第六話 その2
日が沈んだ後の森の中は、いつもの喧騒を忘れ、しんとしている。
まるで時が止まったかのように風すら流れないこの地で、依月は少し及び腰で周囲を見渡していた。
「うー……ここって、こないだのとこじゃん」
三人がいるのは、以前依月が迷い猫を追って入った山の中である。
夜の山とはいえ、夏とは思えない寒さだった。
かすかな吐息が白く霞み、細い足先まで緊張が伝わる。三人が立つのは、木々さえ育たない小さな窪地。斜面から吹き下ろす風すら遮られ、空間は凪いでいる。
依月には、『世界の声』がこの地を“死”の領域と告げているかのように、あらゆる命の気配がないことを感じていた。
「船麓町には、呪点と呼ばれるスポットが三箇所ある。一つはここ。あとは逆側の山と、うちの山裏の森に一つずつ。大体はそこから祟り神が出現するから順繰りに見張ってるの。統計的に今日は多分ここで湧く。……たまにこないだの舞のときみたいに、変なとこから出現したりもするけどね」
「なんか人がいないとこばっかだね」
「初代の姫月様の偉業じゃな。元々は七箇所あったのだが、人の多いところにあった四つは命を削って浄化しきったという」
「そんな話あの伝説にないけど?」
「呪いや姫月様の詳細はぼかしておるからな」
「ほぇー。……ねー残ったみっつってさ、伝説からすごい時間経ってると思うんだけど消せないもんなの? 初代さまみたいにじょーかってやつやればよくない?」
「着眼点が良いな」
秦月は依月の頭に手を乗せて誉めた。不慣れなのか強く撫ですぎて依月の頭がぐわんぐわん動いている。楽しそうにされるがままになっている依月を見ながら、祖父は続ける。
「実は巫参色に『浄化』の力はない」
「え?」
「何故かは伝わっておらぬが、初代以降の巫に浄化することができるものがおらんのだ。依月、お前の『世界の声』のようになにか別の力なのかもしれぬな。わしらは永劫闘い続けるしかない」
依月の声を聴きとる力と、姫月の浄化の力。
少女はぼんやりと、かつての初代と自分を重ね合わせた。
ご先祖さまは、他人との違いに苦しんだり、悩んだりしたことはあるのだろうか?
「雑談ばっかりしてないで、準備」
目を青く輝かせていた皐月が大刀を抜き、その先端を暗闇にかざす。月明かりに鈍く光る鋼の刃が、闇の中でまるで獣の目のように妖しく揺れた。
その言葉のしばらくのち、ぞわぞわと背筋を逆撫でるような不快な気配がし、依月の緊張は頂点に達した。
闇が一瞬で冷たい塊となり、地を穿つように蛇影を作り出した。
一体だけではない。依月にはあちこちから、似たような嫌な感じがするのがわかった。
祟り神たちは無音のまま、四方八方からにゅるりと地面から生えるように姿を現す。
「二十四か、まあまあね」
赤黒いそのすべての瞳が、依月を睨みついていた。
思わずひゅっと、息が漏れる。
「な、なんでわたしだけ……」
「……。私が十五体やる。御爺様は八体、依月は一体受け持ってみて。危なそうなら助太刀するから」
「うむ。神狩りはずいぶんと久々じゃな」
「うう……わかった」
闇を凝縮した祟り蛇たちの喉が、一斉に音のない不気味な唸りを漏らした。地を擦る低い震動が依月の足裏から脊髄へ登り、肩口で小さく震えを生む。
彼女は唾をのみ込み、両手で薙刀『迎暁』の柄を握り直した。
「一体……だけ、だよね」
「いいか、獲物から目を離すな。そして恐れるな。危なくなったら守護は任せよ」
秦月の激励。
それを聞き、自分にだけ向けられる数多の瞳を極力無視し、無理やり笑ってみせる。
刃の向き、手幅、重心。さっき皐月に叩き込まれた「最低限」を必死に反芻しながら、半歩前へ踏み出した。
「構えて!」
皐月の声とともに、闇の中で黒い蛇影がしなやかに蠢く。祟り神たちは、音もなくあたりへ散らばり、赤黒い目を妖しく光らせて依月を狙う。
秦月は紺の装束を翻し、錫杖を静かに地へ叩きつけた。
「分断するぞ。三六式:村雨垣――」
空中に緑の刃が無数に展開、皐月と十五の祟り神、秦月と八の祟り神、依月と一の祟り神を分断する。皐月のほうにいた一体の祟り神が、依月を襲っていた勢いで光の刃に突撃して八つ裂きになり、塵と消える。
「さあ、はじめよう。依月、余裕が出来たらこちらの一匹を分けてやろうぞ!」
「いらないからーっ!」
身の丈をはるかに超える体躯を見て、かつての恐怖が脳裏によぎる。
でも、もう怯えて逃げるだけじゃない。
今の自分には、頼もしい力がある。
「迅・剛!」
腕、肩、背中、胸に剛を適用、全身に迅を適用。非力な少女の力をぐんと底上げする。
