第三話 その1
第三話
舞台や自宅の庭で舞の稽古に没頭すること数日。
「つかれたー!」
依月が台詞に見合わぬ溌剌さで、庭から居間に上がってくる。
日光は相変わらず森の枝葉を貫き、上凪家を燦々と照らし。山間の涼やかな風が吹き抜け、緑のにおいを部屋の中に届けてくる。
浴衣のような柔道着のような、簡素な修行着を着た依月は、がらくた同然の扇風機の前を陣取って、祖母から受け取った冷えた麦茶を飲んだ。
火照った体に、氷がきんと効いた。依月は眉間を押さえながら、嬉しそうにじたばたする。
皐月は、やれやれといった面持ちで靴は履いたまま縁側に腰掛けていた。どうやら休憩のようらしい。
「どう? 当日なんとかなりそう?」
弥美が皐月のもとに同じく麦茶の入ったグラスを届けながら、皐月に問うた。受け取った皐月はちらりと左上を見上げ、肩をすくめる。
「一応全体的に形にはなってるけど……どうも、舞に心が入りきってない感じ」
「あら」
「動きのトレースで精一杯だと本人が思ってるから、心理的な問題ね。とりあえず、最低限レベルの最低ラインで合格は出せるくらい」
「成程、で、先生としてはそれで妥協するつもりなの?」
「ん、まあ最悪現状でもいいけど、ギリギリまで粘ってはみる。依月の力のことを考えたら、ここは極力安定させたいし」
「えー、そんなにだめ?」
話が半ば聞こえていた依月は、皐月に不満顔で振り返る。しかし答えたのは弥美だった。
「依月、あんたは自分の舞で何を伝えたい?」
「なにをって? この町の伝説じゃないの?」
依月は首を傾げた。
「そうではなくて、自分が踊る舞を見て、観客がどう思って欲しいかってことよ。綺麗とか、楽しいとかね」
「……考えたことなかったや」
自分があの場所で舞って、その後。依月は観衆からの印象について、想像したこともなかった。それは無意識で失敗を恐れているからなのか、或いは単純にそこまで頭が回ってなかっただけか。
うーんと唸りながら、下唇に指を当てて考えてみる。
「んー、みんなが笑顔だったらいいな、って思うかな」
「依月らしいわね。じゃあ、最低限レベルの最低ラインの踊りを見せられて、観客は笑顔になるかしら? ……皐月は心が入ってないと言った。でも、あんたはもう舞をちゃんと踊れている。観客の笑顔に必要なものは?」
「……心をこめること?」
「それは過程じゃなくて結果の話ね。心をこめるって、具体的にはなにかしら? どうしたら心をこめたことになる?」
「えー、なんだろ」
「はい宿題。それを残り時間で考えること」
「うえー、それで舞が良くなるんなら、頑張ってみるー……」
曖昧に頷く依月を尻目に、皐月は複雑そうな顔をする。
「私は小難しい話をしすぎ、と?」
「まぁ、あんたも先生を目指すなら、生徒目線での説明を心がけることね。自分視点で知識を押し付けるのが教育ではないさね。あんたが答えを教えない教育をしてるから邪魔はしてないけど、ずっと生徒が迷ってるなら明確な指針を立ててあげるのも、一つの道よ」
「……」
皐月も、まだまだ大学一年生。人を教える立場には慣れていない。むすっとした顔で、皐月は弥美のアドバイスを聞いていた。
ぬるっといい笑顔の依月が入ってくる。
「先輩怒られてる〜あいたっ!?」
デコピンで強打を貰い、奥へとすっ飛んでいく。ご丁寧に、皐月の指先は僅かに赤く光っており、巫の力とやらを使っていたようだ。座布団に埋まった依月は額を抑えながらぶうぶう抗議するも、皐月は無視して立ち上がった。
「ま、その生徒様が舐めた態度だし、私は私のやり方を貫くということで」
「はいはい。結果が伴えば私から言うことはないよ」
「さつ姉、いつもの10倍痛いんだけどー!?」
*
庭に生えていた雑草は、幾度となく演舞によって踏まれ、緑色のじゅうたんと化していた。
あれから更に数日。祭りまで残り二日となるが、依月は相変わらず練習を続けている。
型はもう完全に覚えて、流れるように踊ることができるようになった。だが、相変わらず皐月の表情は芳しくない。
あれから徐々に、少しずつ二人はぎくしゃくしていった。依月は心をこめることに囚われすぎて、皐月は自身の教え方に囚われすぎて、それぞれ空回りをしていることを自覚していた。
直前の舞を最後まで見て、皐月は言う。
「おまえの踊りには、どうやっても魂が見えてこない」
依月は歯噛みした。悔しい気持ちではあるのだが、だからといってむきになっても踊りが上達するわけもなく。
この数日、依月は色々と試したのだ。
大袈裟に動いてみた。しかし繊細な動きが死ぬと皐月に怒られた。
