第十二話 その4
笑顔をたたえた逆さ顔。
覆面がめくれて露わになるその顔は、最初こそ國木田 耀そのものだった。
しかしやがて皮膚は落ち窪んで枯草色に染まり、かさかさの藁の束へ変貌していく。
服の隙間から煙のような呪気が漏れ、身体のほうも人の姿を保てなくなり、間もなくがしゃりと崩れた。
風の音が微かに聞こえるだけの、一瞬の静寂。
「上凪さん、まずい!」
ここまでずっと無口だった雪平が明確に危機感を露わにして叫ぶ。
まだ功月の闢則の効果が続いている中、ふらつきながらも肌で感じた強烈な呪気。
声を受けた皐月はと言うと、顔を険しくして自身に最大限の『剛』を付与しているところだった。
本能で悟る。
これは逃げられないものだ、と。
藁から噴き出る”見えない何か”と、皐月の赤光が激突する。
「っ!」
まず小太刀『紺影小正』が青く光る。
あらかじめ刀と自分にかけていた保険としての自己強化が発動したのだ。
しばらく震えて拮抗するも、しかし刀身が耐え切れず砕け散る。小太刀は粉々になった。
「……がふっ!」
次いで刀に依存した自己強化が解けた皐月へ、どん、という衝撃。看過できない甚大なダメージが入る。
耀もとい藁人形を切った時と同じ場所——首筋に同じ太刀筋の切り傷が刻まれ、血しぶきが舞う。
内臓にまで耐えきれない呪いによる負荷がかかり、身体がくの字に折れ、喀血する。
「カウンター式の呪術……! これは"切派"の……!?」
花壊照も前後不覚になるほどの視覚不良に囚われながらも、気配だけで察し、青褪めた。
「皐月!」
「さつ姉!?」
術をかけた功月を除けば、この中でいち早く復帰したのは依月だった。
その光景に祖父が倒れた光景がフラッシュバックして、頭が真っ白になる。
二人とも、皐月のもとへと駆けていく。依月に至っては急ぐあまり赤の制御を誤って、足元の地面を消し飛ばしてしまうほどだった。
「功月さん、連れてけ!」
その言葉に功月は途中で足を止め、倒れていた雪平を担いで走る。
当然、先に着いたのは勢い余った依月だった。
「さつ姉!」
依月の泣きそうな声。しかし介抱しようと寄ってきた依月に皐月は顔を伏せたまま左手で制し、安心させようとしてくる。
命の危機を感じる皐月。だが斃れるつもりは毛頭ない。
膝すらつけたくないという鋼の意思で、あらゆる痛苦を遮断する。
「……快」
『剛』で耐えているうちに、歯を食いしばりながら追加で言霊を紡ぐ。
首と内臓に赤による治癒を開始。
だが治ったそばからまた同じ傷が入り、キリがない。
「……なら。展・嚴・剛・粛・快ッ!!」
戦闘持久力を犠牲に、強度を高める。『剛』『粛』の耐久力、『快』の治癒力をそれぞれ跳ね上げる。
ようやく巫の力による耐性が呪術を上回り、皐月はひとまずの危機を乗り越えた。
「ふぅ……」
「ねぇ、大丈夫なの……?」
「なんとかね。——心配かけてごめん。じじーの二の舞には絶対ならないから」
「よかった……」
依月は一旦胸を撫で下ろす。だが……。
「皐月、無事か」
遅れて功月が到着し、雪平をその場に下しながら様子をうかがう。
「ごめん、してやられた。いま全開で……保って三分」
「動けるか?」
「無理。さすが私、強いわ」
「自分の力を跳ね返されでもしたのか?」
「多分ね……」
抵抗に全力を注ぐ皐月。表情と口調こそいつも通りなものの、皐月から漏れ出る光が何かとぶつかりあって激しく明滅しており、切迫しているのはなんとなく伝わってくる。
それでなくても依月にしてみれば、強がり、やせ我慢だということは丸わかりだ。
でも、皐月は二の舞にはならないと言ったのだ。その想いは、嘘偽りなくて。
だから依月は、心配するよりは、信頼する。
軽く見渡すと、自力で抜け出した依月と解除してもらった雪平以外はまだ術の効果が続いており、じたばたとのたうち回っている。皐月たちを気に留めている余裕は誰も無さそうだ。
皐月が功月と依月に肩を借りて、広場から少し離れた遮蔽された建物の跡地に隠れる。
「雪平さん、解呪できるか?」
功月に言われるまでもなく既に準備をしていた雪平は、白布を皐月にぐるぐる巻きにして解呪を進めていく。
一通り手順を踏んだ後、ぽつりと言葉を零した。
「……強いな。三分以内は厳しい」
「でしょうね」
淡々と解呪を受けながら、皐月はため息をつく。
「水墨さん、あの藁人形……やたら高性能に感じたけど、あれはなんですか」
「……あれは恐らく、呪術の全派閥が集まって作られた技術の結集だ。ほぼ全ての派閥の呪術の癖を感じた」
