第九話 その1
第九話
眩しさに目を細め、再び視界が戻ると、依月はもう白い空間にはいなかった。
そこは一面、暗灰色の荒野だった。
アスファルトのような地面はひび割れ、褪せた空には雲ひとつなく、ただただ乾いた風が吹いている。
ひたすら遠くまで平たく続く地面の上に、ぽつんと少女だけが立っていた。
「ここは?」
まるで終わった世界のような——ぼんやりとそう思ったときだった。
依月の近くの地面に、何か黒いものがぼとりと空から落ちてきた。
影だった。
人の形をしているが、目も口もなく、顔の輪郭すら曖昧な、黒いなにか。
それは無音のまま立ち上がると、依月に向かって躊躇なく殴りかかってきた。
「っ……!」
依月はとっさに身を引き、かろうじて避ける。
緩慢で大げさな動作だったのでなんとか反応できたが、突然のことに心臓がばくばく鳴った。
ゆらりと身体を崩しながら拳を振り抜いて、影はゆっくりとこちらに向き直ってくる。
『世界の声』が使えないし、表情も読めないから、相手が何を考えているのか全く分からない。
ゆらりと殴り掛かってきて、それを躱すというやりとりが何度か続く。
何か進展があるわけでもなく、埒が明かない。
「たたかえ……ってこと?」
依月はようやくその可能性に思い至り、「剛」と呟いて自身の身体の一部を強化を試みる。
無事、依月の身体が赤光に包まれた。この世界に来てから初めて許された、赤の発現だ。
「ていっ」
振りかぶってきた影の腕を右に避けて、隙だらけの脇腹を正拳突きする。
手応えもなく拳はずぶりと埋まるが、風圧で黒い影は霧のように崩れ、儚く散っていった。
「……弱くない?」
そうつぶやいた瞬間、次々と影が現れた。
一体、二体、三体——数は加速度的に増えていく。
「えっ、ちょ、ちょっと、待って、なにこの数!?」
一斉に影が依月へと迫ってくる。
夥しい真っ黒なシルエットがこちらに向かってくる悍ましい光景に、ひゅっと息を呑む。
少し硬直してしまい、先手を向こうに譲る形で闘いが始まった。
依月は赤の力で肉体を強化し、近い敵から応戦していく。
敵の攻撃は単調だが、動きは素早く、数が多い。次第に立ち回りの余裕が削られていく。
痛いのが嫌なので大げさに避けて、避けた先でまた敵の攻撃を受けそうになる。それが繰り返される。
倒したら増える。
倒さなくてもさらに増える。
すぐに『剛』のみでは対抗できなくなり、高威力で『迅』も発動。雷光のような速度で敵を屠っていく。
それでも、対処が追い付かない。
(やば……ぜんぜん、終わる気がしない)
そして、嫌な予感は的中する。
いくら倒しても、終わらない。むしろ敵は、こちらの戦い方に徐々に対応してくるようだった。
どんどん硬くなって拳一発では消えなくなり。動きが洗練され、武器のようなものを持った影も現れ始める。
……一体一体の質が、明らかに上がっていった。
「うへぇ。これ……ずっとやるの?」
拳の握りを強めながら、依月はようやくこの場の“ルール”を悟った。
*
相変わらず、この世界では時間感覚が曖昧だ。
変わり映えのない景色、特殊すぎる景色、繰り返される景色。そこで過ごしていると、人間はどうやら時間というものに興味が失せていくようだ。
さて、ここでの闘いが始まって、どれだけ経ったのか。やはりこれまで同様、疲れもしないし、息も切れない。巫参色に至っては元から多すぎるせいもあり、消耗してるのかすら分からない。
依月は親指の欠けた右手で4発影を殴りつけてようやく消し去り、右から迫っていた影をギリギリで後ろに下がって躱し、左の拳を全力で叩き込む。
もはや両手で対処も間に合わなくなり、依月は皐月に止められていた両脚への『剛』の適用も行なっている。前みたいに地面が凹むことがないので、この世界では問題ないのだ。
最初こそ踏み込みすぎて変なほうに吹き飛んだり、高すぎる跳躍もしたりしたものだが、影を数千体相手取るうちに、だんだんコツがわかってきた。
『剛』の強度指定も、今や四くらいの力で闘っている。現実の世界ではとてもではないが取り回せない凄まじいパワーだ。
それでも、影を倒すのに4発も必要だった。
長い戦いの中で、依月の動きがどんどん最適化されていく。大げさに動いていた避けの動きは最小限に、複数を相手取るためにそれぞれの両手両脚は別の敵を狙い、隙を生まないように大振りの攻撃は避けつつ、代わりに赤の強さと手数を意識するようになった。
これで、ぎりぎりだ。
依月は、右手の親指と左耳が、黒い影に飲まれて欠けていた。敵の攻撃が掠った結果だった。
見ると、元々指がついていた付け根のところは影に覆われており、そこから先の感覚がない。
でも、気にしている余裕もなかった。
ほんの少し余所見をしているだけで、隙をついたように影の腕があちこちから伸びてくるから。
「あっぶな…っ!」
少しでも気が散ると、怒涛の影の奔流に飲まれ、全身がこうなってしまうだろう。
『迅』で意識を超加速していなければ。『剛』で高威力の攻撃を放てていなければ。
今ほど巫参色に感謝することはなかった。
そして、依月が一番手を焼いているとある存在が、しばらく前から出現するようになっていた。
目下、依月にとってこれが一番の悩みだ。
「げぇ!?」
依月の視界が暗くなり頭上を見上げると、あたり一帯を踏み潰さんとばかりに巨大な「影の足」が落ちてくる。依月は『迅』の加速に任せて全速力でその場から脱する。
着地点に埋め尽くさんと立っている影を、地面を殴りつけた衝撃で吹き飛ばし、一瞬だけ周囲の安全を確保する。
「ほんと、あれどうしよう……?」
途方に暮れる依月。視線の先にはあまりにも巨大な脚が、膝から下だけ姿を見せて地面に刺さっていた。
まったく目算が効かないが、踏みつけを避けるために依月は200メートルは移動した。
……つまり、そういうことだ。
膝から下だけの"影巨人"を一度殴ってみたことがある。が、影に埋まるだけで本当に効いているのかすら分からない。今のところは厄介すぎて逃げの一手だ。
チラ見だけして、周囲の影への対処に集中する。
「っまた……硬く……!」
4発から、5発へ。依月はさらなる手数、あるいは強化の必要に迫られた。
——戦鬼の間。
終生祟り神と闘うことを強いられる巫にとって、戦い続けるということは日常の話。
ここは精神修行の間。従って、必要なのは実力ではない。
試練は、倒すことを求めてはいなかった。
飲み込まれず、見極め続けることを、求めていたのだ。
さもなければ、その身が削りきれるまで永遠に、戦い続けることになるだろう。