空鯨は初恋のうわさを食べきれない
その図書館には、奇妙なうわさがあった。
はじめはお化けの目撃談ひとつだったうわさは、種子が細胞分裂するようにぽこぽこと増え、いつしか数十にも及びながら未だに増え続けている。
海が原町の外れにひっそり立つ私設図書館の、たった二人の職員が把握し否定するにはいささか多すぎたが、「図書館だと認識されているだけで十分ですよ」というのが館長の榊原の口癖だった。
「ほとんどが実害のない噂ですから」
老齢にさしかかった榊原はそう言いながら、たいていはノートパソコンで本業の仕事を忙しくしている。
榊原の半分以下の年齢である女性司書・青井は、近頃慣れてきた特殊な書架を整理しつつ応じる。
「確かに、うわさも草もきりがないですからね」
西洋風の瀟洒な外観も、図書館が建つ、海を望む急勾配の丘をうねる細い道も、半ば草で覆われてうわさの発生に一役買っている。先週久々に草むしりをしたものの、侵略的外来種の相手で精いっぱいだった。うわさ同様、自然発生する生命の勢いには敵わない。
そんな風だから、職員二人の、半分と半分の労力で運営できていた。玄関扉にかかっていた「開館中」の札は、この町特有の鯨風のせいで釘で打ち付けられたままでも不便がない。
むしろたまに度胸試しに来る子供たちの相手をしようとしては、日除けのカーテンを覗かれて「お化けだ」と逃げられていた。
ただ実はコの字型をした図書館の裏手、腰壁より上は天井まで大小の窓で埋められている庭に面した一室にだけは、カーテンが引かれていない。
中央には透明素材でできたゴシック体の「うわさ」の三文字が、成人男性ほどの高さに積み上げたような形で飴色の床に立っていた。
ガラス越しに降り注ぐ夏の光が、「うわさ」に満ちた透明の液体の中でたゆたう白い靄と、大小の結晶の変化をゆっくりと見せている。
一見して天気管に見えるそれを、榊原は「うわさ管」と呼んでいる。
なぜここにあるのか、去年転職してきたばかりの青井は知らない。
けれど、周辺地域から海が原町に吹き溜まったうわさが最も集まり、計測しやすいのがこの丘で――私設図書館の正式名称は、海が原町巷談図書館といった。
初代館長兼オーナーだった研究者の意向で、収集・整理・保存されている資料のほとんどが、うわさ・俗説の類である。
そして密かに、うわさの管理をも行っているのだった。
しばらくの間は静かだったうわさ管の中身は、数日前から雪のような結晶がちらつくようになり、今朝は大きな塊をつくっていた。
こうなると大きなうわさが町中に広まる合図で、それを食べに半透明の空鯨が、高高度から町上空にやってくることになる。この時、うわさが手強いほど大きな鯨が訪れるのだが、もし乱闘でも始まれば鯨風が巻き起こって地上も大わらわになるのだ。
「今度はどんなうわさでしょうかねえ」
今朝、館長である榊原は小さな老眼鏡を指で押し上げると、ちらと隣に向けて微笑んだ。なでつけた白髪が紳士めいているのに、こういうときは少年のような顔になる。
「大人しくて綺麗なうわさなら嬉しいですね」
「青井さんは鯨の潮を集めるのが趣味でしたね」
空鯨は、食事終了の合図に潮を吹く。これに混じって地上に降ってきた欠片の収集と工作が、青井の数少ない趣味だった。
「ええ、梅雨の『雨垂れ』は掘り出し物でした」
応えれば隣の部屋から抗議するような、ごとりごとりという音がした。
あれは『狼と七匹の子ヤギ』の狼だ。一週間前に本から出てこようとしたので、石を重しに寝かされたのが気に食わないらしく、一日三回は騒がれていた。
「今度やったら特別室行きだからね」
青井が声を投げると、音は止む。
そんなやりとりがあった昼、数週間ぶりの来館者があった。
細い葉っぱをセーラー服の背中や三つ折りの靴下に付けた女子高生は、律儀に扉をノックしてから開口一番こう言った。
「うわさを管理してくれるってうわさは本当なんですか? ……私を、私から出るうわさを消してください」
