第八話 その1
第八話
無音の世界から抜け出した依月は、ぐちゃぐちゃになった混沌の世界をひた走っていた。
足元の細い地面の道を残し、周囲は色んな色、景色が入り混じった空間が現れては消えている。
少女はなぜ走っているのか? 答えは簡単。
後方の道がどんどん崩れているからだ。
「音が聞こえるようになったのはうれしいけどさーっ!!」
依月が振り返ると、そこにあったのはどんどん迫ってくる世界の崩壊。地面と空間がひび割れて、ぼろぼろと下へ崩れ落ちている。崩れ落ちた先は真っ黒に塗りつぶされていて、よくわからない。
こちらの空間に来てゆっくり観察する間もなく、嫌な予感に駆られた依月が即座に前方に駆けだして以来、それからずっとこうだ。
依月が運動神経抜群であることは関係なく、いくら走り続けても身体は疲れない。赤の『迅』で加速も考えたが、この空間では使えないようだった。
落ちたらどうなるんだろうか? 皐月は死ぬようなことはないと言っていたが……あまり試したいものではない。
視界を前方に戻して、狭い地面の続く先を見る。遥か遠くまで糸のような細い道がただ一本、混沌の渦の中で続いている。
どこまで行けばゴールになるのか、皆目見当がつかない。
また虚無の繰り返しが延々と続くのか、と依月はげんなりする。
だが、心が枯れることはなさそうだ。
何故なら、ここはあまりに情報過多だ。
両脇には風景とも呼べぬ景色と声が、ぶわぶわと浮かんでは消えていた。
それは過去、未来、記憶、幻影、あるいは誰かの夢。時に真っ赤に燃え、時に墨を流したように暗く沈み、時に異様なほど鮮やかだった。
ちらと既視感に囚われて左奥を見ると、中学生の頃の一貫校での日常の景色がよぎる。
少ないが暖かい友人に囲まれて、運動会の時の記念撮影をしている最中のシーンだった。
皆が笑って、カメラに向かってピースをしている。
「わ、懐かしー!」
よく覚えている。中学2年の秋、4組に分けた男女混合のリレー走で、依月はアンカーを任されていた。
接戦の末最下位だった自分たちのチームを、見事優勝に輝かせたのは他ならぬ依月の走りだった。
これはそんな依月の頑張りを祝って、皆で記念している場面。
友達に言われた言葉は全部一字一句違わず覚えていたし、流れる映像も依月の記憶通りだ。
崩壊が迫っているので立ち止まれないが、せめて追い越して見えなくなるまでその光景をずっと視界に収めていた。
不気味な世界のことを一時忘れ、心に暖かさが広がる。
だが依月と景色の位置が重なった時。
『あたし知ってるんだから! 依月ちゃん人間じゃないって! バケモノなんかに勝てるわけないでしょ!』
「えっ……!?」
聞き覚えのない暴言。しかしその声には覚えがある。
それは、当時依月と一番仲が良かった友人の声だ。
聞き間違いか、と一瞬思った。だって、その時の彼女の台詞はこうだったから。
——やっぱ負けたー! ねね、依月ちゃんの足なら、全国大会行けちゃうんじゃない!?——
混乱で一瞬だけ呆けたが、後背部からする崩壊音にはっとなり、意識を現実に戻す。
それからというもの、矢継ぎ早にさまざまな光景が依月のもとで流れ出した。
どれも馴染み深い光景。本物もあるが、一部で台詞に悪意にまみれたものが混ざっている。
楽しかった記憶も、苦しかった記憶も、嘘のように再構成され、依月の存在価値を否定してくるように。
『あんたなんていなければよかった』
小学生の頃、依月とふたりで秘密基地をつくった、とある女の子の言葉。
『あなたが力を持ったせいで、町が危うくなったのよ。余計なことを……』
力の危険性を諭してくれた、思い出深い大切な祖母の言葉。
『おまえの舞、見るに堪えなかったよ。任せたのは失敗ね』
皐月がそっぽを向きながらも、自分の舞を誉めてくれた言葉。
これらが全部、裏返って依月を突き刺してくる。
もしかして本当だったのかも? と思うくらいには緻密な表現だ。
でも。
「こんなウソ、負けないもんね!」
親しい人に向けられた事のない憎々しい表情を見て悲しくなるも、ぐっと歯を食いしばって耐える。
依月は幾度となく過ごしてきた無音の世界で心が強く、強靭になっていた。
また依月の中で燦然と輝く美しい思い出たちがこれは明確な嘘だと告げて、依月の足を止めさせない。
でも、依月が知らない思い出だったら?
