第十一話 その4
「直ぐにでも始めましょう。突撃で」
「じゃあ連絡しますねぇ。皐月ちゃん依月ちゃん、行ってらっしゃいませッ!」
「後で嗣沼さんも手伝ってくださいよ。丁度いい異能持ってるんだから」
「皐月ちゃんのためなら喜んでぇ」
「わしは屋上へ行く。事が終わり次第、式紙で合図を送れ」
「了解。依月、行こ」
「うん」
秦月は音を立てずに赤光を纏って跳ね上がる。それを見届け、皐月は依月を手招きして、塀の陰を滑るように移動し、足音一つ立てずに東側へ回り込む。依月も倣って、頑張って音を立てないようにそろそろと着いて行く。
「周囲に人の気配は?」
「んー、多分ない」
観察すると塀の上は錆びた有刺鉄線で覆われており、塀と合わせるとなかなかの高さだ。飛び越えてもいいが、高度的に目立ちやすい。離れに建物があり、その近くの塀には鉄門が設置されている。こちらは離れにより死角が多く、侵入経路としては悪くない。
皐月は鉄門に近づき、赤光を纏った指先で錆びた鉄門の鍵を引きちぎる。金属を千切ったとは思えないほどあまりにも静かな所業に、依月は顔が引き攣った。
「やば」
「おまえも簡単にできるでしょ」
そろりと門を開けて侵入する。中庭は雑草だらけだ。見渡しても、依月の言うとおり人気はない。
「入口は……あっちね」
壊れて扉が斜めに立てかけられた建物入口が正面左側に見える。しかし、木の板がみっちりと打ち付けられており、そのままだと素直には入れない。
横にある窓を見ると、1階部分は全て同様に木板で補強されており、そのまま忍び込むのは難しそうだ。
一方、上を見上げるとほとんどの窓が壊れており、遮蔽としての役割が放棄されている。
「成程ね。2階から行こっか」
「木の板、さっきみたいにこわして入らないの?」
「金属はともかく、木材は音を立てずにとなるとちょっと面倒。緑の結界がいるから目立つのよ」
「そうなんだ……わかったー」
皐月が静かに赤を纏って2階の窓に跳び、窓枠に足を掛けて着地する。そのままくるりと振り返り、依月に手を伸ばした。
依月も追従して赤光をその身に灯らせ、皐月の方に向かってジャンプする。その手を掴み、ぶら下がる。
そのままひょいと持ち上げて依月を先に2階の床へと下ろし、皐月も室内に入った。
侵入した場所は倉庫の中2階のようで、隔てもない巨大な一部屋となっている倉庫の1階部分が一望できる。中2階は倉庫の壁面をぐるっと囲うようにロの字状に取り付けられた金属の足場だ。
中は、埃と油の匂い。下は大きな空の木箱がいくつも堆く積まれている。天井のファンは止まり、微かな風だけが通っていた。
軽く見ただけでは、人がいるかどうかは分からない。
皐月が手振りで示しつつ、しゃがんで移動。指先で床の粉じんを撫でた。
薄く、靴跡が残っている。大人の男のサイズが三、四。方向は北へ。痕跡はそこまで古くない。
「……人はいるようね。慎重に」
「うん」
依月は隠密行動の経験はないが、持ち前の運動神経で器用に歩を進めていた。そのうち、ようやくこの衣装の真髄に気づく。
——服から全く音がしない。無音の間の出来事を思い出させる。
皐月の方を眺めると、なんとなくしっかり見ていないと存在を感知できなくなっていくかのような、不思議な感覚に襲われた。
もしかして、自分もそうなのだろうか?