***
「図書館のうわさのおおよそ半分はただのうわさで、半分は本当です」
受付・返却カウンターの中で、青井は手で丸を作りパンを割るような仕草をした。
「本棚の本を読み切らなくても帰れますし、白雪姫の七人の妖精を強制労働させてもいません。永遠の舞踏会の観客の役も、サインが必要で労働基準法内ですし――危険なうわさは、安全に管理されています。私たち職員と、空鯨によって」
青井はいくつか例を挙げながら、エプロンの真新しい名札についた「うわさ物取扱資格者」を指さした。
空鯨を追ってこの町に引っ越し・転職してきた彼女は、先日この珍しい――この狭いうわさ業界にだけ伝わる――民間資格を取ったばかりだ。
「空鯨……ってあの、時々空を泳いでいるっていう鯨のお化けですか? 飼うなんてできるんですか?」
小林奏音、と名乗った真面目そうな女子高校生の眼差しは、名札と顔を思い詰めたように行き来した。
青井がエプロンのポケットから眼鏡をかけて、少女を頭の先からつま先まで眺めると、成程、水泡のような噂が水槽の水草のようにひっつき、時折ふわりと離れていく。
榊原に視線を向けると頷かれたので、彼女はカウンターを回って女子高生を奥へ促す。
「飼うというより、交流ですね。ちょうど食事の時間ですから、行きましょうか」
おっかなびっくりの少女を伴い、青井は図書館の奥へ誘った。
入り口周辺の低い棚には一般書や児童書が並べられていたが、奥に行くにつれ書棚は高く見慣れぬ古い本が増えていく。
うわさ管のある部屋の前で立ち止まると、すぐ脇の壁にかかった、床につく長さのカーテンを開く。
中庭に続く隠れた扉を開けば、潮の匂いが吹き込んでくる。
と同時に天井から吊られた、平らで歪な水滴型の飾りが頭上で揺れて空や草の色を反射させる。いや正確には、漢字の薄青い「『雨』のてんてん」は明朝体だ。隣の「さんずい」はゴシック体。大小、太字、イタリック。
空鯨の潮から取れた「言葉の欠片」を潜って中庭に出ると、スズメノカタビラが白い花を揺らす中に植木鉢が並んでいた。
そしてその辺り、ちょうど三メートルほどの範囲の空中。楕円形の水の塊を浮かべたように、滲んだ境界線の中の景色が歪んでいる。
「ああ、もう来てたのね」
少し前に大人の仲間入りをしたばかりの若い空鯨は、青井が採取して植えたうわさの種から育った、これまた半透明の木々の葉を食んでいるところだった。
近づいてその体を撫でると、鯨は少し身をよじらせる。
青井は少女が目をこらす姿に微笑した。
「これが空鯨。うわさを食べてくれるんです。近くで見るのは……勿論、初めてですよね」
「はい。だって空の上に住んでいるっていうし、大きな鯨が出るときは注意報が出るから、外に行きません」
「そうですよね」
うわさは人の目と口がある限り、どこからでも生えてくるものだ。すぐに儚く散ってしまうものもあれば、いずれ大木になる種もある。
けれど、この町ではそのうわさは信じる人が増え続け長く留まり続けると、やがて本当になってしまう。
町外で生まれ育った青井は初めて聞いたとき信じがたいと思ったけれど、「そんなに珍しい事象ではない」と榊原は言う。
他の誰かを好き、あるいは嫌いとひとたび意識してしまえば、自身でそう思い込んでしまうように。誰かの軽口に好意や悪意を見い出すように。そしていつの間にかアイドルのプライベートと称するものがネットに書き込まれ、人々に真実だと信じ込まれ、色眼鏡を通して扱われるのと同じだと。
けれど流石に、人に見える天井の染みが子供を食べてしまったりしては困る――その前に危険なうわさを食べてしまうのが、この空鯨たちだった。
うわさが手強かったり大きすぎたとき、お腹がいっぱいになった空鯨はため息やげっぷのように潮を吹く。
