第零話 その6
「いつまで経っても舞の練習に来ないと思ったら……何でおまえがこんなところにいるの」
しばらくお互い硬直していたが、皐月はなにかを諦めたのか、口の中で小さく「やらかした」と呟いてから、依月のもとへと歩いてきた。いつものつんとした無表情が、より仏頂面になっている。
手を差し伸べて依月を立たせると、服の泥を払ってあげながらここにいる理由を問うた。
「よ、吉岡さん家のユキちゃんを探してて……でも、これって、何……? なにが起きたの?」
依月はされるがままになりながら問いかける。まだ茫然自失といったところで、先ほどの衝撃が拭いされない。
当然か。夢かと疑うような光景だったのだから。
「ユキちゃん?」
「あれ、知らない? 白い猫……なんだけど、今朝からこの山で迷子らしくって。声を聞きながら来たらこんなことに……」
「……なるほど『世界の声』。それで人祓いを掻い潜られたわけね。まいった、まさかこんな形で知られるなんて」
かつかつと刀の柄頭を自身のこめかみに当てながら、呻くように皐月は言う。やがて、盛大なため息をついてこう続けた。
「依月、悪いけどなにも説明できない。じじーに事情を説明して判断を仰ぐから、それまで待って」
「え、う、うん」
「で、ユキちゃんだっけ? 猫はどこにいるの? 祟り神……あの蛇は今のところもういなさそうだし、保護してから帰ろう」
「あ、えっと……ちょっと待って」
まだ現実に回帰できていないが、なんとか世界の声に接続して、猫の声を探ろうとする依月。
が、深く潜ろうとしたところ。
突如皐月に脇に抱えられたと思った次の瞬間には、自身の視界が一瞬で別の場所の景色に切り替わっていた。
ついさっきまで自分がいたところを少し離れた場所から見ていることに気づき、依月の目が大きく見開かれる。
強烈な重力と、姉の姿勢から察するに、恐ろしい距離を一瞬で依月ごと跳躍したのかもしれない。
「わっ!?」
「舌噛むよ。……また蛇が出た。悪いけど後にして」
先刻まで2人がいた場所を、いつのまにか3匹の蛇が多方から襲い掛かり、一帯を黒く焼き焦がしていた。全く感じなかった気配に、依月は戦慄する。
今いる場所にも新たに2匹の蛇が出現し、それを予期したかのように皐月は事前に別の場所に退避する。
「5匹ね。ほんとは見ないで欲しいけど、仕方ない……。後ろでじっとしてて」
状況判断が終わったらしい皐月は、ようやく腕から依月を降ろす。怖いが、従うほかない。へたりこんだ依月は、姉の後ろで息を潜めるしかなかった。
「闢則。纏鎖枷」
皐月が片手を広げると、青い光が周囲に放たれる。それは蛇を包み込み、蔦が蔓延るように光が絡みついていく。蛇から光の蔦へ、黒い炎が吸われていき、音のない苦悶の声が上がる。
それを見届けることもなく、懐から5枚の紙切れを取り出し、手から発する青い光を充填させる。
「闢則。八咫響」
紙切れを無造作に投げやると、それぞれ蛇のもとへ紙切れが素早く飛んでいき、一匹につき一枚が体に貼り付いた。直後、蛇の目から光が失われる。
皐月の身体から発する光の色が青から赤に変わった。
「迅・剛」
刹那、依月の目の前から姿が掻き消え。
5匹の蛇の首が全て切断され。
切れた首が吹き飛んだ。
「ええーっ!?」
あまりにも突拍子もない光景に、依月は口をあんぐり開ける。
依月の目では、皐月の姿が消えたと思ったら次の瞬間には蛇の首が全部同時に吹き飛んだようにしか見えなかった。
「終わったよ」
ぽかーんとしていると、何故か背中から皐月の声がした。
驚いて振り向くと、いつもの無表情な姉の姿がそこにあった。
手には何か白いものを持っている。
「え、あれ?」
「はい、猫。この子でしょ?」
くたっとしているが、白くて大きな、青い首輪の猫。
依月の記憶とも合致する、ユキそのものだ。
皐月から手渡されると、暖かな体温と上下するあばらを感じて、少しだけ我に返る。
「あ、ユキちゃん……元気そうだね。ちょっと心が疲れてるみたいだけど」
『世界の声』でユキの状態を診て、安堵する。
