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君を愛することはないとのことですが

 結婚初夜、寝室のベッド端にちょんと腰掛けるルーシェに向かって、クリストフは深く息を吸い、言い放った。


「つまり、君を愛することはないということだ」


 その宣言通り、首が苦しそうなほど締まった襟元に、乱れひとつない上着とシャツ。決して体の関係など持たぬと決意したその姿は、“何もなかった”と侍女やメイド達にアピールするのに充分だ。


 それこそが狙いだというように、クリストフはサイドテーブル脇で直立不動のままだ。グリーンの鋭い瞳は、ルーシェをまっすぐに見つめ続ける。


「さらに付け加えるならば、数年後に離婚することも考えている」

「離婚、ですか」

「離婚事由についてこれぞという提案があれば聞くが」


 オウム返しすれば、早口に言葉尻を浚われた。


 ルーシェには、離婚の希望なんてない。肩を竦めて返すと、クリストフはしかめ面に変わる。


「……今晩はこれで失礼する。長居しては要らん噂も立つ」


 室内にはカツンとブーツの音が響く。ルーシェがもう一度声を上げる間もなく、クリストフは部屋を出て行った。


 ――愛することはない、と宣言されるとは。


 まさかあんなことを言われるとは思わなかった。背中からベッドに倒れ込みながら、そっと目を閉じる。


 ツヴィルグ伯爵家が、この国のマスティ侯爵家と姻戚関係を結ぶと決まったのは、もう半年以上前のこと。


 それよりもっと前に、海洋利権を巡る小競り合いが戦に発展し、ルーシェの国は隣国に大敗を喫した。形では和平協定が結ばれたが、その当時は、隣国に海洋利権をほとんど奪われたようなものだった。


 それが一世代経て、両国は真に和解したと言える状況に近付きつつあった。問題が生じたのはその最中――過激派が隣国侯爵家の襲撃を試みたのだ。


 幸いにも侯爵家の人間は無傷であった。そのうえで侯爵家は、様々な利害関係を勘案し、その事件を明るみにしなかった。しかしそれで溜飲が下りるかは別の話。対外的には“さらなる親睦の証”、実際には“人質”として、穏健派筆頭のツヴィルグ伯爵家が、その娘のルーシェをマスティ侯爵家に嫁がせることが決まった。


 そんな経緯だから、クリストフとの結婚は非常に冷え切ったものになると予想していたが。


「これはさすがにちょっと予想外……」


 ルーシェは思わず呟いた。


 半年前に出会ったときもそうだった。夏日だったというのに、クリストフは寸分の隙もなく藍色の紳士服に身を包んでいた。もちろん、ルーシェは暑かろうが寒かろうが正式なドレスを着こむほかない、なにせ人質として嫁ぐ側なのだから。しかしクリストフは、言ってしまえば立場が上なのだから、略服でも着て横柄な態度に出てもおかしくなかった。


 それをそうさせたのは侯爵家の矜持だけでなく、クリストフ自身がカタブツと言っていいほど真面目な性格だからでもあるだろう。政略結婚の顔合わせとして出会った日、クリストフは、必要以上にはルーシェを見ず、この婚姻を通じて図られる便益に耳を傾け、時に鋭く質問を投じるなど、外交を担う侯爵令息としての役目を一ミリも逸脱することがなかった。


 それは以後半年間の交流中も、今でさえも変わらない。結婚披露宴では注意深くその横顔を観察していたけれど、クリストフはぴくりとも笑わなかった。なんなら挨拶以外に微動だにしなかったので、その金髪が風にそよがなければ蝋人形かと思っただろう。


 ……というのは、いいとして。下唇に力を入れた。愛することはない――その言葉を反芻する。しかも数年後には離婚。


「……どうしたものかしら」


 この政略結婚は大変価値あるものなのだ。決して、離婚などという結末に落ちてはいけない。しかしそこには、予想の斜め上の障害が転がっていた。



 社交界という対外的な場では、クリストフは決してその内心を明らかにしない。


 貴族を招いた華々しい夜会の場で、クリストフはルーシェの手を引き、妻だと紹介する。ルーシェの白銀の髪とブルーの瞳はこの国では珍しく、人々は挨拶がてらその姿をじっと、ときには不躾に見つめた。


