第七話 その3
分割投稿は流石に…ということで今回文量多めです。
◇
(あれ?)
依月が目を覚ますと、祠の椅子の上ではなく、自室の布団の中だった。
よく知る古ぼけた天井。傘状の蛍光灯が視界に映りこむ。
ゆっくりと身を起こして、周囲を確認する。
夏休みに帰って以来ずっと変わらない、自分の部屋だ。
ほとんど空っぽの家具と、衣服だけがちょこんと置いてある、少しもの悲しさが漂う人気の失った部屋。
なぜだろう、長い夢を見ていたような奇妙な感覚がある。
寝ぼけているせいか、頭の中が曖昧だ。
いったいいつ、自分は自宅に帰ったんだろうか?
新しい力のことはどうなったんだろうか?
(なんか、静かだな)
耳をすませても、物音一つしない。
起き上がり、家の様子を確認しようとして、ふと強い違和感を覚える。
でも、その違和感の正体はわからなかった。
居間に行き襖を開けると、しかしそこには誰もいなかった。地続きになっているダイニングとキッチンを覗いても、やはり無人だった。
(みんなどこに行ったんだろ?)
時計を見ると、午前9時を過ぎた頃だ。この時間であれば、少なくとも秦月は家にいてもおかしくないのに。
予定を伝え合う家族でもないので、そういうこともあるかと思い直し、テレビをつけようとリモコンの電源ボタンを押す。
テレビは点かなかった。
電池切れかと本体側のボタンを押すが、やはり反応しない。
時代錯誤も甚だしいおんぼろのブラウン管なので、遂にこの子も寿命が来たのだろうか。
天板を強く叩いてみる。
そして、ようやく気づく。
(音が…!?)
どれだけ叩いても、一切音が聞こえない。
それを理解して、今まで気づかなかった小さな違和感が今更怒涛の勢いで溢れてくる。
自分の呼吸の音、衣擦れの音、襖が開く音、床板を踏む音、時計が刻む音——それらの小さな音でさえ、まったく聞こえない。
こんなに強烈な違和感、何故今まで感じなかったのだろう?
そんな訳ないのに、まるでこの状態に慣れきって、感覚が麻痺してしまったかのような……?
(声も出ない……)
自分の耳が病気になったのかもしれない。依月の顔がさっと青褪める。
だが、それならば——なぜ『世界の声』すら聞こえないのだろう? 耳じゃなくて心に直接聴こえるようなあの『世界の声』が、どうして?
恐怖に駆られた彼女は手を胸に当てる。しかし、その鼓動の感覚すら曖昧で、まるで心臓が“沈黙する臓器”に変わってしまったような、そんな錯覚に陥る。
冷や汗すら出ない。汗をかいた気がするのに、肌は乾いたまま。
風も吹かず、虫も鳴かず、町の喧噪も、なにもかも。
静寂が張り詰めた空気のように、皮膚の下にまで入り込んでくる。
世界が——凍っている。
依月は家を出る。靴を履いた感触はあるが、地面を踏む音がしない。
誰もいない町。扉が開け放たれたままの商店、埃をかぶった自販機、流れの止まった澄月川。
ただの田舎町の風景なのに、すべてが“止まった博物館の展示物”に見える。
(ここは……どこ?)
もしかして夢の中なのかな?
けれどそれにしては、手に触れる感覚も、風景の精緻さも、あまりに現実的すぎた。
ただ、何より怖いのは——この異常な世界に対して、自分の心が急速に“順応”しようとしていることだった。
まるでずっと、ここで過ごしてきたみたいに。
声が出せないなら、出さなくていい。
音が聞こえないなら、音のない世界に馴染めばいい。
腹が減らないなら、食べなくてもいい。
何も起きないなら、ただぼんやりしていればいい。
時の進まない箱庭に、依月の思考が、日々が、輪郭を失っていく。
…………
……
何日が経ったのだろう?
