第七話 その2
洞窟が出現してから、なんとなく周囲の空気が冷えた気がする。
真っ暗な穴の奥に空気が吸われているような錯覚……まるで奥へと誘おうとでもしているのか。
「う……」
興味津々で闇穴を見ていた依月は、ふと『世界の声』につなげて呻き声を上げる。
そこにあったのは、果てのない狂気と虚無。祟り神を見た時のような「情報の欠落」とはむしろ真逆、ずっと向こうまで混沌がぎゅうぎゅうに詰まっており、暗闇だからというだけでなく、いろんな絵の具をぶちまけたように”声”も真っ黒だ。
――流れ込んでいった風たちが、気がふれたかのように絶叫しているさまが聞こえてくる。
「ほう。感じるか?」
依月のただならぬ様子に、秦月は片眉を上げた。
「なんか、ここやだ……ぐちゃぐちゃしてる……」
「……言い得て妙ね。事実そんな感じだし」
心当たりのあるらしい皐月は、納得したようにひとつ頷いた。
秦月は厳しい表情のまま、淡々と続ける。
「ここから先、依月のみがこの中に入れ。何をすればよいかは教えられぬ」
「え、ひとりでここ入るの……?」
不安そうに祖父を見やる依月。しかし秦月は冷たい目で頷くのみだ。
「入って、帰ってこられた時には青を無事取り戻しているだろう。さあ行ってこい」
「うー……ほんとに怖くてやなんだけど。行かなきゃダメ?」
「駄目だ」
依月は洞窟の入り口を再度見やる。『世界の声』は気持ち悪すぎて切ったので、もう普通の洞穴にしか見えない。だが、一度覚えてしまったあの気配が、頭からこびりついて離れない。
「大丈夫、確かに混沌としてるけど、死ぬとか怪我するみたいな危険性はないから」
「ほんとに……?」
皐月に柔らかい声で諭され、そろりと入り口に近づく。
近づいても全く奥が見えない。真夏の太陽の直射光はおろか、その反射光すら拒む真なる深淵。
……もう一度だけ、二人のほうを見る。
「待っててあげるから。頑張って」
「うむ」
静かな激励を聞いて、今度こそ依月は泣きそうな顔で、一歩を踏み出した。
闇に足を踏み入れると、不思議なことに視界は晴れた。光はどこからも入り込んでいないのに、何故か明るい。
こうして見ると普通の岩肌に囲まれた、うす暗いだけの洞窟だ。やや左に曲がって下っており、地形構造的に先が見えない。
慎重に歩を進める依月。いつもならこういう時『世界の声』に頼って勇気をもらうものだが、もう二度とここで使いたくなかった。
ひょっとすると長い洞窟なのかと思いながらしばらく歩き進めると、たいして進まないうちに少し開けた空間が依月を待ち受けていた。
広いとは言っても、人が10人も入ればぎゅうぎゅうだろう。
そして、どうやらここで行き止まりのようだった。
「……椅子と、祠?」
空間にあったのは、木製の簡素な椅子と、向かいの壁際に立てられた小さな祠だった。
どちらもやや使い込まれた感こそあれど、古くもなく、傷んでもいない。
祠には石像が祀られている。顔はなく、手で何かを抱えるような仕草をしていたが、手には何も置かれていない。錫製のお椀がその前に飾られており、軽く覗き込むと、真っ黒な液体がそこになみなみ注がれている。
「?」
ここでなにをすればいいんだろう?