「……いやはや、驚きましたな。クリストフ様のお相手が、このような方になるとは」


 そう口にする老齢の伯爵は、すでに髪も眉も真っ白だが、瞳はグリーンで、髪にも少し金が残っている。クリストフと同じ、この国でありふれた色だ。


「確か……ツィンク伯爵家、でしたかな」

「ツヴィルグ伯爵家のルーシェです、伯爵」


 クリストフがその鋭い双眸を更に鋭く細めながら訂正した。


「これはこれは、失礼いたしました、クリストフ様。ツウィグル伯爵……確か、穏健改革派の筆頭でしたな」

「ええ、いかにも」

「といえば、どうですかな、穏健派は改革を進めているようですが、既に数年経過しております。ご夫人とも相談のうえ、打開策を考えては」


 ふぐふぐと伯爵が髭の裏で怪しく笑う。つまり彼は「穏健派の改革が遅々として進まぬゆえ、いっそのこと穏健派と共に過激派の粛清を進めては」と示唆しているのだ。


 しかし珍しいことではない、ルーシェの国との関係を「和平」ではなく「支配」に変えようと画策する貴族はいくらでもいる。


 クリストフは軽く顎を引いた。


「貴重なご提言、感謝します。もちろん、私が婚姻したのも何かの縁。手は打つつもりです」

「そうでしょうとも。その時が来ましたら、この老体に鞭打つのも構いませんからな」


 はははと、軽く笑い、伯爵は立ち去った。クリストフはしばらくその背中を見つめていた。


 似たような挨拶が何度かあり、結婚後初の夜会としての顔見せができた後、クリストフはようやく食事を手に取った。ルーシェも手を伸ばそうとして、まだ見慣れない料理に惑う。


「母国の味が恋しいか」


 ルーシェは人質、厨房に自らの使用人を引き入れることなど叶うはずもなく、その舌は異国の味に慣れるしかない日々だ。


 ルーシェは「そうですね」とどちらともとれない曖昧な返事をする。クリストフは冷たい目でそれを見下ろしたが、それ以上は聞かなかった。


 代わりにルーシェをバルコニーに誘った。ふう、と煩わしそうに溜息をつきながら、眉間の皺をほぐす。


「これでしばらく夜会にも出なくていいだろう」


 やっと苦行が終わった、と言いたげだった。当然だ、愛することはない宣言までしているのに、仲良し夫婦ですと腕を組んで歩くのには辟易もするだろう。


「私は構いませんよ、クリストフ様。夜会にご出席なさるのに、結婚したばかりの夫人がいないというのは体裁が悪いでしょう」

「君が構うか構わないかではない。俺が構うと言っている」


 クリストフはしかめ面を崩さず、なんならいささか苛立った口調だった。


「もちろん対外的に仲良く振る舞う必要はあるが、そう毎度毎度顔を見せることもない。君は病弱だという設定でもつけておくべきだったな、そうすればこんな風に夜会に連れてくる必要もなかっただろう」

「しかし病弱な娘であれば侯爵家が娶る相手でないとされた可能性があります。この婚姻は破談になったやもしれません」

「……まるで他人事だな」


 ふん、とクリストフは鼻を鳴らす。ルーシェはその横顔をじっと見つめた。


「……先日の宣言後、心変わりはないのですか?」

「どの宣言だ」

「私を愛することはない、という宣言です」

「無論」


 言葉数短いクリストフは、その一言だけで口を閉じる。ルーシェはじっと黙り込んだ。


「……そうですか」


 似たようなやりとりは何度か続いた。クリストフの態度も言葉も、時間が経過してもまったく変わることはなかった。


 同様に、二人の白い結婚にもまた変化はないままであった。


 だからその夜、ルーシェはクリストフの寝室に夜這いをかけた。


 薄いシュミーズドレスで寝室に現れたルーシェに、クリストフは跳び上がるほど驚いた。まさか大人しいルーシェがそんな大胆な行動に出るとは思わなかったのだろう、正直、ルーシェにとっては笑い出してしまいそうなほどの驚きようだった。


 クリストフは慌てて明かりをつけると、まるで自らの貞操の無事でも確認するようにその夜着の胸元を握りしめ、自分の姿と、さらに自分のベッドに乗っかったルーシェを見比べる。