朝の光が差す部屋で目覚め、食卓に誰もいないことを確認し、テレビがつかないことに嘆き、音がないことに狼狽え、だがやがてそのすべてに慣れていく。
最初の数日は、外を歩き回った。誰かいないかと探し続け、泣きながら、叫びながら。
声はやはり出なかったけれど。
何度も同じ夢を繰り返しているようだった。
朝、目覚めるたびに忘れていたはずの違和感が胸に迫る。
けれど次第に、悲しみも、焦燥も、薄れていく。
むしろ、朝日を見て、布団のぬくもりに包まれるたびに、依月はこう思うようになっていた。
(ここが……本当の世界だったのかな)
思考が、溶けていく。輪郭が滲んでいく。
大切な何かを忘れているはずなのに、思い出そうとする意志すら、しだいに消えていく。
…………
……
——その日は初めて雨が降った。
この日は、いつもと違った。
雨音は聞こえなかった。けれど、頬を濡らす水滴の冷たさに、依月は唐突に揺り起こされた。
何かが違う。
なぜ、自分はここにいる?
どうして、音がない?
なぜ、誰もいない?
沈んでいた疑問が、再び溢れ出る。
——疑問の奥で、自分の知らない自分が、思い出してと叫んでいる気がする。
けれど、何を思い出したらいいのか分からなかった。
……急速に心が乾いていく。
雨に当たるのも飽きたので、家に帰って今のソファで横になる。雨に晒されても濡れないので、乾かす必要も無かった。
横目でちらりとカレンダーを見やると、今日は9月の末日だった。
(あれから1ヶ月かぁ)
そんなことを思いながら、依月の意識は微睡んでいく。
◇◆◇◆
(あれ?)
依月が目を覚ますと、祠の椅子の上ではなく、自室の布団の中だった。
よく知る古ぼけた天井。傘状の蛍光灯が視界に映りこむ。
ゆっくりと身を起こして、周囲を確認する。
夏休みに帰って以来ずっと変わらない、自分の部屋だ。
ほとんど空っぽの家具と、衣服だけがちょこんと置いてある、少しもの悲しさが漂う人気の失った部屋。
なぜだろう、恐ろしく長い夢を見ていたような奇妙な感覚がある。
寝ぼけているせいか、頭の中が曖昧だ。
いったいいつ、自分は自宅に帰ったんだろうか?
新しい力のことはどうなったんだろうか?
(なんか、静かだな)
耳をすませても、物音一つしない。
起き上がり、家の様子を確認しようとして、ふと小さな違和感を覚える。
違和感の正体はわからなかった。
居間に行き襖を開けると、しかしそこには誰もいなかった。地続きになっているダイニングとキッチンを覗いても、やはり無人だった。
(みんなどこに行ったんだろ?)
時計を見ると、午前9時を過ぎた頃だ。この時間であれば、少なくとも秦月は家にいてもおかしくないのに。
予定を伝え合う家族でもないので、そういうこともあるかと思い直し、顔を洗おうと洗面所へ向かった。
蛇口から水が出ない。
待てど暮らせど水は流れてこず、依月は『あれ』と声に出そうとした。
(声が…!?)
喉がまったく震えない。口をぱくぱくさせて発声を試みるが、出てくるのは無音の吐息ばかりで。
それを理解して、今まで気づかなかった小さな違和感が今更怒涛の勢いで溢れてくる。
自分の呼吸の音、衣擦れの音、襖が開く音、床板を踏む音、蛇口を捻る音——それらの小さな音でさえ、まったく聞こえない。
こんなに妙な出来事に、何故今まで感じなかったのだろう?
そんな訳ないのに、まるでこの状態に慣れきって、感覚がすっかり麻痺してしまったかのような……?
自分の耳が病気になったのかもしれない。依月の顔がさっと青褪める。
だが、それならば——なぜ『世界の声』すら聞こえないのだろう? 耳じゃなくて心に直接聴こえるようなあの『世界の声』が、どうして?
恐怖に駆られた彼女は手を胸に当てる。しかし、その鼓動の感覚すら曖昧で、まるで心臓が“沈黙する臓器”に変わってしまったような、そんな錯覚に陥る。
冷や汗すら出ない。汗をかいた気がするのに、肌は乾いたまま。
風も吹かず、虫も鳴かず、町の喧噪も、なにもかも。
静寂が張り詰めた空気のように、皮膚の下にまで入り込んでくる。
世界が——凍っている。
依月は家を出る。靴を履いた感触はあるが、地面を踏む音がしない。
誰もいない町。扉が開け放たれたままの商店、埃をかぶった自販機、流れの止まった澄月川。
ただの田舎町の風景なのに、すべてが“止まった博物館の展示物”に見える。
(ここは……どこ?)
もしかして夢の中なのかな?