とりあえず祠の石像に手を合わせて拝んでおく。……何も起きることはなかった。
「あれ、終わり? 帰ればいいの?」
肩透かしを食らって、踵を返す依月。だが振り返ると、闇青色の幻影のカーテンが帰り道を塞いでいる光景が目に入る。驚きつつも近寄って指で触れてみると、触った感触はまったくないのに指がそれ以上進まない。
つまるところ、閉じ込められたに等しい。不可解な状況に疑問だらけになる。
祠の裏に出口があるかもと回り込んでみるが、裏面と壁面がぴったりとくっついており、そういった作りには思えない。
「んー?」
もし謎解きだとしたら、一生ここから出られない自信が彼女にはある。
洞窟内をぐるぐる回って、椅子と祠以外なんにもないこと、椅子も祠も特に仕掛けみたいなものがないことを確信して、途方に暮れた。
やることが分からないので、とりあえず椅子に座ってみた。腰掛けると、ちょうど視界の正面で石像が見えるようになっていた。
のっぺりした像をぼんやりと眺めていると、ふと変化があった。何かを抱えるような、あるいは掬うようなポーズを取っていた両掌から、黒い水が湧き上がって、下のお椀へとぽたぽたと流れ込んでいる。
「わっ、水が……」
お椀には既に沢山の水が注がれているから、このままでは溢れてしまいそうだ。不気味そうに眺め続けていると、表面張力で少しお椀を超えた高さにまで達したところで、石像からの注水は止まる。
ふるふると震えた黒い水はやがて、つう、とお椀から雫となって溢れ落ちた。雫はそのまま軌跡となり、垂れた跡から次々とお椀内にあった黒い水が滝の如く落ちてゆく。重力を無視して容器をせりあがり、中にあったぜんぶの水が流れ出る。
お椀が置いてある祠の祭壇には黒い水は留まらず、染みず、どこかへ消えていった。
流れた水はどこへ?
目をまんまるにして食い入るように見つめていると、頭頂部から「ぴちょん」と音がした。
びくりと全身で跳び跳ねて、おっかなびっくり頭を触ると、少しだけ濡れている。
……嫌な予感がして自分の手を見やると、案の定、指先が真っ黒になっていた。
「うえっ!?」
反射的に手を振って払おうとした時、耐え難い眠気が突然として依月を襲う。
抗うことも出来ず、寸刻の猶予もなく依月は意識を手放すのだった。
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……………………
…………
……
差し込んでくる強烈な朝の日差しに、依月の意識はゆっくり覚醒した。
欠伸をしながら身体を起こすと、タオルケットがずり落ちた。
布団の上で、依月は変わり映えのしない自室を見渡す。
伸びをしながら開けたままの窓から外を眺めると、深い森を貫いて朝日が部屋を照らしている。
もそもそ起き上がって、部屋から出る。
あるいは今日は。と期待して、居間に向かう。
そして、しんと静まった部屋を見て、目を伏せた。
ーー家には誰もいない。依月だけだ。
自室に戻り。着替えて、朝ごはんも食べずに外へ出る。
風も吹かず、木々はざわめかず。
虫の音も、鳥の声も、川のせせらぎも、聞こえない。
音の止まった船麓町を歩く。
歩く。
ただ歩く。
ーー寄り合いには誰もいない。依月だけだ。
ーー学校には誰もいない。依月だけだ。
ーー民家には誰もいない。依月だけだ。
船麓と外を唯一繋ぐトンネルの向こうを見る。
バスも、車も来ない。何故なら真っ暗で、トンネルの先など存在しないのだから。
誰かと叫びたい。
でも声が出ない。
手を叩いても、靴で砂利を蹴っても。
何をしても音が、鳴らない。
疲れないのでひたすら歩き続ける。
そのうちに夜になる。
腹も減らないし、食糧もないので、ご飯は食べない。
汗もかかないし、水もないから、風呂も入らない。
ただ着替えて、布団に入り、睡眠する。
明日こそは、とうつろに祈りながら。
秦月は言った。「巫の精神修行の場」と。
ーー「無音の間」。
言葉にこそ力を宿す巫にとって、"音"を奪われることは致命的である。
ゆえにこそ"音"を奪い、"憩い"を奪い、"生活"を奪い。そうして"己の心"を鍛える。
うちに宿す想いで、言葉なくとも巫参色に力を乗せ、この世界を突破するーー
それができなければ、1ヶ月ごとに殆どの記憶が消えて、また1から始まるループに囚われて。
途方もない年月が過ぎていく。
これはそんな修行のひとつめである。
……依月にとっては分からないことだが、この生活を続けて、もうすぐ10年が経とうとしていた。
水がなぜ「黒」なのかは理由がありますが、それが説明できるとしたら途方もなく先の話になりそうです。
(多分第九章か第十章あたり…)