感情の赴くままに動いてみた。しかし音楽の緩急に合わなくなった。
とにかく全力で動いてみた。いつも通りでしょと言われた。
静かに平坦に動いてみた。逆効果でしょとツッコまれた。
心をこめる突破口になるかもと、自身の代名詞ともいえる『世界の声』に耳を傾けながら踊ってみようともした。だが、結果として注意力散漫になってしまい、踊りも声を聴くのも全く上手くいかないという有様だ。
その時の皐月の呆れようは筆舌に尽くしがたい。
皐月も皐月で、色々と口出しはした。
自身の過去の例が依月に向かないことは承知していた。なので、依月らしい舞への想いを連想し、こうではないかと伝えたり、このメロディのときはこういう感情が向いていると分析してみたり。
しかし依月にはしっくりこないようで、首をひねりながらも頑張って模倣しようとし、うまくいかなかった。
弥美や秦月も祭りの運営で忙しく、二人の状況は偶にしか見れていない。が、姉妹の空気が悪くなっているのは感じていた。食事時や夜など、空き時間にどうにかしようと口出しするも、皐月が自分のやり方を貫くと言った手前、最早あまり効果はなかった。依月はやることなすこと否定されるので、アドバイスを受けても自分の中の答えが見えなくなってきていた。
一家に不穏な空気が漂う。
歯車は噛み合わないまま、闇雲に時間だけが過ぎていた。
「ねぇさつ姉、もう何が悪いのかわかんないよ」
半ば投げやりな言葉だが、依月の心そのままである。受け取った姉は、頭の後ろを一つ掻くと、依月から目を逸らしながら答えた。
「……いっそ、もうこのまま舞台に立ってみるのもいいかも。別に踊れてはいるし、私が頑固になってるだけかもしれない」
依月は大きく戸惑った。
皐月が諦めた、というその事実に。
「で、でも自分でもなんか違うなあって思うんだけど……何が違うのかわかんなくて……」
言い訳がましく口をもごもごさせながらこう言うも、皐月はこちらを見ようとはしなかった。
「……もう夕飯の時間だし、今日は切り上げようか」
依月を一人残して、皐月は家に上がっていった。
残された少女は、入り込んでくる煩わしい斜陽をちらりと見上げて、とぼとぼと後を追うのだった。
その夜、依月は姉に見放されたショックでなかなか寝付けずにいた。
突然諦めた皐月へというよりは、要領の悪い自分への小さな怒りと情けなさ。どう足掻いても姉には勝てないという悔しさ。こんな中途半端な出来で踊らなければならないという恥ずかしさ。
いろいろな黒い感情が依月の脳内を駆け巡り、布団の中で一人すすり泣いていた。
これまで上手くいかなくても、なんとかなるとポジティブでいられた。でも、今回は皐月の諦めの入ったあの表情がこびりついて、駄目だった。
寝苦しい夜はあまり経験がない。お気楽でマイペースで陽気な依月にとって、はじめての挫折だった。苦悩するのもはじめてだし、本気でなにかに打ち込んだのもはじめてである。
ゆえに、自分がどうすればいいのかわからない。
明日の朝を迎えるのが怖かった。また皐月に教えてもらうのが怖かった。
このまま明後日の本番を迎えるのが本当に嫌だった。
でも、だからといって時は止まらない。踊りは上手くならない。世界の無慈悲さに押しつぶされそうな少女は、丸くなって耐えていた。
ふと気が付くと、無意識に『世界の声』に耳を傾けていた。
夜は大半の動物たちが眠りにつき、こうもりや夜行性の昆虫たちなどが元気いっぱいに活動している。木々は多くが眠っていて、かわりに風や雲の声がよく響く。
また、深夜は見えざる者が現れる。死した動物や木霊たちだ。そうした世の理を外れたものたちが怖くて、普段は発動しないように気を付けているのだが、孤独に耐えかねた少女はそれらの楽し気な声にさえ縋るしかなかった。
霊たちは、祭りを楽しみにしているようだった。人が多く集まる場所は、寂しく漂う霊たちにとってもにぎやかで、憩いとなっているようである。
楽しそうな雰囲気にあてられて、依月は泣きながらも微笑んでいると、自分のすぐそばに、いつの間にか何か大きな意識が寄ってきているのを感じた。
思わず身を強張らせる依月だが、その意識はまるで依月を労わるかのように、優しい緑の音色を発していた。
「……だれ?」
小さな声で問うてみたが、意識はふわりと優しげに揺れただけで、答えを返してくれない。
不思議な気持ちでその意識を感じていた。悲しさや黒い感情は、いつの間にか無くなっていた。
なにも聞こえなかったはずなのに。
どこか懐かしい声がする気がした。
依月は明日、もう一度だけ頑張ってみよう、そう思ったのだった。