——突如、右側の空間が歪み、その歪みが依月の足についてくる。
景色の中に、まだ幼い皐月の姿が見えた。
依月が見たこともない、豪奢で大きな和室の中央で、正座をして俯いていた。
顔は見えないが、よく知らない誰かに囲まれて責められているようだ。
『あの次女を名簿から消せと、正気なのか』
『封じたとて危うすぎるのでは? 前にもあったでしょう、あの時みたいに』
『その選択は、世界にとっては迷惑ではないか? そもそもなぜ当主の秦月が来ない?』
『おじいさ……当主はいま、妹を、全力で封じております……』
皐月は俯き、唇を噛んでいた。頭を下げ、土下座のような姿勢になる。
『……あの子には、ただ普通に生きてほしいだけなんです。かわりにはなれませんが、私が、出来ることをやりますので。どうかお許しを』
依月の脚が、わずかに鈍る。
「……さつ姉……?」
その一瞬、足元の道がばきりと音を立てて崩れた。
慌てて走り出す。ぎりぎりで間に合った。背後に消えていく足場を見て、息が詰まる。
(ダメだ……止まっちゃ、ダメ)
映像は続いている。
一番奥にいた男が厳かに告げる。
『……いいか、上凪の娘よ。お前は近いうちに巫の当主を継ぎ、終生、総会に貢献せよ。それで一旦はこの愚行を認めよう』
『本当ですか!?』
『"巫の力"は強大だ。齢10に満たぬお前でさえ、俺たちよりもはるかに強いというのだからな。……だというのにお前たち一族は排他が過ぎて困っている』
『……何を、すればよいのでしょう?』
『不定期に総会名義で依頼を出す。これをこなせばいい』
『わかりました』
『上凪 皐月。お前は妹の"出来損ないの代用品”だ。その提案は受けてやるが、自分の立ち位置を努々忘れるな』
『……はい。ありがとう、ございます——』
その言葉は。その光景は。
本当なのか、嘘なのか……いや、嘘だったとしても。
なにかを堪えながら努めて維持している皐月の無表情を見て、依月の足は止まる。
崩れゆく足元。もう足を踏み出さなければ落ちてしまうだろう。
けれど依月は、硬直してしまって動けない。
出来損ない? 代用品? さつ姉が?
崩壊した地面。重力に従って依月は下へ、下へ落ちていく。
先ほどの光景がリフレインし続ける中、依月はいつかの彼女の台詞を思い出していた。
『私は自ら責を持ち、自らの意思によって巫として立ち、力を振るっているの』
『別に私はおまえの自由のために率先して巫を継いだわけでもないし、上凪家長女として〜みたいな変な責任感は持ってないの。だから依月は依月で好きな選択を取っていいし、誰かを慮って将来を狭めるようなことはしてはだめ』
『巫の力は強大だから、何を為すかは必ず自分の意思で決めること。やれと言われて為す物事に、この力は相応しくない』
「……本当に?」
仰向けに落ちていく依月の意識は、刺すような痛みとともに、そこで途切れた。
Q.「無音の間」で無限に日々を送り続けるとどうなる?
A.段階的に最終日の闢則の雨による"揺り戻し"と"望郷の念"が強くなるため、無限はありません。
過去に訪れた巫のうち、最長記録は約160年です。依月でだいたい15年くらい。なお皐月は3か月。
数十年以上過ごしてしまうと、無音への慣れにより現実でも聴力を失う可能性があります。これは外的なものではなく、心的な要因による症状です。