この潮を浴びるとその前後の記憶が数時間ほどすっぽりと消えてしまうから(この業界では、潮は様々な人の思念や概念、言葉の残滓だと言われていた)、町内放送で注意報が出るのだ――その姿を見たものは殆どいないにもかかわらず。
「それにしても、消して欲しいというのは珍しいですね。ここのうわさを信じて訪れる勇気もですし、自分のことは気付きにくいものですから」
青井が少し感心したように頷けば、彼女は手をきゅっと握りしめた。
「……再来週、友達みんなで花火大会に行くんですけど、そのうちの一人に私が恋をしてるって、噂になってて。変な噂になるのが、嫌で。……だって、わざと二人きりにするとかされたら、嫌じゃないですか」
困ったように眉を寄せる。
「そんなお膳立てみたいな真似、彼も困ると思うし」
眉間の皺がふと緩めば、〝彼〟の言葉に温度が乗り、頬に花が咲く。ぽこり、と小さな泡が生まれてまとわりついた。
「本当はそうではないから?」
「……空鯨が食べないとうわさが本当になるのも、本当ですか?」
質問に質問で返され、青井は首を横にゆるく振る。
「人の感情や記憶までは、本当にならないですよ」
それは不思議な力がなくても、起こりうることだから。
「……同じように、空鯨が食べられるのも、今あるうわさとその芽だけです」
「そっか、良かった」
はにかむように緩む目元に、ああ恋する乙女の顔だと青井は思った。彼女には縁がない、初恋というやつだ。ぷくぷく零れ出る泡にある和歌を思い出す。
――忍ぶれど、色に出りけりわが恋は。
確かにこれは、分かりやすい。
「小林さんが本当に好意を抱いているなら、その、見ていて分かるとまたうわさが立つかもしれません。そうなると一時的なものになりますが」
「花火大会の前まででいいんです」
「わかりました……ちょっと感触が独特ですから、目を閉じていてくださいね」
青井は空鯨を呼び寄せると、緊張した面持ちの彼女の後ろに回り込み、背中の中心から伸びている尾ひれに導いた。
空鯨は口を開けると、むぐむぐと先ほどのうわさの葉のように食べていく。見えている範囲のひれを食べ終えると、体に付いた泡の塊を、金魚がつつくように綺麗に丁寧に食べていく。
食べ終わる頃には、虹色に光る薄い「尾ひれ」が二枚、空鯨の体に生えて彩っていた。
「花火大会、晴れるといいですね」
「はい!」
作業はものの十分ほどで済んだ。笑顔を見せて「すっきりしました」と帰って行く奏音の後ろ姿を玄関で見送りながら、榊原は青井に告げた。
「あの子の件は青井さんにお任せします。資格も取ったことですし、そろそろ一人で依頼をこなせるようになっていい頃ですから」
「いいんですか?」
「ええ。でも油断しないでくださいね」
また来ることがあるだろうか、少なくとも花火大会までは平穏ではと思ったが、――果たして、榊原の言葉は正しかった。
翌々日以降から、うわさ管の結晶が急激に発達し始めたのだ。
慌てた青井は何か手がかりが無いかと、休日と出勤前後の時間を使って町の商店や公園を回った。
一年ほど前に海が原に引っ越してから毎日、職場と家の行き来をするだけの生活だったから知人は多くない。数少ない顔見知りの店主とする雑談はすぐ終わってしまうし、じっと立ち止まってうわさに耳を傾ければ、不審者になってしまう。
それでわざわざ駅前の珈琲店に入ってうわさ話がないか耳をそばだてた。店員に暇な不審者と思われないよう、毎回違うコーヒーを頼んでわざわざ詳しくなりたい人のそぶりまでするのは自意識過剰だろうか。
夕方、駅前のスーパーにセール時間を狙って訪れると、主婦たちが店の前で立ち話をしていた。
「来週から天気が悪くなるんだって」
「今から気圧が低くて嫌になるわね」
確かに、あれから曇り空が続いている。風も普段より強いようで、青井も洗濯物は室内干しに切り替えていた。目の前で、コンクリート塀に張ってある花火大会のポスターの端が風でパタパタとめくれて音を立てる。
この時期、海が原町で風が強くなるのは珍しくないはずだ。