「――何をしている!」

「だって政略結婚ですもの」


 対してルーシェは、しれっと言ってのけた。


「対外的には仲の良い夫婦で通しつつ、中身は白い結婚で数年後には離婚……半年ほど前、クリストフ様はそうおっしゃいましたが、そう上手くいくでしょうか。人の口に戸は立てられぬといいます、いくら侯爵家の侍女達の口が堅く、現状問題なく進んでおりますけれども、不仲の秘密を数年間抱えられるでしょうか」

「だからといって寝室に忍び込む者があるか!」

「だから、せめて夜くらいは共に過ごしてはと話しているのです」

「そんな格好で近付くものじゃないだろう!」


 ずいとルーシェが迫れば、クリストフはその二倍の距離を取った。焦りの浮かんだ顔を見て、さらに畳みかける。


「白い結婚は数年後の円満離婚のためでしょうけれども、ご安心ください、政治力さえあればいくらでも離婚事由はつけられます。ですから、今こそこの政略結婚を綻びないものにしておくために、既成事実は作っておくべきです」

「……君は」


 クリストフは一度絶句した。まさかルーシェにこんな一面があったとは、そうとでも言いたげだ。


「……君は、本気で言っているのか」

「ええ、もちろんです」

「……俺は君を愛することはないと言ったはずだ」

「これが私の反論です」


 とんでもない格好で毅然として言ってのけたルーシェに、クリストフはいやいやいやと首を横に振った。


「……何を、考えている」

「もちろん、我が国とこの国の恒久的な和平と、侯爵家の繁栄を願って。あ、いえ、この私が正直に申し上げますと」


 にこりと、ルーシェは手を重ねて小首を傾げながら微笑んだ。


「クリストフ様を恋い慕う心もございますので、政略結婚をだしに既成事実を作ってしまおうという魂胆もございます」



 ルーシェとクリストフの婚姻が決められた後、二人は何度か顔を合わせた。


 なんて真面目そうな人。ルーシェがクリストフを見た第一印象はそれだった。ワックスでかきあげた金髪、真夏でも隙なく着こんだ紳士服に、にこりとも笑わぬ目と口。何がそう不機嫌なのだろうと思ってしまうほどの仏頂面でもあった。


 二度目に会ったときも同じだった。それは政略結婚を少しでもスムーズに進めるための会談で、両家の計らいで二人は侯爵家の庭園を並んで散歩した。


 その庭園に、季節外れの花が咲いていた。


『綺麗ですね』


 言いながら、ルーシェは花を撫でようと手を伸ばし、その花を囲んでいた別の草で腕を切ってしまった。ピイと赤い線が走り、あらまあ、とルーシェは呑気に声を上げた。


 その腕をクリストフが素早く掴んだ。


 驚いて見上げると、クリストフが自分の襟から大判布を抜き取ったところだった。


『あの……?』

『大事になってはいけない。そのドレスが汚れてもいけない、すぐに手当てしよう。いやまずは水で流そう』


 いやあ、ただの数センチの、しかも浅い切り傷ですし。ルーシェはおっとりとそう口にしようとしたのだが、クリストフは素早く甕一杯の水を持ってこさせ、じゃぶじゃぶとルーシェの腕を洗い流した。


 だが、そのせいで逆にルーシェのドレスの袖が濡れてしまった。クリストフは「しまった」とその不愛想な顔を青くした。


 政略結婚の続きにある交渉の場で、相手の服を汚すなどあってはならない。


『すまない、淑女の服をこのように乱雑に……すぐに着替えを手配させる』


 しかし、クリストフが慮ったのは、自身の立場でなくルーシェのことだった。


 もちろん、力関係に鑑みれば、クリストフがそう狼狽する必要はない。その意味では、この場ではルーシェを気遣うほうが保身の観点からも有益。それはルーシェも一瞬で判断できたことだ。しかし。


 なんて、真面目な人。まるで軍の指揮でもするように素早く指示を飛ばすクリストフに、ルーシェは、立場も忘れて笑ってしまった。


 その笑いついでに、もう一方の袖を甕の中に突っ込んだ。クリストフが面食らう前で、びしょ濡れの袖をパタパタと振った。


『今日はとても暑いので、少し涼みたくなってしまいました』


 微笑むと、クリストフは少し困ったように、しかし少し頬を緩め「そうか、そうであれば、よかった」と頷いた。


 その後も何度か顔合わせがあったが、クリストフは常に、人目のあるところでは仏頂面を心掛けているようだった。国のために重大な施策に及ぶというのに、そこに臨む者がにやにや笑っていては示しがつかん、とのことだった。だが実際には不機嫌なことなどなく、二人で話しているとき、声は終始穏やかで、低いそれは心地よく、最近読んだという本の話をよくしてくれた。クリストフばかりが喋っていると、「君が最近気になったものはあるか」と尋ね返してくれた。会話の中でルーシェが好きだと話した花を次回に持ってきたし、かと思えば誕生日が過ぎていたことを知って、その眉間に深い皺を刻んで苦悩していた。