「でも、なんでさつ姉がユキちゃんを?」
「なんでって」
皐月はわざとらしくきょとんと目を見開いた。
「蛇を刈り終わったついでに、ちょっとあちこち走り回って探してきただけだけど?」
そんな態度をとりながら、「闢則。饗土御祓火」と呟いて、蛇の体を青く焼き消していく。
「そんな当たり前みたいに言われても……」
違う常識の世界に来たような感覚になり、依月は少し泣きそうになってきた。
それを察したのか皐月はやや吹き出しそうになりながら、補足する。
「冗談。これから猫探しで帰り遅くなるのも嫌だし。じじーに早く相談したいからね」
最早依月は考えるのもリアクションするのも疲れて、コクリと頷いた。
「さて、吉岡家に寄ってから帰ろうか」
「でもさつ姉、今のって」
「言えない。けど最早秘密にするつもりはないよ。私も、多分じじーもね。明日には分かるんじゃない?」
機先を制して、皐月は依月の疑問に釘を刺す。
そして、聴こえるか聴こえないくらいの小さな声色で、皐月はぼそりと続けた。
「どうせ遅かれ早かれなんだから」
*
夜の帳がすっかり降りた山間の町は、静寂に包まれていた。澄月川の流れの音と、風が木々を撫でる音が辺りを支配する中、家々のうす暗い窓明かりがかすかな生命の息吹を伝えている。とある古びた家の縁側では、少女がひとり、呆けたように夜空を見上げていた。
「……夢じゃないんだ、ね」
膝を抱えてつぶやいた声は、小さな虫たちのざわめきに溶けていった。皐月に連れられて無事に吉岡家へユキを届けた後、祖父に事情を伝えると、厳しい表情の秦月は「やむを得まい。話すべき時が来た」とだけ呟いてそのまま奥へと引っ込んでしまった。
祖父のいない食卓。依月は皐月の隣で夕食を取りながら、誰も語ろうとしない事実が重くのしかかるのを感じていた。何がどうなっているのかもわからない。けれど、今日見た蛇、そして皐月の驚異的な力――すべてが夢や幻想ではないことは、肌で理解していた。
「なんだったんだろ」
猫を探していただけなのに、あの奇妙な蛇に出会い、皐月の秘密を目撃する羽目になった。そして、依月の胸に引っかかるのは、あの蛇が自分に向けてきた視線。恐怖に震える中で、確かに感じたあの執着のようなもの。
「……わたしを狙ってた、よね?」
自分の問いに、夜空は何も答えない。ただ満天の星々が、遠い昔の記憶のように輝いている。依月は不意に、胸の中で微かな痛みを感じた。それは、目を閉じたときに胸の奥から浮かび上がる、どこか懐かしい緑の光を想起させた。
「忘れてるんだ、何かを」
その光が何なのか、なぜ心の奥で疼くのか、答えは見つからない。ただ確かなのは、これから自分の中で何かが変わるということ。あの黒い蛇も、皐月の闘いも、そして山の声が「お方が戻る」と囁いていたことも――すべてが絡み合って、依月の知らない未来へと繋がっている。
「……さつ姉は知ってるんだ」
皐月の背中に、幼いころからこっそり感じていた得体の知れない何か。それが今日、はっきりと形を成した気がする。でも、それ以上を尋ねるのは少し怖い。問い詰めれば、今までの穏やかな日常が壊れてしまうような気がして。
吹き抜ける風に励まされ、依月はふっと笑った。
「まあ、考えすぎてもしょうがないかー」
明日はまた、舞姫としての稽古が待っている。そして、もうすぐ夏祭りがやってくる。依月は今の自分にできることを、ひとつひとつやっていくしかない。
夜空の星々は瞬き、静かに語りかけてくるようだった。依月はその声に耳を澄ませる。
「また明日かな」
少しの不安と、少しの希望を胸に、依月はゆっくりと立ち上がった。その背中には、まだ彼女自身も気づいていない、運命の影がちらついている。
――この夜の静寂が破られるのは、そう遠い未来のことではない。
第零話 終わりです。ようやく話らしい話がスタートしました。
もっと展開をスッキリさせたほうが小説としてはよいのでしょうが、わざとなので…すみません。
皐月の使った術についてはかなり先に説明を入れますので、恐縮ですが今は雰囲気だけ感じてもらえればと思います。