第五話 その3
それから、依月の修業は困難を極めた。
ちょっとでも入れた力が強ければ丸太は砕け散る。だが弱すぎればダメージを受けるのは依月のほうで。壊さないようダメージを与える繊細な調整範囲を探すのはあまりにも至難だ。
何度もやることで、徐々にコツは掴んできた。
試した中でやりやすかったのは、小さなスポイトで空の湯舟に一滴水を垂らすイメージ。スポイトの大きさを都度調整して、力の出方に強弱をつけていくのだ。
上手くいってる証拠なのか依月には分からなかったけれど、破片のサイズは段々と大きくなってきていた。皐月が手応えを得てそうな顔をしていたので、多分良いことなのだろう。
丸太を復帰させるための皐月の力が尽きると、その日は終了となる。
居間に二人して上がり、反省会とイメージトレーニングの相談をしていると、祭りの後片付けを手伝っていた祖父が帰ってきた。
「おかえりー」
「ただいま。修業はどんな塩梅じゃ?」
「順調とまでは行かないけど、それなり。思ったより難儀ということが分かった」
「なんかね、どれだけよわーくしても、すぐ丸太がこわれちゃうんだよねー」
「いつもの百段階式の強化調整あるじゃない? あれだと大雑把すぎて二でも馬鹿げた出力になる。それ以下の微調整が必要で、クリアできたとしても戦闘時に常に安定させていかなければと思うと、先は長そうね」
「そうか」
祖父の簡潔な返事。
皐月は片眉を上げる。
「予想済み?」
「当然じゃ。かつてその力を封じたのはわしだ、全貌は概ね把握しておる」
「なら先に言ってよね……」
「皐月、おまえの修行も兼ねておるでな。これを機に、巫の先達としての振る舞いを身につけておけ」
「妹相手に?」
「相手が誰でも関係ないぞ。わしがおまえにそうしたように、力の使い方を教え、正しく次代を育むは巫の務めだ。まあ、依月は次代とは呼べんがな」
「御爺様教えるのは下手だったくせに……はいはい。わかりました」
「ねー、じゃあじーちゃんは見てくれないの?」
「皐月だけでは不満か?」
「いやそうじゃないけど、せっかくだしいろんな話聞きたいなーって」
「ほう? もちろん偶には見るつもりじゃぞ」
なにやら前向きな依月に、秦月は相好を崩す。そんな祖父へ皐月は目を細めて睨む。
依月にとって、舞を終え、本格的に家族の本当の部分へと関わることになったことは素直にうれしかった。
やる気の根底には昨日の祖母の話と、いつだか皐月から聞いた力への責任の話がある。まだまだ謎の多い上凪家のことについて、しっかり全てを知りたいという想いもある。
「まずは皐月から赤の使いこなし方をしっかり学ぶことじゃな。ある程度使えるようなったとわしが判断できるまでになったら、次の段階へと進めるぞ」
「次?」
「他の力の復活だ。おまえはまだ一部しか力を取り戻していない。それは分かるか?」
「た、たぶん……?」
皐月と秦月が使えて、依月が使えないもの。
「今日さつ姉がよく使ってた青いやつのことだよね」
「左様。正確には青と緑じゃ」
「緑? 見たことないけど」
「ああ、そういえばそうか」
昨日の戦いで秦月が多用した緑の力。
しかし意識のなかった依月は、それを知らない。
「さつ姉はなんで使わないの?」
「……おまえの前で必要になる状況がなかっただけよ」
皐月は指先から仄かに緑色の光を発しながら、依月に見せつける。
……妙に懐かしい感覚をそれから感じて、少女は首をかしげた。
何故だろう、泣きたくなるほどの郷愁がある。
「巫参色は名前のとおり、赤、緑、青の三色で成り立つ力じゃよ」
「そうなんだー……赤以外よくわかんないや」
「ま、今詰め込んでも仕方ないから細かい話はいずれね」
「そうだな。まずは赤をちゃんと使えるようになることじゃ。今後も頑張れよ」
「……うん」
正直、緑の光への切なさがよくわからなくて、それどころではない。
曖昧に頷いて、その場は終わったのだった。
それから数日。
「あ!」
「ん」
依月は、デコピンを放った姿勢のまま固まっていた。目は大きく見開いている。
目の前には、樹皮がはがれ、大きく凹みを作った丸太が健在していた。
それが意味するのはつまり。
「やったー! できたー!!」
依月はうれしさのあまり万歳しながら飛び跳ね。姉は小さく拍手する。
「おめでとう、レッスン1クリアね」
「そういえばまだ1だった……!」
たった一度の成功。ゆくゆくはこれを安定化させないといけないのだが、それでも一歩、大きな前進だ。
まだ一個めの課題であることを思い出しつつも、にまにまと嬉しそうに笑う。
丸太の凹み跡を見やる。誇らしい成果だ。
「その感覚を忘れないようにね。じゃあ次レッスン2。今度は剛ではなく、迅を使う」
「速くなるやつだっけ」