足跡の名残を辿って、ふたりはゆっくりと北へと進む。今のところ人の気配はない。
2階の東側通路、北端まで進んだ頃皐月が指先だけを上げる。車の中で決めた、止まれ、の合図。
依月は膝を落とし、息を細くする。耳を澄ませても、人の気配は拾えない。——代わりに、たまたま見つけた生きた風と虫の声に、意識を沈めてみた。
天井の梁に張られた蜘蛛の巣が、右から左へ揺れた。窓を通り抜けた風の筋が、不自然に折れている。誰かがこの近くの階段を上がり、空気を押したのだろう。風はぶつかって不機嫌そうだ。
依月が慌てて皐月に身振りで階段から人が来ることを伝えた。皐月が頷き、視線だけで進路を示す。北側通路の角、太い柱の影へ。
猫のように曲がった背で走り、中二階の鉄路を渡る。足裏の感触だけで板の緩みを避け、古いボルトを踏まないように。依月は皐月の通った足跡を一生懸命追従する。
角を曲がる前に、皐月が腰から小石を一つ取り出し、指で弾いた。小さな音が、ふたりの反対側の箱の隙間でころりと転がる。
階段を登りきり、顔を覗かせそうになっていた男はそちらに注意を向けながら2階へと到着した。
その隙をついて、ふたりは影に滑り込む。
「あん?」
「どうした?」
その後ろにももう1人の男。どちらも特徴のない格好で、ややがらの悪い一般人と言われても差し支えないありふれた見た目をしていた。
「なんでもねぇ。小石でも蹴っちまった」
「そんなことで声をあげるなよ……」
男たちは影に潜んだ姉妹に気づかず、南側へと歩いていく。
「あー、なんだってこんなしょうもねえ巡回なんかしなきゃならんのか……こんなとこに入ってくる奴なんかいねーだろ」
「気持ちは死ぬほど分かるが、上が大事な作戦中だから仕方ないだろ?」
「マジレスなんか求めてねーよ」
皐月が目を細める。依月にその場で待機の指示をして、男たちのぴったり後ろを尾けていく。
「でも聞いたかよ? 例の作戦は成功したらしいぜ」
「ああ。上手くいけば"対抗主義"の連中を黙らせられる……大事な一歩だ」
皐月は半ば確信に近いものを感じ、すこし逡巡する。数秒ほど悩んでから、今は核心的な情報は得られなさそうと判断し、依月のもとへと素早く戻った。
ふたりは小声で会話をする。
「……御婆様はここにはいなさそうね」
「え、いないの?」
「連中の発言が伝聞調だし、他人事すぎる。ここに人質がいる時の台詞じゃない」
「そんなんでわかるもんなんだー……もうちょっとちゃんと聞いたほうがよかったんじゃないの?」
「リスクが高いし、どうせ後で搾り取れる。……どう見ても下っ端の構成員だし大した話は聞けないだろうけど。一応、2階をささっと一周しながら下も見て、他に部屋があればそこも見て、何もなければ撤収ね。さっきみたいに、常に『世界の声』を繋げといて、なんでもいいから人の気配っぽそうなのは教えて」
「わかったー」
東側の通路を折れ、北側通路へ。
——北側の中央には管理室があるようだった。壊れた扉の残骸から差し込む光。
鍵がかかっており、ノブは回らない。皐月が赤を指先ほど纏い、内部のラッチだけを歪ませて音もなく開けた。
中は小さな机と、座布団が二枚。机には紙コップ、使い捨てカイロの袋、タバコの吸い殻と安い香水が適当に置かれている。
依月は鼻を皺寄せ、肩をすくめた。
「……なんか、やなにおい」
「ここは休憩室ね」
机の下に、菓子の袋。床の埃には、座った人間の膝の跡が新しい。長居はしていない。
通路側からきしみ。二人分の足音がやってくる気配。皐月は顔も上げず、指で床をさす。机と壁の隙間、四十センチほど。
依月はそこに滑り込む。皐月が続き、静寂を纏う。
皐月は刀を構えて、臨戦体制を取った。
すぐに扉の向こうを影が横切り、覗きこむような気配が一拍。息を止める。
依月の心臓がばくばくと鳴っていた。
——この音で、ばれるのではないだろうか?