が、嫌な予感がしてスマートフォンで天気予報を確認すると、向こう二週間は晴れマークが連なっている。
「まさか台風はないわよね」
その言葉はいやに耳に残った。
そして翌日もその翌日も、天気予報に反して海が原町の空には灰色の雲が分厚く垂れ込める一方だった。
――台風が来る。
そんな言葉が、日が経つにつれて青井の耳にもよく届くようになった。
「あ、うっかり洗濯物干したまま出て来ちゃったわ」
「この調子じゃ来週の花火大会も無理かもねえ」
珈琲店で、カップの中に注がれたミルクがくるくる回って溶け込んでいくのを眺めながら青井は確信を強めていく。
――本来、ひとつのうわさが本当になるまで七十五日かかる。誰かのひとつの噂ならば。
商店街で青井が支給されている眼鏡をかけると、本来ゆっくり生まれては消えていくはずの泡がぽこぽこと、次から次へと皆の口から生まれていた。空を見上げれば魚が息を吐くように上に登っていく。
今やうわさたちはアクアリウムの空気ポンプのように上空に昇り、雲と風を引き連れて街路樹を強く揺さぶるようになった。
青井は迷ったが、奏音に会いに行くことにした。連絡先は知らないがセーラー服の制服はこの辺りに一校だけだ。
夕方、校門から少し離れたところで姿を探すと、笑顔の生徒たちがぞろぞろと帰路につく中にやや猫背の背中が見えた。黒猫の尻尾のようにまとめた髪が、首筋に湿気でへばりついている。
「小林さん」
「あ……」
声を掛ければ顔を上げた彼女は、キョロキョロと辺りを見回す。
青井は目立つ顔立ちではなく有名人でもないが、さりとてあの図書館で働く職員である、と気付かれるのは好ましくない自覚はある。路地に手招きした。
「後で図書館に来てと言えればいいんだけど、大雨だと丘に登るのは危険だから」
電信柱の影に引き込むようにして言えば、奏音は困ったように首を傾げた。
「どうかしたんですか?」
「あれから変わりはない?」
「ええ、ちっとも。おかげでみんな私のことを放っておいてくれます。あとは花火大会の日に晴れればいいんですけど……」
ぼこり。ぼこり、ぼこり。
はっきりと、拳大の泡が彼女の全身から沸き立って頭上に大きな泡の塊を作り出す。
数あるうわさの中でも天気に関するものは、うわさと気付きにくい。予報も事実も予測も願望もごちゃまぜに語られやすいからだ。
そして不安も。強い願いは……不安と表裏一体だ。
「花火大会、実は、その日くらいしか、機会がなくて」
ぼこり、ぼこり。ひらり。
失礼しますと背後に回る必要もなく、彼女の背中からは金魚のトサキンのような尾びれが何枚も生えてひらひら、広がり漂っている。
「……二人で、話せそうなんです。だから、雨は、困るんですよね」
ぼこり。ふわり、花が咲く。
大きな泡から、小さな芥子のようなうわさの種がこぼれて、通り過ぎる男子高校生の背中にひっついた。見る間に小さな花が咲く。
半透明の花弁が、彼女の芍薬色の頬から散っていく。
対照的に、青井の頬は強ばっていた。
理解したのは、若い空鯨では彼女の初恋を食べきれなかったということ。彼女の奥深くに、ずっと前から根付いていた種が花咲き、尾ひれを付けていたということ。
こうなってしまえば、どうしようもない。彼女が悪いわけではないのだ。少々思いが強すぎただけで――そう、このうわさの強度は半人前の青井でも判別できる。
このままでは確実に、台風が花火大会を襲う。
「どうかしたんですか?」
「あの――」
心ここにあらず、という顔で無邪気な問いを向けられて、青井は言葉を探した。
普通の司書とただの利用者の関係なら、絵本や入門書を貸し出すことも、過去の気象データの論文を探して渡すこともできる。
でもうわさは、特に深く心に根ざした未来への不安を栄養として育ったそれは、過去のデータでは枯らせない。否定できるのは別のうわさが広まった時か、目の前に起こった現実か――。
