第十一話 その6
「……一体なにがあったので?」
嗣沼が帰ってきたとき、そこは惨憺たる有様だった。
駐車場は焦げつき、かつて人だった灰が風に流され、真っ暗になった雑草とともに空へと散ってゆく。
禍々しい気配があたりを覆い尽くし、黒い煙が滞留しているために視界を悪くしている。
爆心地の近くは特に酷かった。
真っ赤な血でアスファルトが染まり、その上に老人がぴくりとも動かず寝そべっている。
そばには虚ろな瞳をたたえた少女がしゃがみ込んでおり、出血のひどい右目部分を布の切れ端で必死に押さえ込んでいた。
「秦月さん」
嗣沼がそちらに駆け寄る。
彼の異能によって分かったことだが、秦月は瀕死ではあるが命の糸が細い線で辛うじて繋がっていた。
意識はない。だが口元に手を当てると微かに息はしている。
「依月ちゃん、皐月ちゃんはどこです?」
「……え?」
今気づいたかのように、のろのろと顔を上げる依月。たっぷり数秒かけて言葉を咀嚼し、わからないと首を振った。
「成程……水墨さん、上凪当主が呪いで蝕まれてるみたいです、診てあげてくださいな。僕は皐月ちゃんを探してきます」
「こ、これは……わかりました」
嗣沼の後ろにもう1人、見慣れない男性がいた。簡素な和服の上に白い狩衣を着た、顔立ちに特徴のない男である。
水墨と呼ばれたその男は驚愕と沈痛の表情を浮かべ秦月のもとへ駆け寄ると、何やら細長い白い布を何枚か、倒れた身体に巻きつけ、ぶつぶつと聞き取れない言葉を紡いでいく。
少しして、額から垂れる汗を拭いながら彼は言う。
「……恐ろしい規模の『設呪』です。何人もの命を掛け金に、術の威力を馬鹿みたいに底上げしている……。巫さんは呪術に高い抵抗持ってるからってことですかね……典型的な"張派"に少しだけ"巻派"のクセが混ざった呪術……だとすると、こんな感じで……」
彼が聞き取れない呟きを再開すると、白い布が少しずつ、泥水を吸い込むように黒く染まっていった。
まるで秦月から布へ、色移りしていくかのようだ。
「じーちゃん、助かるの?」
よくは分からないが、この光景は悪いものには感じられない。依月が縋るように水墨に問う。
水墨は難しい顔をしながら頷いた。
「任せてください。私はこれでも解呪専門。時間はかかりますが、助けてみせます」
そうは言いつつも、余裕がなさそうな表情で解呪に努めている。真っ暗に染まった布はその都度真新しい真っ白なものに取り替えて、延々と繰り返す。
少しずつ少しずつ、秦月の顔色は血色が戻ってくる。それを見届けて依月は僅かに肩の力を抜いた。
ほどなくして、皐月がぼろぼろの格好で嗣沼とともに戻ってきた。右肩を担がれていたが、着くや否や嗣沼と距離を取り、自分で立つ。
「……依月、じじーの具合は?」
「さつ姉! 大丈夫!?」
「吹き飛ばされて少し気を失ってたけど、なんとか」
「よかった……! じーちゃんは今気を失ってるの。この人に見てもらってる。助けられるって」
皐月は、衣服こそ焦げついてところどころにほつれが見られるものの、身体の方は特に大きな怪我はしていなさそうだ。
軽くあたりを見渡して状況を判断する皐月。
皐月は秦月のそばに無言で歩み寄ると、左手で彼の右目部分に手を添え、赤い光を纏わせた。
「匡」
優しい光。真っ赤なのに、見ているだけで安らぐような。そんな光を受けて、秦月の右目は出血を止める。また、呪いで貫かれた胸部分にも同様に左手を這わせ、傷を塞いでいく。
水墨は皐月の手を見て目を見開いた。
「上凪さん、それは……」
「……祖父の解呪に集中してください。こちらの術は傷しか癒せません」
「そっちじゃ……いえ、わかりました」
皐月の有無を言わさない雰囲気に呑まれ、水墨は頭を振って秦月のほうへ向き直る。
あらかた目立つ傷は治せたようで、秦月の呼吸も安定してきた。だが、苦しそうに歪む表情から、まだ中に悍ましいものが残っているのはわかる。これは水墨の頑張り次第だろう。
皐月は立ち上がって秦月の右目を見る。傷こそ治ったものの、眼窩は落ち窪んでいる——皐月は表情に出ないように気をつけながら、少しだけ瞑目した。