 本当に政略結婚なのだろうか。ルーシェは何度も訝しんだ。しかし何をどう考えても、ルーシェとクリストフの婚姻は重要な政略結婚でしかなかった。


 やっとのことで、和平という名の援助を受けるに至った母国。過激派を鎮圧して穏健派が政権を握ることで、ようやく平和が訪れようという国が、再び過激派に脅かされそうになったところを、なんとか隣国侯爵家に頼み込んでその命綱を握ってもらった。ルーシェが侯爵家を握っておかねば早晩沈む、この国の命運を背負って嫁に行け――それがルーシェに課せられた使命だった。


 なにせ、ルーシェは穏やかな笑みを浮かべる裏で権謀術数をめぐらせる伯爵令嬢だ。


 穏やかな笑みを湛えてばかりなので誤解されがちだが、ルーシェのその性格は穏やかとは言い難い。もちろん苛烈な性格の持ち主というわけではないし、単なる悪口雑言であれば微笑んで聞き流す。その意味では確かに“穏やか”だが、それで済ませるには頭が良すぎる。相手の言葉の裏を読み、自らの言葉の裏を読ませて裏の裏を読ませず、社交界で微笑んでいるかと思えば、あちらこちらから弱味や情報を仕入れて帰ってきて「あちらの伯爵には田舎に帰っていただきましょう」と悪女さながら差配する。一度読んだものは書物の名前から記載ヶ所まで含めて頭に入り、国の勢力図を脳内で描き、現実をそれと同じに描き替えてしまう。穏健派が過激派を抑え込むばかりか侯爵家と手を組むまでに至ったのも、実はルーシェが仕組んだことだ。


 そんな彼女自身ほど、この政略結婚に向く者はあるまい! 誰もがそう思った。異国の容姿を携え隣国に嫁げば苦労もあろうが、彼女ならばきっと穏やかな笑みを浮かべて済ませるに違いない。一方で、侯爵家と政略結婚しても、疑いようのない穏やかな笑みですべてをいなし、さらに謀略に呑まれることもなく、それどころか呑み返す。穏健派はそう信じた。


 そして現にルーシェは、政略結婚の場に引きずり出されても、穏やかな笑みを絶やさなかった。そして裏でこの政略の手札を選び、クリストフの真意を探り続けた。侯爵家に何を譲ってよく、何を譲ってはいけないか。侯爵家がツヴィルグ家の手を離さずにいたくなる施策とは何か。


 そしてクリストフが些細な切り傷に誠意を見せるのは、何の企みか? 袖を水浸しにしたルーシェを見て頬を緩めるのは、演技か? ルーシェが好きだと話す花を贈るのは、会食で決して気を抜かずにいることの証左か? 本の内容ばかり語るのは、外交上の秘密を不用意に漏らさぬための予防線か?


 しかし、半年間かけて探り続けても、クリストフはただ無愛想で真面目な青年のままだった。


 そうして遂に結婚した夜、ルーシェが「まあ政略結婚だしさすがに……」と寝室で待っていると、やってきたクリストフは、扉の前に棒立ちになった。かつてないほど、その眼光は鋭く、口は不機嫌そうに曲がっていた。


 なるほどやはりこの男、本心を隠していたらしい。ルーシェは感心した。ルーシェの国に対する援助が、この国にとっての一大事であることを、侯爵令息として弁えていたのだろう。だから初心にルーシェを気遣うふりを続けていたのだ。半年間それを気付かせなかったとは、恐れ入る。


 だとして、どうするか。子どもが必要とは言わないが、政略の観点から結びつきは必要だ。少なくともこの体くらいは捧げなければならぬと覚悟はしてきたが、逆にそれを拒絶されるとなればどうすればよいか。


 もしかしてこの男を籠絡せねばならないのではないか。だとしたら少々苦手分野なのだが――そう悩んでいたルーシェに対し、突っ立っていたクリストフは、おもむろに口を開いた。


「率直に言おう、ルーシェ。……俺は、君ほど美しい女性を知らない」


 ……何? ポカンと、ルーシェは間抜けに口を開けた。いま、この男は、なんと言ったのだ?