今まで聞いた榊原の言葉を、青井は必死に思い出した。そう、「先に実現してしまえば、うわさは一旦なくなります」。
彼女はぎこちなく笑みを作ると、わざと周囲に聞こえるくらいの声で言った。
「そうね。天気予報によれば予定が早まって、明後日に大雨が降るみたい」
***
「明後日に大雨が降る」
その言葉を発した時から、空を昇るうわさの速度が増した。あちこちで尾ひれがパタパタと泳ぎ始め、呼応するように強くなった風が黒い雲をますます海が原町の空に堆積させる。
晴天続きの気象庁の予報が、何故かごくごく一部地域にだけ急速に発達している雨雲をサイトに反映させ始めたときには、分厚い雲はもう雨を降らせ始めていた。
そうして、久しぶりにあの「うわさ管」の大きな塊に相応しい、うわさの潮流が黒雲の下を流れ始めた。同時に導かれるように、空鯨の巨体が現れる。
虹のような光を反射する、半透明の流れる川。その中を、巨大な空鯨が逆さまにゆっくりと泳いで時折背と鼻を水面に、地上に向けて突き出す――あちこちにキラキラしたひれをつけた体を見せながら。
「これは久々の大物ですねえ」
ほんの少し開いた図書館の扉から、榊原が話す言葉は風に吹き飛ばされそうだ。
「花火大会と言ったら町内全体の関心事ですからねえ。海に映えるって観光客も来ますし、うちの物件も眺めがいいって、需要があるんですよ」
榊原が出す本業の話に青井が息をつきたそうな顔をすると、彼はごまかすように眼鏡を押し上げる。
「いえいえ、私も花火やイカ焼きを楽しみにしていたんですよ」
「私は焼きトウモロコシ……じゃなくて、これで大丈夫でしょうか」
「次善の策というやつです。うまくいくことを願ってますよ。お気を付けて」
「はい」
青井は頷くと、傘と雨合羽と長靴と、耐水性のリュックサックを背負って図書館から外に足を踏み出した。
彼女の計画はこうだ。
花火大会は5日後。
今日、明日中に「来る予定」だった台風を「大雨」に変えて早く済ませてしまえば、「皆の中で予想は現実のもの」になる。現実になってしまえば、安心してしまう。これ以上台風が続けてくるとは思わない。
……けれど、大きくなったうわさを追って、今、空鯨が食べてしまえば小雨で済んで不安は残ってしまう。
図書館から群青色に波打つ海を一瞥すると、青井は逆方向、山頂への道を登り始めた。晴れた日なら数分も行けば辿り着くが、ざわざわと風がうるさくて、たまの大きな雨粒をびしゃりびしゃりと、顔にたたきつけるものだから視界が悪くて呼吸がしづらい。
普段の倍の時間をかけ、仕事用眼鏡の蔓と傘を押さえつつ頂上の公園と呼ぶにはささやかな広場に辿り着いた彼女は、ベンチにリュックサックを置いて、中からハードカバーの本を取り出した。
一冊、二冊、三冊。
雨粒に構わず赤の表紙を開けば、周囲3メートルほどの空間に中世めいた舞踏会場が広がって半透明の屋根を作る。
「どうしたのアオイ?」
膝丈ほどもない、金髪をくるくるに巻いた縦ロールにピンクのドレスというお人形みたいなお姫様に問われて、彼女は早口で答える。
「ここにうわさを置かせて欲しいの。報酬は今度の舞踏会の観客役、1時間延長でどう?」
「ええいいわよ、ワインも付けてくださる?」
「……考えておく」
うわさからの提案は軽率に受けてはいけない。誤魔化しつつ続いて二冊目、バンドでぐるぐる巻きにしていた緑の表紙を開く。
重しが取れたことに気付いて、鞄の中からずっと表紙を叩き続けてきた狼がページからぐわっと半身を乗り出し、ぶはあっと息を吐いた。
「ふざけんな、何日閉じ込めておくつもりだったんだよ」
「あら狼さん、ごきげんよう」
「相変わらず不味そうなことで」
お姫様に応える狼に、青井は再び早口でお願いする。
「今から出すうわさを空に吹き飛ばして」
「まさかタダでやらそうっていうんじゃ……」
「羊の綿飴に山羊のチーズでどう? それが嫌なら特別し……」