「さつ姉、わたしにできること、ある?」
動けなかった、何もできなかった。依月は悔しくて悲しくて涙が出そうだった。
祖母を助けたくてここまで来たのに。今度は祖父が目の前で死に瀕してしまった。
でも、今泣いてもなんにもならない。皐月のように、水墨のように、自分にできることをしたい。
そんな想いは皐月に伝わったようで、無表情ながらも左手で頭をぽんと押さえてきた。
「なら、苦しそうにしてるじじーの汗を拭いてあげて。——連中は私達を殺し損ねた。反撃に出なくてはいけない。おまえの出番は、そっちにお願いするから」
「……うん、わかった。こわいとか、闘いたくないなんて……言ってる場合じゃないよね」
背を向けて祖父のほうへ向かう依月。
皐月の目からは、妹がどんな心境なのか、よく見えなかった。
嗣沼が皐月の横に立つ。先ほどまでの態度はなりを潜め、随分と大人しく、真面目だ。
「動きは察知されているか、或いは予想されているか。いずれにせよ我々は罠にかかりました」
「そうですね。舐めていたのはこちらのようです」
「そうなると、本拠地のほうはもっとヤバいでしょうねぇ……」
「……」
「皐月ちゃん、ことは思ったよりも大きく、連中も本気のようです。しっかりと計略を練らねば」
「……癪ですが、同じことを考えてました」
「ふふ、光栄ですねぇ。一刻を争ってそうなので、貴女の状態については皆に黙っててあげます」
「……。総会へ、繋いでもらえますか」
*
「とりあえず、峠は越えたと見ていいでしょう」
「よかったぁ……! ありがとう、おじさん!」
「いえいえ。こちらこそ布の取り替えとか、色々手伝ってもらって助かりました。まだ終わってないので引き続き解呪を進めていきます」
「お願いします!」
水墨のもとで秦月の看護をしつつ作業手伝いをすること十数分。真っ黒な布が、隣に山の如く積まれていた。その甲斐あって、秦月の様子はかなり快復した。
表情は穏やかに、未だ意識は戻らないが、眠っているような状態だ。
依月も大きく息を吐き、ようやく小さな笑みを見せた。秦月にずっと頑張って、元気になってと声を掛続けていたので、少し声も掠れ気味だ。
その様子を見届けて、皐月が歩み寄る。
「依月」
「ん?」
「諸々準備ができたから、出発しよう」
「……じーちゃんは?」
「水墨さんと一緒に拠点に置いていく。そこで治療を続けてもらうつもり。こんな状態じゃ、どの道連れていくのは危険だしね」
「そっか……わかった」
依月は複雑な想いを抱きながら、しかしそれを外に出すことなく飲み込んで、頷いた。
準備はあっという間に整えられた。
皐月は必要最低限の荷物を確認し、依月は服装を整え、嗣沼は軽口を交えつつも車の準備を終えていた。
「水墨さん、後は任せます」
「はい。こちらで責任をもって治療を続けます」
「恩に着ます」
「……正直に言えば、かなり危ないところでした。あんな規模の呪術を食らって生きているのは、流石巫さんですね。あちらでもお気を付けを」
水墨が苦笑いしながらそう告げ、皐月が深く頭を下げる。
依月は最後にもう一度だけ祖父の顔を覗き込み、額にそっと手を触れた。
「じーちゃん、……わたし、行ってくる。ばーちゃん助けてくるから。頑張って」
掠れ声で囁く。返事はない。ただ呼吸がある。それだけが希望だった。
皐月が依月の肩を軽く叩く。
「行くよ」
「うん」
二人が車へと向かう。
遅れて嗣沼は運転席にひょいと飛び乗り、後部座席の依月に振り向いた。
「いやぁ、相当に修羅場ってきましたねぇ。依月ちゃん、覚悟はできてます?」
「……できてなくても、行かなきゃ」
強がり気味に吐いたその言葉に、皐月は横目で妹を見て、何も言わず窓の外に視線を戻した。
エンジンが唸りを上げる。
嗣沼が軽快にハンドルを回し、車は廃倉庫を後にした。
次の目的地は廃変電所。
嗣沼が確認したところ、すでに朝伏組が交戦中で、ずっと前から救援要請が届いていた。
彼らが踏み込む先は、さらに濃く。
さらに深い呪術の巣窟であることを、誰もが理解していた。