けれどそれにしては、手に触れる感覚も、風景の精緻さも、あまりに現実的すぎた。
ただ、何より怖いのは——この異常な世界に対して、自分の心が急速に“順応”しようとしていることだった。
まるでずっとずっと、ここで過ごしてきたみたいに。
声が出せないなら、出さなくていい。
音が聞こえないなら、音のない世界に馴染めばいい。
腹が減らないなら、食べなくてもいい。
何も起きないなら、ただぼんやりしていればいい。
時の進まない箱庭に、依月の思考が、日々が、輪郭を失っていく。
…………
……
何日が経ったのだろう?
朝の光が差す部屋で目覚め、食卓に誰もいないことを確認し、テレビがつかないことに嘆き、音がないことに狼狽え、だがやがてそのすべてに慣れていく。
最初の数日は、外を歩き回った。誰かいないかと探し続け、泣きながら、叫びながら。
声はやはり出なかったけれど。
なんとなく、色々試してわかったこともある。ポスターや本など、"娯楽"を感じさせるものは全て白紙になっていて、まるで楽しむことを認めないと言われているかのようだった。
鉛筆やボールペン、果ては砂に指で跡をつけるなど、"書くこと"も一切できない。
依月に許されているのは、動くこと、寝ること、考えることの3つだけ。
何度も同じ夢を繰り返しているようだった。
朝、目覚めるたびに忘れていたはずの違和感が胸に迫る。
けれど次第に、驚きも、焦燥も、薄れていく。
むしろ、朝日を見て、布団のぬくもりに包まれるたびに、依月はこう思うようになっていた。
(ここが……本当の世界だったのかな)
思考が、溶けていく。輪郭が滲んでいく。
大切な何かを忘れているはずなのに、思い出そうとする意志すら、しだいに消えていく。
…………
……
——その日は初めて雨が降った。
この日は、いつもと違った。
雨音は聞こえなかった。けれど、頬を濡らす水滴の冷たさに、依月は唐突に揺り起こされた。
何かが違う。
なぜ、自分はここにいる?
どうして、音がない?
なぜ、誰もいない?
沈んでいた疑問が、再び溢れ出る。
——疑問の奥で、自分の知らない何人もの自分が、思い出してと叫んでいる気がする。
けれど、何を思い出したらいいのか分からなかった。
……なにかが引っかかりそうだけど。
もやもやした想いを抱えながら、家に帰って今のソファで横になる。雨に晒されても濡れないので、乾かす必要も無かった。
横目でちらりとカレンダーを見やると、今日は9月の末日だった。
(あれから1ヶ月かぁ)
そんなことを思いながら、依月の意識は微睡んでいく。
完全に意識が沈む直前、依月はもう一つ、自分にできるはずのことを思い出していた。
でも、もう遅かった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
(あれ?)
依月が目を覚ますと、祠の椅子の上ではなく、自室の布団の中だった。
よく知る古ぼけた天井。傘状の蛍光灯が視界に映りこむ。
ゆっくりと身を起こして、周囲を確認する。
夏休みに帰って以来ずっと変わらない、自分の部屋だ。
ほとんど空っぽの家具と、衣服だけがちょこんと置いてある、少しもの悲しさが漂う人気の失った部屋。
なぜだろう、無限のごとく長い夢を見ていたような奇妙な感覚がある。
寝ぼけているせいか、頭の中が曖昧だ。
いったいいつ、自分は自宅に帰ったんだろうか?
新しい力のことはどうなったんだろうか?
(なんか、静かだな)
耳をすませても、物音一つしない。
起き上がり、家の様子を確認しに部屋を出る。
居間に行き襖を開けると、しかしそこには誰もいなかった。地続きになっているダイニングとキッチンを覗いても、やはり無人だった。
(みんなどこに行ったんだろ?)
時計を見ると、午前9時を過ぎた頃だ。この時間であれば、少なくとも秦月は家にいてもおかしくないのに。
予定を伝え合う家族でもないので、そういうこともあるかと思い直し、ソファに座ってぼんやりする。
なぜだろう、妙に心が平坦だ。
そんな訳ないのに、まるで永遠に等しいくらい長いこと、味気ない日々を送っているような気がする。
暇なので、いつものように『世界の声』に繋がって、いろんな声を聴こうとした。
しかし、どれだけ声を探ってもしんとしていた。
一拍置いて疑問に思う。なぜどこからも『世界の声』が聞こえないのだろう?
16年の人生で初めてのことだった。でも、ずっとずーっとこうだったような気もする。
そういえば、『世界の声』どころか、普通の音もしないような――。
音って、どんなものだったっけ?
