第八話 その3
しばらく暗闇が続いた。
やはり道を誤ったのか、誤ったとしてどれくらい走り続けたらいいのか、もしかして早く落ちてしまったほうがいいのか……そんな疑心暗鬼に陥っていく。
ここまで稼いだ距離がもったいない、それだけの理由でなんとなく走り続けている。
映像も声もなく、後ろが崩れながらただただ暗い中に細い地面が奥に伸びているだけ。
「つまんないなあ」
同じ景色が続くせいで時間感覚が曖昧だ。暇なので鼻歌を歌っているが、それを頼りにするならば既に十分は経過しただろうか。
……そういえば、前回の音のしない世界で何年も何年も過ごした気がするが、外のほうはどうなったんだろうか? 情報過多な前半では視界が忙しすぎて気が回らなかったが、依月はふと不安になった。
自分がここから出たときには、何年も経ってしまっているのかもしれない。
でも、自分の姿は洞窟に入った時そのままだ。
……場合によっては心が弱りそうなので、今はなるべく考えないようにする。
それからずっと走り続け、やがて何も考えずにぼーっと無の境地で体を動かせるようになってきたところで、突如として暗闇は終わりを迎えた。
「わっ!? ……鏡?」
目の前にいきなり、背丈の倍はあろうかという大きな姿見が、道を塞ぐようなかたちで出現した。
依月は急ブレーキをかける。
地面の崩落に巻き込まれると思って慌てるが、依月が振り向くと崩壊の進行はぴたと止まっているようだった。ほっと胸をなでおろす。
久しぶりに足を止めたことで停止した視界にすごい違和感を感じながら、依月は姿見を見やる。
そこには、不安そうに涙目で縮こまっている自分がいた。
鏡の向こうの世界は暗く渦巻いて、鏡映しの少女の不安を体現しているかのようだ。
鏡を見ながら自分の顔をぺたぺた触る。鏡の向こうの自分も同じように動くが、表情や雰囲気はまるで違うように感じる。不安は不安だが、ここまでは怯えてない……はず。
ふいに、鏡のほうに映る少女は上目遣いで、依月へと話しかけてきた。
「わたしがふみだすたび、世界は傷つく」
「!」
自分と全く違う動きをした鏡の向こうの自分。半ば予感はしていたものの、依月はわずかばかりびっくりして目を丸くする。
たどたどしく語り始めた向こうの自分は、目を合わせると怯えたように俯いた。
「……わたしの力は、ちょっとでも間違ったら世界なんて簡単に壊れるの」
「……」
「わかるでしょ? わたしの中に渦巻いている、力のすごさ」
「……たぶん」
弱さが伝播するように。依月は目を伏せて静かにうなずいた。
舞を終えて以降ずっと、少女の中で止め処なく胎動する、まるで火山のような光の渦。
髪留めにした珠4つと、修行を経て成長した依月の”慣れ”により、それはある程度抑えられている。
「わたしはむかしその力で、人からずっと怖がられてた」
「怖がられてた?」
「だから、人間の友達なんていなかったんだよ。小学生になるまでね……」
「……」
本当の話かはわからない。
けれど、自分の知らない自分の話だ。依月は耳を傾ける。
「そんな力、捨てちゃったほうがいいよ。おじい様やおねえ様の言うことなんか、無視してさ」
「おじい様おねえ様て」
「わたしは、普通の人生を送るほうが幸せだよ」
体をかき抱くように、修行着の袖をぎゅっと握りしめて、向こうの自分は言う。
それに対し依月は、正直な想いを吐露する。
「……うーん、力は正直いらないけどさ」
「……」
「でも、うれしいんだ」
「うれしい?」
おどおどと、でも不思議そうに聞き返してくる。
依月はうなずいた。
「だって、ずうっとなんか忘れてるような感じがしてたじゃんか。それがなにか、ようやく分かってさ」
「……忘れてたほうが、よくない?」
「よくないよ。わたしもちゃんと上凪家のひとりなんだって、胸を張れないもん」
「……」
「まだ何にも思い出せてないけど……この力のことを忘れてたとき、わたしはみんなに守られてたんだ」
「……」
「わたしも、みんなを守りたいよ。そう思わない?」
鏡の中の依月が、小さく目を見開いた。
その瞳には、ほんの僅かに驚きと、なにか古い懐かしさのようなものが揺れていた。
「たしかに……この力は正直怖いよ。今でもちょっとあふれそうになるし、使い方もよくわかんないし、なにかを壊しちゃうかもしれない」
依月は、ぎゅっと自分の胸元を掴んだ。
胸の奥で、光のような何かが蠢いているのがわかる。未だ輪郭を定めない、“自分に宿る何か”。
「でもね、怖いから……ちゃんと知りたいの。わたしの力のこと、わたしのこと」
そう言うと、鏡の中の依月は少しだけ表情を変えた。
まるで、泣きたいのを我慢しているような、でもどこか安心したような——そんな顔だった。
「それに、あのね」
依月は小さく笑った。
「さつ姉がいて、じーちゃんがいて、ばーちゃんがいて、町の人がいて……変わってなかったよ。力が戻っても、今のわたしは、今のわたし」
鏡の向こうの依月は、黙って話を聞いていた。
怯えていた手は、いつの間にか胸元で組まれていて、その指先には、ほんの少し力がこもっていた。
「ばーちゃんが言ってた。力はどう使いたいか次第だって。だったら、わたしはみんなを守るために使うんだ。そしたら、きっとだれも怖くない」
依月は一歩、鏡に近づく。
鏡の中の自分も、一歩、同じように近づく。
「今のわたしは、君のいうわたしと違う。……違うって、言いたい」
そして、ふっと息を吐いて。
鏡に手を伸ばした。
青い光が、指先から溢れ出す。
水面のように揺れた鏡が、ひとひら、ふたひらとひび割れていく。
「だから……ありがとう! わたしのこと、代わりに心配してくれて」
依月が手を添えると、鏡はぱりん、と優しく砕けた。
粉々になったガラスは空中に舞い、青い光に飲み込まれて消えていく。向こうの自分は、儚く微笑んで光に包まれていった。
それは自分の中にわだかまっていた想い——言葉にならなかった感情が、初めて外に出た瞬間だった。
……奥に続く道が、再び露わになる。
完全に消えゆくまで見守りたいが、後ろから不穏な音がするので、仕方なく依月は感慨を抱えたまま前へと走るのだった。
少し走ったところで、また新たに姿見が現れた。
「またぁ!?」
いい感じに突破できたのに。
もし同じ内容だとしたら嫌すぎる。同じようなセリフをもう吐きたくない。言わされてる感が出て想いが曇るから。
立ち止まりつつげんなりと鏡を見ると、今度はどうやら不機嫌そうな自分が立っている。
自分の後ろの風景は激しく波立っていて、嵐の海のように荒々しい。
依月と目が合うなり、向こうの自分は腰に手を当ててこう言った。
「わたし、きみにむかついてる!」