「そう。迅を使った個所は、動作を早めることが出来る。ビデオの早送りのようにね」
「ふんふん」
「迅は剛ほど出力調整は厳密にやらなくていいけど、まあ一応レッスン1と同じくらいの出力でやろう。ルールは簡単。このボールを」
と言って皐月が取り出したのは使い込まれた野球ボールだ。
庭の端に立ち、おもむろに振りかぶる。
「投げて」
逆方向に向かって投げた。直後、皐月は自身を赤く光らせる。
「追いかける。迅」
ボールを投げた方向へ走ったみたいだが、速すぎて依月の目では追えない。
ボールが届くより先に、皐月が庭の逆側に到達していた。
「迅を解除、逆端でボールをキャッチして、また投げる! 迅」
今度はこちらに投げ飛ばしてくる。
「で、元いた場所でボールをキャッチしてクリア。わかった?」
「なんとなーく……」
内容は簡単そうに見えるが、いつ力を発動して、いつ解除して、どのくらいの力で走ればいいか、など、考えることはデコピンよりはずっと多い。
頭の中で手順を反芻しながら依月は自信なさげに頷いた。
「はい、じゃあやってみて」
皐月にボールを手渡され、渋々庭の端に立ってみる。
「えーと、投げて」
投げ方など良く分からないが、力を入れてボールを山なりに放る。
「で、それからー……迅っ――あっ」
「はいボールが地面についた。アウト」
依月が走る前に、球はぼてぼてと地面に転がってしまう。
「えー難しいよこれー」
「簡単だったらレッスンの意味がないじゃない。術の発動時間を早めないとね」
「ゆっくりイメージできないなあ……」
そう、依月はこの力を制御するために、時間をかけてどれくらいの力を得たいかをじっくりとイメージする必要があった。
でも、この課題は、その時間が与えられていない。
遠くで土のついたボールが、寂しげにたたずんでいる。
「まあ、まずは迅の扱いに慣れようか。庭の端から端に行って帰ってきてみて」
「うん」
新しいことにチャレンジする。依月は少しワクワクする一方で、以前のこともありやや怯え気味だ。
「……迅っ!」
赤光とともに唱えた言霊は、剛とは違う力強さを、依月に与えてくれる。素早く流動する光に包まれていると、世界に流れる時間が非常にゆっくりになったような、不思議な感覚を得た。
30メートルほど離れた庭の端に向かって走ってみると、一歩を踏み出しただけくらいの時間感覚で辿り着いてしまった。
――なんとなく、物足りない距離だ。
剛を使った時とは違う意味で、世界が狭い。
そんな思いを抱きながら皐月のもとへ走って戻る。能力を解除すると、世界が等速に戻った。
「どう?」
「びっくりしたー! なんかわたし以外のぜんぶが遅くなったみたい」
「脳や視覚にも速度強化の効果が付与されてるからね。頭に迅を使わないと、身体だけ速く動いて気持ち悪い感覚になるよ」
皐月のその言葉に好奇心を刺激されて、頭以外に迅を発動してみる。
「うわっ!? きもちわる!?」
その場でゆっくり足踏みしたつもりが、足が霞むほど速く動く。
とにかく素早く動作がはじまって、終わる。
剛のように地面に多大な影響を与えるわけではないし、動作が思った以上の可動範囲を越えるわけではないが、これはこれでとても扱いづらい。
手をぐるぐる回して残像を残す遊びが楽しいことに気づき、しばらく遊んでから迅を解除する。
「ん、レッスン1でのイメージ修業がちゃんと効いてるね。全力で発揮したら十秒経たずでこの町を走り抜けるんじゃない?」
「それすごくない?」
「まあね。でもそこまで力を出すと、例によってコントロールが難しくなってくる。剛と同じでほどほどが一番良い」
「はーい」
…………
……
依月の奮闘は続く。
このレッスン2とやらの肝は、いかに早く術を発動し、解除するかだ。
依月にとって、とにかくじゃじゃ馬なこの力を素早く制御するのは難しい。
なので、投げながらイメージをあらかじめ完成させておく必要があった。
迅を発動するだけならなんともなかったが、ながら作業で言霊を発すると制御をあやまり、つまづいたり、庭を抜けて森にまで突っ込んだりと、案外そちらもままならない。
ボール投げをする並行で、依月はもうひとつの課題を頑張らなければならなかった。
言うまでもなく、夏休みの宿題だ。
八月下旬にさしかかり、森の合唱はアブラゼミのかわりにツクツクボウシがその比率を増やしていた。
依月の夏休みも残り少しとなり。
これまで舞の稽古と巫の修行にかまけて、殆ど宿題に手付かずなことに勘づいた弥美は、白紙のノートを見つけ、それはもう盛大な説教をかました。
依月は祖母監視下の中、居間で宿題をこなす羽目になり、修行にかけられる時間は大きく減じてしまったのだった。
「ううー……つまんないー!!」
実家での生活も、残り少し。
忙しくて遊ぶ暇などない、そんな夏休み。