第八話 その4
「わたし、きみにむかついてる!」
「急になに!?」
自分とは思えないほどの高圧的な態度。とはいえ台詞に若干抜けたような印象があるのはいかにも依月らしい。
向こうの自分はきっと睨みつけるように依月へ語りかけてくる。
「きみさ、流されすぎだから!」
「うっ!?」
「自分がなんでここにいるのかとか、なんで急に巫の力を取り戻すことになったのか、とか、大事なことちゃんと聞いてないじゃん! わからないことだらけのくせに、ただ楽だから流されて!」
「き、聞いたじゃん! じーちゃんは答えてくれなかったけど!」
「あんな簡単にあきらめるのは、聞いたうちに入らないから!! 大切なことなら食い下がってよ!」
ぎゃんぎゃん吠える鏡越しの自分。
普段自分でも薄っすら思っていることを自分から指摘されるという状況に、依月は胸を押さえて前屈みになった。
「はぁ、昔からそうだよね!楽なほうに流れちゃうの。受験勉強めんどうだからって努力せずに入れる遠くにしたし、高校入っても勉強はてきとーに部活も入らず、友達とお出かけばっか」
「そ、それは……」
事実だ。依月にとって、楽で楽しいが最優先されてきたのは、自分でも誤魔化せない人生の足跡。
「それは……そうだけどさ……」
苦し紛れに返す声はか細く、自己弁護というより、ただ言い訳にすらならない肯定の言葉だった。
鏡の中の怒れる依月は、鼻で笑うように肩をすくめた。
「“それはそうだけど”で済ませるの、やめたら?」
依月は言葉を失う。
目を逸らそうとする自分に、鏡の中の彼女はじりじりと近づいてくる。
その視線は鋭く、でもどこか、涙を堪えているような瞳でもあった。
「6歳の時に記憶と力を抜かれてから、きみはずっと"ぬけがら"だった。なにしても夢中になれないし、本気でがんばることができないのは、そのせい」
「ぬけがら……そうなの?」
「自分の体の中にあった一番大事な柱が無くなったからね。だからこれまでのきみのことはしかたないって思ってる。けど」
「……」
「今のきみには、その柱、戻ってる。言いたいこと、分かるでしょ?」
依月は渋々、胸に手を当てて静かに吐露する。
「なんというか、ぽっかりしてた心の中が埋まったような感じはあります……」
「なんで敬語。……選ばないって、すごく楽。周りの人に決めてもらって、それに従って、知らないふりして、やることだけやって……」
次第に語気は弱まっていく。
「でもね、”わたし”は……ずっとそれ、悔しかったんだよ」
怒っていたはずの鏡の依月が、ふと目元を緩めた。
握りしめた拳が、震えていた。
「早く、どこかでちゃんと知らなきゃなんだ。わたしのこと、巫のこと、やらなきゃいけないこと……」
依月は、ようやく顔を上げて鏡を見た。
その向こうにいる依月は、"怒っていた"のではなく——ずっと、“置いていかれた”ままだった。
自分の無関心さと逃避によって、心のどこかに閉じ込められたまま、泣いていた。
「……ごめん」
依月はぽつりと呟いた。
それは、鏡の中の自分に対しての謝罪であり、過去の選ばなかった自分への慰めでもあった。
苦しそうに、言葉を続ける。
「舞をやってたときさ、何回もうてきとーでいいやって思ったかわからない。さつ姉の説明も意味わかんないし、自分で見ても下手っぴだし。皆の前で踊るってことがなかったら、投げ出してたかもね」
「そうだね」
「でも、がんばれた」
「……」
「がんばって、最後、皆から拍手と笑顔をもらってさ。自分でもできるんだ、って嬉しかったよね」
「……そうだね」
「それを他のことでも同じようにがんばろうってことだよね。大事なことを、まずはちゃんと知ってさ」
「……分かってるなら、やろうよ」
自分からの指摘に、ばつが悪そうに依月はうなずいた。
でも、依月のなかで、怒られた内容に対して一つ言い訳を思いついた。
思いついたというか、そういえば……と思い出したのだが。
「なんで大事なことをちゃんと聞かないってきみに怒られたけど……じーちゃんの顔見たら、聞けなかったんだよ。わからない?」
「どういうこと?」
「だってじーちゃん、ものすごい後悔してる」
「……!」
「わたしに力が戻って欲しくない。でも、ほんとうにほんとうにしかたないからやってるみたいな……」
秦月の思いつめたような顔、申し訳なさそうな顔。
巫の話をするたびに、たまに顔を出すその表情たちは、依月の口を、止め得るものだ。