そして武器にも赤の力を呼び起こす。薙刀の刃に、淡い紅がにじむように耀いた。
らせん状に身をくねらせた祟り蛇が、正面から依月へ迫る。
迅のおかげで、動きがゆっくりに見える。
――突いて良し、叩いて良し。
頭の片隅で皐月の言葉が反芻される。依月は柄尻を踵の横へ据え、胸の奥で赤い光を呼吸に合わせる。
とん、と地を蹴り込む。同時に薙刀を前へ押し出す。
「はっ!」
刃が黒鱗へ届く寸前、赤の火花が一瞬だけ走った。まるで石にぶつけたかのような手応え……薙刀は貫通しなかった。
「かっ、たい……!」
蛇が低く身をうねらせ、鉄鎖のような尾で横薙ぎに払う。依月は薙刀を縦に構え、柄で受け止め、しかし弾き飛ばされた。背中が苔むした地面へぶつかり、肺の空気が抜ける。
痛みより先に、赤い光が暴発しそうな熱がこみあげた。
油断したら何かが飛んでいきそうだ。体内で脈動する「赤」を、呼吸に合わせ、必死に抑え込んでいく。
波が引いたところで、依月は急いで立ち上がる。蛇の姿は正面にない。
――気配。
左手に雷鳴のような鋭い空気の振動を感じ、依月は咄嗟に右側に足を踏み出した。同時に、祟り神が何もない闇から飛び出し、地鳴りのようなうねりを伴って襲いかかる。反応したおかげで初撃は回避できたが、太い尾で地を蹴り上げ方向転換し、牙を剥いて再び依月の胸元を狙ってくる。
横っ飛びで躱して、隙を晒した蛇の横腹に、再び薙刀を突き入れる。
だが、やはり刃は通らず、鈍い振動を依月に返してくる。
「うぐぅっ」
はげしくびりびりする両掌に、依月は苦悶の声を漏らす。
迅のおかげで見えたとしても、適切な対応がとれない。
依月はどうしたらいいか分からなかった。
無意識に、皐月のほうをちらと見る。
左前方の空間で、皐月は稲光のような速度で駆け抜けながら双刀を蒼白く閃かせていた。
それは最早暴威といって差支えない、圧倒的な戦況。
「闢則、八咫響」
青い残光を纏った紙切れが蛇にまとわりついたと思ったら、直後真っ赤な剣線が十字を描き、大木よりも大きな闇躯が紙細工のようにばらける。斬り払われた黒煙が風も無い空間を逆巻き、皐月の刃が紅から蒼へ、蒼から紅へ。二色の光が交差するたび、祟り蛇の身体が斃れ、地を焼く煙の匂いが濃くなってゆく。
「わぁ……」
いつぞやと違い、今度はちゃんと目で追える。
不安のかけらも感じない姉の戦いを目の当たりにして依月がほんの少し呆けていると。
「一式:禍つ壁!」
「わっ!?」
依月の左側に緑の壁が生まれ、壁に祟り神の咢がぶつかる。余波で後ろによろめいた依月へ、右奥にいた秦月から怒号が飛んできた。
「ばかもん! 戦闘中によそ見するな!」
「ご、ごめん!」
秦月は様々な形を成した緑の光で、複数の蛇と闘っていた。
左手で細い紐状の光を三本引っ張っており、先端はそれぞれ三体の蛇の首に巻きついている。
体捌きで蛇を誘導し村雨垣にぶつけたり、錫杖の先端に纏わせた光の刃で切り裂いたり。
様々な搦め手、正攻法入り混じる熟練の立ち回りで、まとめて多数を相手取っている。
そんな中で依月にも気を配り、術の多重展開をしているのは驚きだ。
……壁が消え、依月は首を振って、目の前の敵に集中した。
●姫月について
上凪の始祖たる姫月ですが、彼女は新月の凪夜に突如として生まれ落ちた人の子です。
呪いに絶望した人々が神の居なくなった神社にて祈り続けたところ、見かねた高天原の天津神が赤子を生み落とし、人々に授けました。
赤子には舞い、祈ることで白光を輝かせ、祈った対象を清めることができました。人々によって大切に育てられた赤子は「姫月」と名付けられ、あっという間に大きくなり、立派な女子へと成長します。姫月は人々のため、命を削って土地を清め続けます。
4つの大きな呪いを清めきったある時、高天原から《天照大神》が姫月のもとへ様子を見に現れます。
姫月は歓待として、緊張しながらも光を散らしながら美しい舞を披露し、天照を魅了しました。
舞と姫月をたいそう気に入った天照は、清めの能力を自身の強力な「護の力」と交換し、更に「才によって自由拡張する可能性」を姫月に与えました。
命を削りすぎた姫月を救うため、搾りかすのようだった清めの力の代わりに、なにか別の力で彼女を満たす必要があったためです。
後者は「護の力」の性質的に呪いの根治が望めなくなったため、未来への希望を人々に残すためだったと言われています。
これが、『緑の結護』[-公開不可-]ひいては『巫参色』の源流となりました。
――ただし、天津神の要請により天照来訪の件は秘匿され、現代では誤った解釈が定説となっています。