 クリストフは、いかにもカタブツと言わんばかりの真面目な顔に僅かながら朱を散らし、しかし真剣にルーシェを見つめていた。


「たったの18歳で隣国に単身で嫁がされることが決まったというのに、決して笑みを絶やさず、それどころか逆に俺を気遣ってみせる……君のその芯の強さを、俺は美しいと思う。もちろんその姿もだ。雪原のように美しい髪も、空のように鮮やかな瞳も、君の国ではよくある色だというが、君ほど、その色が似合う者はいないだろう」

「あ……ありがとう、ございます……?」


 困惑するルーシェの前で、クリストフはやるせなさそうに眉根を寄せた。


「そんな君ならば、こんな政略結婚をせずとも、真に愛する者と出会い、将来を誓い、幸せになる未来があったはずだ。君のような女性が、国のために犠牲になっていい理由などない。だから、この結婚は仮初のものとする」


 続く説明によればこういうことだ。クリストフは、恋愛結婚した両親の姿を見て育った。もちろん、彼らも最初は政略によって引き合わされたが、結婚までに真に心惹かれあった仲だという。一方で、単なる政略結婚ゆえに、「夫」に続く語は「早く死ね」の夫婦を何組も見てきた。政略結婚とはなんと不幸なものか――幼いクリストフはそう思うに至った。


 もちろん、今はその考えを少々改めている。政略結婚をするからといって不幸になるとは限らないし、恋愛結婚の末も幸せなものばかりとは限らない。しかし、せめてそのどちらかを選ぶ自由はあっていいと思っている。そんな折、ルーシェに出会い、クリストフを庇って自ら袖を濡らした、その機転と可憐さに衝撃を受け、こんな少女が政略結婚をしてよいわけがないとショックを受けた。せめて、恋愛を楽しむことも知っていいのではないかと。


 しかし、彼女が幸せになるためにこそ、この政略結婚は必要な礎なのだ。その事実に苦慮し、葛藤し、クリストフは白い結婚という結論に至った。穏健派が国を治め、その情勢が安定したとき、ルーシェを国に返そうと。そのときの言い訳は、情勢安定までその身の安全を確保すべく「偽装結婚」という形で侯爵家で預かった、とでもすればよい。二人が夜を一切共にしていないことを侍女達が証言すれば、ルーシェの純潔も保証されよう。


「もちろん、対外的には仲のいい夫婦を演じる必要がある。しかし外の目がある場のみで構わない。侍女達にも口止めさせる。俺達は白い結婚であったと――次の結婚の障害にならぬ形だけの結婚であったと。もちろん、それを明かすのは、君の国が安寧を取り戻した後だ」


 突飛な提案に、さすがのルーシェも開いた口が塞がらなかった。しかしクリストフはいたって真面目な顔をしている。


「君には不便をかけるが、俺が考えついたのはこの程度だ。もし異論があれば聞こう」

「……夫婦生活はないということですか?」

「そのとおり。つまり、君を愛することはないということだ」


 結婚初夜のベッドを前にした文脈に、真面目なクリストフの言葉選びを勘案すれば、その意味は“決して体の関係を迫ることはしない”ということだろう。それどころかクリストフは続けて「数年後には離婚」と言い出した。ことが済んだらルーシェを解放して、好きな男と結婚できるように手筈を整えてやるという。


 なんて、真面目な人。何度となくそう思ってきたルーシェは、その日は続けてこう思った。


 なんて、素敵な人! ルーシェはクリストフの大真面目な性格に胸をときめかせた。自分は将来政略結婚して、腹を探り探られの疲れる生活をすることになると思っていた。まあそれも伯爵令嬢に生まれた自分のさだめ、というか今更別の生き方をできるとも思わない。そう諦めていたが、クリストフはなんて実直な青年だろう! 仮にそこも含めてすべて演技だとしても構わない、なにせこの自分が読み切れぬ相手となれば、逆のその裏を読む努力も必要ないのだ。なんて素敵な人が、自分と政略結婚してくれたのか!