「結集……遠隔操作、意思投影、カウンター、呪術を直接放つこともできる、と。確かに技術は凄い。切るまで人でないことに全く気づかなかったですから」
「そういう呪いを周囲に振り撒いている。しかし遥か遠くから操れるようなものでもあるまい」
「なるほど……。なら、本物の國木田はここのどこかにまだ隠れている、と」
少し悔しそうな響きを混ぜて、皐月は再びため息をついた。顔も目線も動かさず、皐月を見守っていた依月に声をかけた。
「依月」
「……うん」
「お願いが三個ある」
「! 任せて! なにしたらいい?」
「まずは昭陽君と、もう一人の水墨の人をここに連れてきて」
「わかった。そのあとは?」
「私に赤の”譲渡”を頼みたい」
その言葉に、かつての皐月の教えが過る。
「譲渡って……わたしがやるとパンクするからだめなんじゃなかった?」
依月の指摘に、皐月は仕方なさそうに頷く。
「でも、そんなこと言ってられない。それしかない」
「うー、大丈夫かな……もういっこは?」
「功月さんの闢則が切れて敵が立て直してる。おまえが相手して」
「うん……えっ? ひとりで?」
「ひとりで」
「ほんとに?」
「最善手がそれだから。数には圧倒的な力を。さっき派手に動き回りながら情報探ってたけど、恐らく御婆様はあの大きな建物の中。それが壊れなければ全力でやってよし」
「ぜ、全力で?」
「……まぁ、良識の範囲内でってことよ。とにかく急いで。普通に昭陽君たちが取り残されてて危ない」
「わっ、行ってくる!」
依月は赤を強めに纏って、再度元いた場所へと戻っていく。確かに敵はばらつきがあるものの徐々に頭を振りながら立ち上がって、復帰しているものが多くなっている。
依月はそれを横目で捉えながら、ひとまず昭陽たちのいたはずの方角へ走った。
混戦を極めた地面はもはや原型をとどめておらず、瓦礫と土砂と焦げ跡と呪詛の残滓が入り混じる混沌の海。
足場を見誤れば転倒するし、呪術の残り香に触れれば少しだけ不快な気分になる。
それでも依月は赤を纏った脚でぐん、と地を蹴り、疾走した。
程なくして、一際砂煙が濃い地点を抜けると結界に守られていた昭陽と花壊照が見えてきた。
ふたりは正四面体の緑の結界の中に立て籠っており、復帰した國木田の術者たちに取り囲まれていた。
「えーい!」
もう約束を守ってられない。時間がないのだ。
依月は力にものを言わせて人だかりを吹き飛ばすと、壁の中のふたりに大声を上げた。
「おにーさん、おねーさん! さつ姉のとこに来てほしいの! お願い!」
叫びながら駆け寄ると、花壊照はすぐに頷いたが、昭陽はやや険しい顔をしていた。
「依月ちゃん! 皐月は無事か?」
「うん! だけどたぶん、時間がない! だからお願い!」
昭陽は一拍遅れて頷き、結界を解くと杖を肩に担いで走り出す。花壊照は彼に続き、依月も再び踵を返した。
三人で皐月のもとへと戻る途中、崩れた建物の陰から覆面の男が勢いよく這い出してきたのを、依月が咄嗟に見咎めた。
「うわっ!?」
依月は立ち止まり、構えた右手に赤光を収束させる。撃つか否かを迷う一瞬——
「任せてください!」
横から花壊照の鉄パイプが振るわれ、男の顔面に直撃した。ゴキリ、と嫌な音がして男が倒れる。
「行きましょう、依月さん」
「う、うん……」
引き攣らないよう気をつけながら、依月は相槌した。
三人は再び駆け、大きな危機もなく皐月のもとへと到着する。
「ただいま!」
「昭陽、花壊照さん、無事だったか」
「立て籠ってたところを依月ちゃんに救ってもらった。助かったよ」
「ううん、なんともなくて良かったよ」
反応もせずじっとしている皐月は表面上はまだ飄々としたものだが……その光は明らかに鈍く、彼女の体力が徐々に限界に近づいていることを物語っていた。
皐月は依月を。雪平は花壊照をそれぞれ手招きする。
「花壊照」
「遅くなりました。私も診ます」
視界の端で腕まくりをする花壊照を見届け、功月は昭陽に話しかけた。
「昭陽、キツイだろうがここ一帯を結界で守ってくれ。皐月のリミットはもう1分もない」
「まじか。了解だ!」
昭陽は頷き、杖を振り上げて再び結界を張る準備を開始する。
一方、皐月は依月に譲渡の手ほどきをしていた。
「どうせおまえのことだから……言霊は忘れてる……でしょ」
「……『匡』は思い出したもん」
「私が……じじーに使ったからね……。欲しいのは『剛』と『粛』と『快』の譲渡版。……すなわち『献』『盾』『匡』の……三つ」
「そういえばそうだった。どうやって使えばいいの?」
