第零話 その5
特に人の手が入っていない獣道から裏山に入ると、途端に空気が変わったのを感じた。昼間はどこかのどかに感じていた風も、今は冷たく、肌を撫でるたびにぞくりとする。木々が密集した山道は薄暗く、足元すらおぼつかない。藪で服や肌を切らないように注意しながら、根っこでぼこぼことした斜面を進んでいく。
少し怖さもあるが、依月は躊躇しない。どうせ『世界の声』を聞けば降り方もすぐ分かるはず、と自らを鼓舞し、耳を澄まして木々の囁きに集中する。
「あ、近いかも」
ざらり、と。近くの木が小さな声で「白い毛並みの生き物が走り去った」と教えてくれた。方向を確かめ、小さな猫の気配を感じたので、それを頼りに駆け出す。
足元の石が転がり、草が擦れる音が追いかけてくるようだ。依月はやや息を切らしながら道なき道を駆け抜ける。前方の草むらがざわめき、動く何かが見えた。
「ユキちゃん!」
反射的に声を上げると、遠くにソロソロと歩き去ろうとしていた真っ白い毛の猫が振り返った。その猫はひどく怯えた様子で、耳を伏せながら依月を見つめてくる。
様子がおかしい。
ただの迷子であるだけならここまで恐怖で震えないような気がする。依月の『世界の声』から伝わってくるユキの感情は、依月本人にも伝播するほど憔悴し、擦り切れていた。
「どうしたの……?」
依月は慎重に近づこうとしたが、そのとき、木々が大きく揺れる音が響いた。風が逆巻き、冷たさが一気に増す。
草木から、風から、周囲あらゆる動物から。
依月に向けて「逃げて!」「危ない!」と悲鳴じみた声が飛んでくる。
依月は、その勢いに強烈な耳鳴りを錯覚した。
まるで依月を危機から遠ざけたいかのように、ここ一帯のすべてが、少女へと過剰な警告を鳴らしている。
「なに!?」
初めての現象に、依月はぎゅっと目を瞑った。
波のようにいろんなものが依月へ矢継ぎ早に強い危機感を伝えてくる。
余りの勢いに溺れてしまいそうだ。
半ばパニックになりそうになり、強引に『世界の声』を遮断する。
途端に訪れる静寂。
しんと静かな暗い山の中で、依月の荒い呼吸とのたうつ心臓の音だけが響いていた。
猫が鋭い鳴き声をあげ、奥へと走り去る。
「あ、ユキちゃん待って!」
突然の事態にくらくらする頭を抑えながら、それでも猫を追いかけようとした依月の前に、突如として無から生えるように、大きな黒い影が立ちはだかった。
それは蛇の形をした、巨大な「何か」だった。全身は墨を流したように黒く、周囲の空間が歪んで見える。身体中に見ただけで爛れてしまいそうなおぞましい文字が刻まれていて、本能がそれを読むのを拒む。
赤黒く光るその双眸は、依月をじっと見据えていた。
「な、なにこれ……?」
足が震え、声も出ない。頭では逃げなきゃと理解しているが、身体が言うことを聞かない。
蛇は金属が軋んだような音を立てて近づいてきた。歪んだ空気が依月の肌を押し付けるように重い。
蛇の下敷きになった木の枝が、ぱき、と折れて黒く燃える光景を見て、ようやく依月の身体が反応した。
「……やっばい!」
豪、と頭から噛みつくように勢いよく巨体が襲いくるが、なんとか我に返った依月は横っ飛びで避けて、ごろごろと地面を転がった。
「うっごほっ……!」
肺に衝撃が走り、何度か咳き込みながら立ち上がる。蛇っぽいなにかが、依月のいた場所の後ろの木に噛みついていた。その木は、口元から黒く燃え広がり、しばらくもしないうちにぐずぐすに炭化する。
衝撃的で凄惨な光景に、依月は無意識的に『世界の声』に再び意識を繋げた。非現実的すぎる光景に、なにが起きているのか確認せずにはいられなかった。
「声が……」
変わらず、依月へ危機感を募らせる声は多数あるも、それぞれが自身の存亡への危機と蛇への恐れで、声はかなり静かになっていた。
そしてやはり、目の前の木は朽ちていた。しかし、死してしまった木よりも、その蛇と、蛇が通った跡から声がまったくしないことのほうが強烈に違和感があった。文字だらけの帳簿に一筋消しごむを掛けたように、そこだけ情報に穴が空いてしまったかのような。
端的に、すごく気持ちの悪い感覚だ。
これは、生き物ではない。
感情がない。
心もない。
ではなんだというのか?