足音は過ぎた。階段を降りるような音がする。
視線で会話。——次。
机から飛び出し、部屋を出て、西側の通路へ。
1階の工場フロアは、箱の迷路だ。もし木の板を剥いで下から侵入していたら、捜索効率が悪く辟易していただろう。俯瞰して観察できる中2階は理想的だ。
東、北、西と回ってきたが、見た感じ1階部分は全てが大広間になっていて、他に部屋らしい部屋は確認できない。1階部分にも、よく見ると何人か巡回している。
2階は北に確認済みの一部屋。南側にも扉が一つ。そちらに急いで向かう。
南の扉——錆びたプレートに「電源」と手書き。ガラス越しに中はブレーカーと古い配線が見える。
皐月がドアを開く。
埃が舞い、小さな窓が照らす箇所で乱反射し、分厚い光線を落としている。
非常に狭い部屋で、薄暗い。
ドアが開いたことで、右奥からぎょっとした気配が返ってきた。
そちらを見やると、男がこちらに振り向き、驚いているところだった。見られたことで、依月は息を呑んだ。
皐月は間髪入れずそちらに肉薄する。
「お前ら、なん——げふッ」
喉を中指と人差し指をやや突き出した拳で殴りつけ、叫ばれる前に発声を潰す。
衝撃と耐え難い痛みで蹲ったところを、回し蹴りのように開脚して、突き出された頭を踵落としした。
一瞬で意識を刈り取られる男。崩れ落ちる前に腕で支え、音を立てないように静かに床に寝かせる。
「びっくりした……こ、この人殺しちゃったの?」
「まさか、気絶させただけ。どうもサボってたみたいね」
日差しの当たらない側の小窓のそばに、ライターとタバコの箱が置いてあるのを見て皐月が言う。
依月は納得しつつも、皐月の素早すぎる対応に困惑していた。
「さつ姉、巫の力なくてもこんなことできるんだ」
「昔からこういうのは慣れてる」
「へぇ……」
依月は使命感と緊張感でなんとか状況に食らいついているが、皐月はどうも常に冷静で、手慣れている感がずっとする。どんな日常だったのだろうか? 今更ながら思う依月。
特に何も無い部屋なのでさっさと出て、ドアを元通り閉める。
「さて、ここも外れとなると……“居るならここ”は全部潰したことになる」
「だね」
中庭側へ戻る動線を探る途中で、二階の窓から外の茂みが見えた。風が低く走る。
『世界の声』に耳を傾け、依月は目を細める。草の穂先の揺れ方が、敷地の中央へ吸い込まれている。自然な風が流れると、様々な声がする。
北へ指差し、皐月に報告。
「んー……外、あっちに四人いる」
「屋内はさっき気絶させた奴込みで九ね。合計で十三か。上凪に対して動きを起こすには余りにも舐めた数すぎる。……やっぱりここではないか」
「うー、ばーちゃんどこにいるの……」
少々悩み、やがて決めた顔をする。
「はぁ、じじーに結界張ってもらおう。合図送ったら出るよ」
「うん」
東側の通路に戻る。皐月が懐から細長い短冊を取り出して、青い光を纏わせて窓の外に放る。短冊は光を吸収して、屋上へとひらひらと登っていった。
そのまま、ふたりとも窓から飛び降り、鍵の壊れた鉄門から建物外へと逃げていく。
塀の外に出た途端。
「七六式:月霜陣!」
屋上にいた秦月から膨大な緑光が迸り、塀まで含めた建物全域を覆っていく。ずっと『世界の声』に接続したままだった依月は、庭の雑草が苦悶の声を上げた末、一息に眠りについたように声が全くしなくなるのを知覚した。
補足
Q.ひと息に秦月が緑の結界を貼らないのは何故?
A.シンプルに祖母が中にいる可能性が高いためです。月霜陣は指定範囲の生命の量によって消費量が増減し、また掛けた相手にかなりの苦痛を伴う術ゆえ、気軽に使うのを良しとできません。
Q.皐月が構成員を全員制圧しないのは何故?
A.正確にどこに何人いるか分からないためです。祖母がいる場合、バレた時に危険が伴います。
Q.巫参色を使えば便利そうだけど?
A.ぴかぴか目立って隠密に向いてないんですよ巫の力って…どうでもいい情報ですが、皐月は総会からの依頼で潜入任務、隠密任務には割と慣れてます。一方秦月は全く経験がないので、早々に皐月に任せることにしました。
斎庭常世祓の青い波紋は、倉庫を指定範囲外にしていること、また日中の明るさだと殆ど分かりにくいことで構成員から気づかれませんでした、という設定です。