 そうして目を輝かせたルーシェとは裏腹に、クリストフは表情筋を引き締めた。


「今晩はこれにて失礼する。長居しては要らん噂も立つ」


 まさしく白い結婚の策略が第一歩にして水泡に帰してしまう。そう気遣い、クリストフは部屋を出て行った。


 心ときめかせていたルーシェは、そのことに呆然としてしまった。冷え切った政略結婚をどう乗り切るか、逆に何を利用しなければないのか、あれやこれや思索を巡らせていたが――これは、さすがにちょっと予想外。


 以後のクリストフは、宣言のとおり対外的には仏頂面を貫いた。たまに二人になると「母国が恋しいだろう」とルーシェの国に因んだ料理やドレスの話をして、作ったり取り寄せたりすることを提案した。社交界でルーシェがその容姿を不躾に眺められれば憤慨し、しかしそれを表に出すわけにはいかず「いっそのこと病弱設定にすれば君がイヤな思いをすることもなかったのに」と口惜しんだ。ルーシェは構わなかったが、クリストフが構うのだと言って譲らなかった。


 また、クリストフとルーシェの結婚で国は持ち直し、瞬く間に平和な日々を取り戻しつつあった。侯爵家が手に入れたのは、当初の約束どおり鉄道利権の一部のみ。侯爵家の出資によって鉄道敷設のための雇用が生まれ貧困が解消し、その人の動きが生じたことで暗闇の犯罪も減少した。より重大な海洋利権は手元に残しておいたお陰で、鉄道事業に必要な人や物の輸送で潤っている。このまま輸送問題が解決すれば保存方法に難のある産業も発展するだろう。


 さて、そういうわけで、クリストフに裏がないことは充分過ぎるほどに分かった。もういいだろう、ルーシェはそう判断した。今度は、クリストフとの結婚を楽しむターンだ。


 そこで、あの手この手でこの結婚を白から赤だの黒だのに変えてみようと試みた。しかし立場は文脈を作る。ルーシェが何を言っても、それは「侯爵家と円満にやっていきたいツヴィルグ家」の都合のいい言葉で、真意は伝わらず、クリストフは「君が政略結婚の犠牲になる必要はない」の一点張りだった。権力を前にした人を操るのは容易だが、人の気持ちそれ自体を操るのは困難だ、というのはルーシェが心に刻んでいることだった。


 というわけで、強硬策に出た。それが本日の夜這いである。


 一通り説明したルーシェは、固まったクリストフに再度ずいっと迫った。


「クリストフ様。私はあなたの大真面目な性格に惚れ込みました。どうぞ、白い結婚と言わず、私の純潔をいただいてください」

「じゅ……」


 クリストフは再び絶句した。


 真面目なこの青年のことだ、ルーシェがこんな格好で迫ったところで、好意がなければ手など出してこないだろう。


 クリストフがルーシェに「庇護」に近い好意を抱いているという自信はある。しかしそれでは足りない――クリストフ自身に自覚させることも含めて。ルーシェは、少々わざとらしいながらも、視線を逸らしてしおらしく振る舞ってみた。


「もちろん、政略結婚ですから……クリストフ様が私を好いていないのは理解しております」

「そんなことは言ってないだろう!」

「ではお好きなのですか?」


 素早く視線を戻すと同時に顔を近づけると、クリストフは首をのけぞらせながら頬をひきつらせた。


 今度はじっと黙る。クリストフは唇を引き結んだままだが、この答えは畳みかけてはいけない。譲れない。クリストフ自身に言わせねばならない。


 ややあって、重苦しく、おもむろに口が開いた。


「物事には……順序というものがあるだろう」

「順序ですか」

「順序だ」

「私達、一年以上前に顔を合わせ、結婚し、既に披露宴ばかりか夜会でも顔見せを済ませました。なんなら私は恋にまで落ちました。これ以上何の順序が?」

「……足りんだろう」

「だから何がです?」


 訝しめば、クリストフの手がルーシェの腰を抱いた。


「……俺が君に恋した話を、まだしていない」


 かくして、その政略結婚は両国に、そして両人にとって大変価値のあるものとなった。

リハビリもかねて、ゆるくハッピーエンドを書きたくなった次第です。

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ツギクルバナー
― 新着の感想 ―
あまりに2人が可愛すぎて、コメント欄がみんな親戚のおばちゃん顔になってて笑ってしまった
もう、ただの恋愛結婚ですがなwww
この拗らせ童貞小僧メンドクサイなw
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