蛇は燃やし尽くした木から顔を上げ、依月のほうへと再度向き直る。目が合って心臓が跳ね上がるのを感じながら、山の麓のほうへと走った。
「はぁっ、はぁっ、なんなのあれっ!?」
振り返ると危ない気がする。一目散に来た道を戻りたいが、しかし蛇の突進を阻むものがないので、木々が密集している場所を盾にして、ジグザグに走らざるを得なかった。
依月は、運動神経が良い。
勢いを利用して岩の段差を片手で跳んで、更に木の枝を掴んでぶら下がって振り子のように跳躍したり。
倒木の下を滑りながら潜ったり。
なるべく速度を落とさないように器用に逃げていく。
『世界の声』も繋ぎっぱなしで、木々が依月に向けて逃げ道を提示してくれている。時折後ろから断末魔のような悲鳴も聴こえ、依月は一瞬ぎゅっと目を瞑った。
依月は知っている。木々にも魂があることを。
依月は察している。この「何か」に襲われると、魂すら残らないことを。
木は逃げられない。ゆえに覚悟を決めて、決死の想いで依月を逃がそうとしていた。
その気持ちが伝わってくるがゆえに、依月は徐々に恐怖よりも悲しみが勝ってくる。
色々な思いを堪え、頑張って逃げるものの。
しかし、もう日は暮れており、視界は暗く。
やがて依月は暗がりの中で根っこに足を引っ掛けてしまい、盛大に転んでしまった。
「いったぁ……!」
打ちどころが悪く、脛あたりを抑えて蹲る依月に、黒い影が忍び寄る。
「うあ……」
なんとか立ちあがろうとするも、片方のつま先に根っこが絡みついていて、もたつく。
障害物が燃え、依月と蛇の間に遮るものがなくなった。そして、裂けんばかりに顎門を大きく開き、依月に襲いかかってきた。
絶望が体を支配する。ぼんやりと走馬灯のように、自身に近づいてくる爛れた禍々しい牙を見つめながら、少女はああ、と思う。
祭りの踊り子、やらなきゃいけないのに。
完全に視界が覆われそうになる直前。視界の右奥で、赤く、鋭い光を幻視した。
鈴の音のように軽やかな音。
蛇の首が鋭利に切り裂かれ、依月の左へと吹き飛んでいく。
轟音。
「っ!?」
呆然とする依月。勢いを失った首のない蛇の体は、慣性で近くまで滑り込んできたものの、依月に到達することなく、どくどくと黒いへどろを垂らしながら力尽きていた。
涼やかな金属音がし、右を見やると、全身に赤い光を纏い、刀を振り下ろして残心する、黒装束が視界に映る。
黒装束は、ため息をつきながら簡素な大刀を納刀し、赤い光を消し去った。そして、気配を感じたのか、こちらを向いたことで依月と視線が交錯する。
依月は目を見開き、黒装束は激しく動揺した。
「さつ姉……?」
●時代設定について
田舎生活を描くうえで存在がとにかく邪魔なので、スマホは普及していないものとしています。ジョブズなんていなかったんや…
人々の日常生活のイメージはだいたい3G回線が主流だったころくらいです。
とはいえ別に平成が描きたいわけではないので、技術進歩および、ファッションや食べ物など諸々の流行は令和準拠(スマホありきのトレンドは除く)。
未だ紙媒体やデジカメが支配的で、依月の友人のガラケー所持率はだいたい20%未満くらいかと思われます。