えてないのはそれのせい?」
「そうなるな」
うーん、と唸る依月。正直、現実感は特にはない。だって16年生きていたが、子供の頃の記憶や特別な力がなくて困るような人生ではなかったから。
「全然実感ないやー。わたしにそんな力があったとか」
「じゃろうな。欲しいか?」
「いや、別にいらないけど……」
後頭部をかきながらあっけらかんと言う依月だが、秦月の渋面はより渋みを増していく。
その答えを分かっていたがゆえに、だろう。
「それがそうも言ってられんのだ」
「え?」
皐月がふん、と小さく鼻を鳴らした。
依月が顔を向けると、変わらず無表情で小説を読んでいたが、どこか不機嫌そうな気配が滲み出ている。心情を見せないのが上手い姉だが、珍しくも隠しきれてない時点で相当怒っているらしい。
「事情があり、もともとお前にはこの夏休みで力と記憶を取り戻してもらわねばならん。ゆえに今回祟り神や巫の力に触れたのは、ある意味で良かったとも言えるだろう」
「……なんで?」
きょとんとする純粋な依月。対して、二人は複雑そうだ。秦月はなにをどこから話そうか、未だ決めかねているような雰囲気で口をもごもごしている。
「……それは、追々話す。すまんが理由を語るには少々気持ちの整理が必要そうだ」
「? まぁいいけど」
依月の気楽さに救われたのか、秦月はあからさまにほっとした。
「じゃあ、わたしも神さまとか祟りとか、そういうのに関わることになるのかな」
「今すぐに、というわけではない。お前の当面の役目は、無神祭の『鬼姫の舞』を踊ることだ。そしてそれが、お前の巫としての最初の仕事となるだろう」
「鬼姫の舞……」
依月は小さくその言葉をつぶやいた。やがて視線を上げると、祖父の真剣な目が正面から自分を見つめているのに気づいた。
「舞姫というだけではなく、上凪家の娘――巫として踊る、ということだ。やれるか?」
問うているのだ。少女の意思を。
依月は、応える前に傷ひとつない自分の掌を見つめてみた。
苦労をしてきてない手だ、と思った。
一方で昔から、皐月の手がごわごわしてたり傷が多いのが気になっていた。
つまり、ずっと守られていたのだろうか?
依月だけ、何も知らず。
――自分も、分かち合いたい。
「んー……分かった。頑張るよ、じーちゃん」
軽い返事。されど曇り知らずの目。秦月は何かを覚悟するように瞑目した。
「そうか。この舞が、この町やお前にとってどれほど重要なものか、踊るうちにお前にもやがて分かるだろう」
風が部屋の障子を揺らし、依月はその音を背に聞きながら、小さく拳を握った。自分の中で、世界が大きく変わりつつあるのを感じながら。
――何かを忘れている。
それは恐れか喜びか。
無意識下でずっと探し求めていた答えが、ようやく現れたかもしれない。
「あ、ねえねえ。封印?されたって言ってたけどさー……わたしの世界の声が聴けるやつは、そのかんなぎの力ってやつなの?」
話し合いは一旦終わり。席を立とうとした秦月は、依月の思い出したような疑問に再び複雑そうな顔になる。これは話しにくい、というよりは素直に困惑の色が強く出ていた。
「いや、巫の能力に万物の声を聞くような権能はない。それはわしらにはない能力だし、歴代を遡ってもそんなことができたものは、姫月様含め誰一人としておらん」
皐月が続ける。
「つまり、それは依月だけが持ってる妙な力ってことね。巫の力を根本から封印して尚使えてる異能ってことは、巫とはおそらく別にルーツがあるはず」
「ふーん? なんかよく分かんないってこと?」
結局謎だ、ということが結論としてわかり。依月は発散がてら、昨日のぶんも取り返さんと舞の稽古をしに庭に出ていった。
それを見届けながら、秦月は皐月に話す。
「やはり、これは……信じたくはないがアレなのだろうな」
「そうね。まだ十六の妹が背負うには、余りにも――」
●神について
本作に於いての日本神話、という話になりますが、シンプル化のため造化三神、神世七代、天津神、国津神の4区分のみとしています。
人の姿をとっていたり獣の姿をとっていたり、不定形だったりと様々ですが、人と接する機会は殆どありません。
天津神、国津神の一部の神たちは声だけを人々に届け、お告げという形で関わることはあります。
その声を聞き届けるものは本来の意味での巫、あるいは巫女と呼ばれます。彼らは「異能者」ではなく「代弁者」です。
(ゆえに上凪のほうの巫と呼び名が共存できています)
異能者に限って言えば、特定の異能を持つものは神と直接接する機会があります。それは能力の性質によるものか、或いは古い約定によるものです。
神と対峙したものはそろって言います。「あれを人と同じ尺度で見てはいけない」