「分かった、分かった。やりゃあいいんだろ。で、何を吹き飛ばしたいって?」
顔を歪める狼に、青井は三冊目の青い表紙に手をかけた。
その時、ぐわんと空が揺れた。高校の校舎より大きいだろう空鯨が体中に付けたうわさのひれをなびかせながら、雨雲の方へ、正確には雨雲を形作るうわさへ腹をすり寄せている。
少し、急がなければ。
「……鯨は、魚を食べるでしょ」
「そりゃそうだ」
「あの空鯨の注意をこっちに向けて欲しいの」
榊原だったら、空鯨そのものに呼びかけるのは簡単だったはずだ。けれど半人前の青井ではまず、存在を気に留めてもらうことすら難しい。
「ほら、吹いて!」
表紙を開けば、ぶわりと魚の群れが飛び出した。紙面を中心に、小さな小さな半透明のうわさの魚群が、竜巻のように渦を巻く。
ベンチに置かれた本の上から身を乗り出した狼が頬を膨らませてそれを吹けば、子豚やら山羊やらの家を吹き飛ばし揺らした童話のように、魚が空へ舞い上がっていく。一匹一匹は頼りないそれらが空鯨の方へ向かうと、空鯨がそちらへ鼻先、いや、口を向けて開いた。
うわさの川ごと魚を呑み込む――こちらへ、こちらへ。
気付いたようにゆっくり川を離れて降下してくる空鯨に、もう少し待ってと手を振ったのは届いただろうか。いつの間にか雨は激しく、半円のドーム状になった舞踏会場の外を雨の帳で包んでいた。
うわさの雲は時間が経つにつれ、雨粒という実態に変わったせいで色を少しずつ薄くしていった。
二時間ほどは経ったろうか――大雨が過ぎ去った後、青井は狼と共にベンチに座り込んでいた。疲れたから閉じてくださる? とお姫様に聞かれて強ばった指を伸ばす。
赤、青と二冊の表紙を閉じると、びちゃりと地面がぬかるんでレインブーツを汚した。
「ありがとう、もう食べていいよ」
おそらく青井よりずっと長生きな、空鯨と目が合う。丘にほんの少し突き出された半透明の巨大な口の上をゆっくりさすると、空鯨は身を捻って空に帰って行った。
薄曇りの空を舞う鯨は、残ったうわさを浚っていく。
青井の耳の中を満たしていた風が去ると、眼下の図書館と、それから更に下の道の無線機から町内放送が聞こえてきた。
「空鯨の潮吹き注意報が発令されました。記憶を失う可能性があるため、外出はお控えください。外出中の方は速やかに建物に入り――繰り返します――」
空鯨は程なく視線の先で、逆さのまま潮を吹いた。
青井は半透明の、クラゲのように光る傘の下に体を縮こめてそれを眺める。
輝く七色の潮が空からこぼれ落ちて傘を叩き地面に消えていく、たった一分ほどの幻想的な潮吹きが終わった後、彼女は泥だらけの地面を目をこらして歩き回った。
草と泥の上に転がっていた輝きに身を屈めて拾い上げる。
「――あった」
空鯨にとっては魚の骨のようなもの、食べきれなかった言葉の欠片。これは小林奏音が知って、読んできた、初恋の言葉の欠片だ。
「これは『恋』のこころ、かな」
半透明の、苺ソーダか芍薬色かといった色味をしたそれを丁寧に布で拭いて鞄にしまう。彼女がこの町に来たのは、家族が海が原町で拾ったこの言葉の欠片に魅せられたからだった。
「……物好きだよなぁ」
狼の声に開いたままだった緑色の本を振り返ると、また後で、と本をぱたりと閉じてバンドをかける。
そして注意報の解除が出る前に、町に落ちているうわさの尾ひれを集めるべく道を下っていった。
青井が今回の報告とうわさの尾ひれを綴り終え、新刊として受け入れ作業を終えたのは、終業時刻を少し過ぎた頃だった。
くたびれた体で帰路を急ぐと、何度か立ち寄った珈琲店が目に入る。
――まだ食べたことのない固めのプリン、食べていこうか。それとも夕食にナポリタン?
迷いながらもカウンターに向かうと、ここ数日で顔を認知されてしまった、男性店員の柔らかな声がした。
「お疲れ様です。今日のブレンドですが――」
顔を上げれば、視線が合う。絡む。
何故か熱くなる耳元で、微かな音がした。
ぽこり。