「与えたい対象に手を当てて……どのくらい強化させたいかをイメージ……しながら、言霊を唱えれば、いい」
「わかった。やってみるから、もう喋らないで」
こんなに苦しそうなのに、表情筋は一切動かさずなんでもないように見せている点はある意味で凄まじいの一言だ。
妹のよしみでなるべく気にしないようにしながら、皐月の胸元にそっと手を添えて、目を瞑る。
「キャパ越えないように、ね……? おまえが思ってる以上に、私の力は多くない」
「プレッシャーかけないでよ。じゃあ一応、迅! ——いくよー、献、盾、匡!」
覚悟を決める。
依月は強度十で自身の頭だけに『迅』をかけ、意識を加速する。止まったように感じるほど世界の流れは遅くなり、力の流れがより鮮明に把握できる。
思い出すのは、赤の修業の最初の一幕。
——空っぽの湯舟に、スポイトから少しずつ垂らすイメージ。
祠での試練により今となっては流れるように強度調整ができるようになったわけだが、あの頃は苦労したものだ。
丸太の試練の時よりは、スポイトの大きさはちょっとだけ大きくていいだろう。
依月は慎重に、皐月の身体に力を流し込む。
蛇口の水を試験管に注ぐような、奇妙な感覚がある。
妙に細長くて、見た目の割に容量が少ない感じだ。
依月の想像よりも遥かに早く、あっという間に器はいっぱいになる。
「あぶなっ!?」
漏れそうな直前すれすれで慌てて赤そのものを解除。あまりにもぎりぎりすぎて、勢い余って後ろに飛び跳ねて、瓦礫の角に頭をぶつけて悶絶する。
「……うっぷ」
依月がそーっと上を見あげると……皐月は顔を青くして、何かを吐きそうになっていた。
数秒必死にこらえて、光を一瞬だけ出力を跳ね上げる。
波が過ぎ去ってからぐったりと体を沈めると、依月にじと目を贈った。
「助けてくれてありがとう。……表面張力ぎりぎりまで注いでくれるなんて優しいじゃない」
「うっ……ほんとに思ったより全然入らなかったんだもん!」
「他人に言われるとむかつく」
弱々しくなっていた光は再び力強さを取り戻し、皐月に覇気が戻る。
傍でぶつぶつと解呪を並行して進めていた水墨ふたりに皐月は報告する。
「妹のお陰で十分くらい延長できました。いけますか」
「それくらいなら、なんとか」
花壊照は表情を綻ばせて握りこぶしをつくる。なんとなく依月もそのポーズを真似て、それから次にやるべきことを思い出した。
「で、さつ姉。わたし、ひとりで戦ってくる……んだよね?」
「お願いね。昭陽君は緑の維持。私と水墨は治療中だし。まぁ功月さんは……多分無理でしょ?」
「えー……。おじさんもだめなの? なんで?」
「ああ。すまないが、先の闢則で力を殆ど使い果たした。今行っても邪魔にしかならんだろう」
「ううー、そうなの?」
「あとすまない。敵の隊の中に呪いで操られている仲間が六人いる。同じ朝伏の一族だ。正気に戻してほしいとまでは言わないが、見かけたら捕らえてほしい。できればでいい。無理なら見逃してくれ」
「ええ!? それ大変じゃん! 助けてあげたいけど……見分けられるかな?」
「俺と同じような恰好で、覆面をしていない。呪いのせいで性格も荒々しく、すぐにわかるだろう」
「う、うん、がんばってみる!」
依月が廃墟から抜け出るのと、昭陽が結界を貼るのはほぼ同時だった。
立方体の緑の壁が廃墟を小さく囲むと、廃墟の姿が見えなくなる。
目を丸くしてそれを見届けると、頬をぺちんと叩いて、敵の密集している広場のほうへと走っていった。
すべては、祖母を助けるため。
思うことはあまりにも多いけれど。
余計な雑念は、今は側に立てかけておく。
●補足
『展』は光を追加消費して潜在値以上の力を発揮する言霊です。これは以前対依月戦にて登場しましたね。
『嚴』は『剛』の付随効果である"身体の剛性"を更に高める言霊です。『剛』とセットである必要があります。
『粛』も発動シーンは地味に初出ですが、存在自体は第五話にて言及されています。これは持久力を赤の光が肩代わりする、というもので、光が続く限りは疲れ知らずで動くことができます。
付随効果として身体の不調の感覚を軽減する(筋肉痛とか、関節痛とか、怪我の痛みなど)ことができるので、皐月は別に持久力を上げたかったのではなく、術を維持するためにやむを得ず使用した、ということです。
礎符四種のうち『粛』だけ作中でなかなか出ないのは、長期戦になる時とか、年老いた巫が戦う時とかくらいでないとあまり使われることがないからです。
『迅』と『粛』を組み合わせると、光が保つ限り無限爆速人間と化します。