だが、だからこそ。依月は自分に説教されて、こう思った。
「なにか、もっと聞かなきゃいけないことがある気がする。……だから戻ったら、がんばって聞いてみるね」
「……ならいいけど。流されないよう、気をつけてよ!」
その瞬間、鏡の中の世界がふっと風に揺れた。
嵐のようだった背景が静かになり、青い空のような色彩が差し込む。
鏡にはもう、誰も映っていなかった。そこには、ただ依月自身が立っているだけだった。
そして、鏡は音もなく、ひとひら、またひとひらと、砂のように崩れて消えていった。
残されたのは、まっすぐ続く一本の道。
どこまでも細くて不安定な道。
でも、依月の足は、前を向いていた。
しばらく走ったのち、また一つ姿見が出現する。
「げぇ、もういいよ!」
先程のやりとりで神妙な気持ち、凹んだテンションになっていた依月は悲鳴を上げる。
一体今度はなにを「自分」から言われるのか。
一番言われたくないことを先程ずけずけと言われたばかりなので、これ以上の説教は勘弁だった。
しかし、鏡に映っていたのは。
「さっきぶりだね」
「あれ……あの時のちっちゃいわたし」
今の依月ではなく、分岐した道の手前で出会った幼少期の依月だった。少しだけ微笑んで、手をひらひらと振っている。
「ほんとうはここには『悲しみのあなた』がいたんだけど、あなたにはいみがないから、かわってもらったの」
「悲しみ……代わってもらったってどういうこと?」
「怯え、怒り、悲しみ……こころがあかるいあなたには、どれもにあわない。とくに、悲しみはいちばんいらないよ」
「??」
「悲しみであかるさがなくなるより、しらないであかるいほうが、こころはつよい。あ、そうだ。ここをこえたらこのせかいはおわりだよ」
「え、ほんとに!?」
「ほんとう。わたしは、くらいみちをすすむあなたを、おうえんしにきたの」
寝ぼけたような眼で、向こうの幼い自分はこちらを見つめてくる。
何を考えているのか、感情の機微に鋭い依月でもまるで分からなかった。
「あなたのなかには、すでに『青』がもどってる。せかいのさいごで、それをつかってとびこえてね」
「……それを使って?」
依月は自分の手から微かに青の光を滲ませて、それを見た。
確かに、ずっとこの世界にいるうちに、魂の奥で脈打つ何かが育っていた。それは確かに青い色をしている。
けれど、それが何なのか、どうすれば“使える”のか、まだはっきりとはわからない。
「飛びこえてって……どこに?」
そう問いかけると、幼い依月はきょとんとした顔をした。
「わからない。だけど、あなたがすすまなきゃ、だれもすすまない」
それは、まるで幼い子がそのまま神さまの声を代弁しているような、不思議な響きを持った言葉だった。
無垢で、無責任で、でもどこか真理に近い。
「でもね、あなたがすすむと、わたしもすすむの」
「……え?」
依月が聞き返すと、幼い依月は小さく微笑んで言った。
「わたしは、ずっとまえにおいていかれたから。あなたがすすまないと、ここからでられない」
「……それって……」
「だからね、いってらっしゃい」
言い終わると同時に、幼い依月はすっと光に溶けるように消えていった。
その瞬間、世界が一転する。
——視界が、白に染まった。
足元に残っていた一本の道が僅かな足元だけ残して前後が途絶え、周囲には何もない虚無の空間がぽっかりと開いていた。
前方、遥か遠くに、淡くきらめく一筋の“出口”のようなものが見える。だがそこへ続く足場は、どこにもない。
依月は、息をのむ。
(ここを……“とびこえる”ってこと?)
幼い自分が言っていた言葉が思い出される。
風も音もなく、ただ真っ白な空間。
背後に目をやれば、いままで走ってきた混沌の道が、ずっとずっと遠くに見えた。きらめく鏡の破片たち、記憶の残骸、数多の自分自身たち。
依月は、深く息を吸った。
胸の中にある、あの青い力を信じて——今度は“選ぶ”ために、足を踏み出す。
「いくよ……!」
そう言って、虚空へと跳び出す。
瞬間、掌から青い光が咲いた。
それはまるで、織り糸のように空中に糸を紡ぎ出す。
自らの意思で紡ぐ、道なき道。
青の力——闢則の発現の兆しだった。
足元に広がる青の糸の橋を、一歩、また一歩と駆け抜けていく。
出口に向かって最後の一歩を踏み出した瞬間、光が爆ぜた。
鏡の向こうの自分は、100%完全に”自分”というわけではありません。