依月は家を出る。靴を履いた感触はあるが、地面を踏む音がしない。
誰もいない町。扉が開け放たれたままの商店、埃をかぶった自販機、流れの止まった澄月川。
ただの田舎町の風景なのに、すべてが“止まった博物館の展示物”に見える。
(ここは……どこ?)
もしかして夢の中なのかな?
けれどそれにしては、手に触れる感覚も、風景の精緻さも、あまりに現実的だ。
ただ、何より不思議なのは——この異常な世界に対して、自分の心が既に“順応”しているらしいことだった。
まるでずっとずーっと、ここで過ごしてきたみたいに。
声の出し方を思い出せない。
音の聞こえかたを思い出せない。
空腹の感覚も、のどの渇きも、思い出せない。
何も起きず、ただぼんやり過ごしていくだけ。
時の進まない箱庭に、依月の思考が、日々が、輪郭を失っていた。
…………
……
何日が経ったのだろう?
朝の光が差す部屋で目覚め、ぼーっとし、そして眠る。
最初の数日は、外を歩き回った。でも、すぐに飽きてやめた。
何度も同じ夢を繰り返しているようだった。
朝、目覚めるたびに忘れていた違和感らしきものをふと思い出す。
けれど既に、悲しみも、焦燥も、なにもない。
むしろ、朝日を見て、布団のぬくもりに包まれるたびに、依月はこう思うようになっていた。
(本当の世界なんて、あったのかな?)
今日も、空虚だ。
…………
……
——その日は初めて雨が降った。
この日は、いつもと違った。
真っ青な雨だ。
”水だから青い”といった次元でなく、単色で塗りつぶしたような、青。
見たことのない景色。既視感のない鮮烈な光景に、依月の目はまん丸になった。
起きてすぐ、そっと玄関から外に出る。
雨音は聞こえなかった。けれど、頬を濡らす水滴の冷たさに、依月はガツンと殴られたかのように、強烈に揺り起こされた。
こんな世界は知らない。あるわけがない。
なぜ、自分はここにいる?
どうして、音がない?
なぜ、誰もいない?
沈んでいた疑問が、再び溢れ出る。依月の瞳に、光が灯る。
(……何か、大切なものを、忘れてる)
——疑問の奥で、自分の知らない夥しい数の自分が、思い出してと叫んでいる気がする。
その心の叫びは太く紡がれ輝きと化し、依月の奥底に眠っていた「それ」を引っ張り上げる。
巫の力。その存在を思い出すと同時に、依月の身体に力が満ちた。
鼓動が戻ってくるような感覚。凍っていた記憶の表面に、ひびが走る。
夏の日差し。木々の声。町の人の笑い声。誰かの手。赤い光。緑の風。そして——青い水面。
それは遠い昔、あるいはいつか訪れる未来のようでもあった。
確か、自分は何かを“取り戻すため”に祠へ来た。
そのはずだった。
だとすれば、”これ”が、”それ”?
依月は掌を見つめる。
そこには青い光が、微かに滲んでいた。指先から、細い糸のような光が伸びている。
ひどく頼りなく、儚い光だ。
だが、どうしようもなく暖かい。
依月の目から、透明な雫が頬を伝って落ちた。
この沈黙の世界で、ようやくひとつの強い感情が、真に心の奥から滲み出た。
(——帰りたい)
みんなに会いたい。
姉に、祖父に、祖母に、町の人に。
風の声を聞きたい。鳥の声を聞きたい。
音のある世界に、帰りたい。
その“想い”が、静寂を裂いた。
青の糸が宙に走り、空間を鋭く貫く。
そこから無音の世界がひび割れ、景色が剥がれ落ちていく。
その裂け目の向こうに、真夏の陽光のごとき白い光が滲む。
けれどまだ、裂け目は小さい。
(——帰りたい!!)
依月は、裂け目に向かって走る。無理やり青の光を強くして、ひび割れを殴りつけた。
ガラスが砕け散るような音が、依月の耳に届く。
ああそうだ。
音ってこんな感じだった。
大きくなった向こうの空間に身体をねじ込ませて、突き抜ける。
「わたしは、帰るんだ!!!」
ようやく発せたその声に、涙が止まらない。
空間を突き抜けた先、あちこちで喧騒がする。
風が頬を撫で、肌が汗ばんだ。
——生きている。
依月は強く、そう思った。