教養としての日本近代文学史⑥ 耽美派、白樺派、新現実主義(新思潮派、奇蹟派)、プロレタリア文学、新感覚派
【耽美派】
「スバル」「三田文学」「新思潮」の三雑誌が母体。
●雑誌「スバル」…雑誌「明星」に反旗を翻した詩人たちである、木下杢太郎・北原白秋・吉井勇・石川啄木(耽美派に属さない)などを中心とする集まりで、森鷗外の援助を受けた。享楽的、唯美的。
●雑誌「三田文学」…永井荷風主宰。
●雑誌「新思潮」(第二次)…谷崎潤一郎が「刺青」を発表。
永井荷風
〇自然主義
「地獄の花」…上流家庭の人間の暗い本能を描く。
「あめりか物語」「ふらんす物語」…渡米、渡仏の感慨
〇耽美派
「三田文学」主宰。耽美派の拠点。
「すみだ川」…隅田川べりの四季の移ろいに合わせて、文明開化の時代から取り残されていく人々を描いた物語。
「腕くらべ」…江戸情緒を描いた小説
「つゆのあとさき」「濹東綺譚」…私娼街の風俗
「断腸亭日乗」…日記
□高級官僚で厳格だった父親に反発する荷風は、勉学に身が入らず、旧制第一高等学校の入試に失敗。落語家に弟子入りしたり、歌舞伎作者を志して楽屋に出入りしたりする放蕩息子に手を焼き、父はアメリカで実業の勉強をすることを提案。フランス文学に憧れ、洋行を願っていた二十三歳の荷風にとっては、願ってもない話だった。ニューヨークにある日本の銀行の支店で働くことになったが、メトロポリタン歌劇場への連日の劇場通い。「オペラ作者になりたい」とまで思いつめるようになり、後に昭和十三年、自作のオペラ「葛飾情話」を上演、夢を実現する。五年間の欧米生活を経て、パンとショコラが気に入った荷風。人々が雑煮を食べる元旦に、ショコラとクロワッサンを食べた。
昭和十二年(1937年)の作品「濹東綺譚」は、隅田川の左岸、玉の井に暮らす娼婦「お雪」との出会いと別れを描いた荷風の代表作。このほか、「腕くらべ」や「おかめ笹」など、 荷風には花柳界を舞台にした作品がある。戦後いち早く復興し、娯楽を求める人々が殺到した浅草。中でも荷風のお気に入りは劇場だった。支配人に招待されると、ズカズカと楽屋に上がりこみ、たちまち踊り子たちの人気者となった。
谷崎潤一郎
女性の官能美を描く。
「刺青」「麒麟」「痴人の愛」「細雪」
「春琴抄」
美しき盲目の琴の師匠・春琴と弟子の佐助。顔に大やけどを負った春琴は、佐助に顔を見られることを嫌がる。佐助はみずから両目を針で刺し、愛する人に一生をささげることを誓う。
【白樺派】
学習院出身の同人誌「白樺」による、明るい理想主義・人道主義。武者小路実篤の「新しき村」や有島武郎の私有農場解放により、自我・個性の尊重の実践を試みた。
武者小路実篤
武者小路実篤(1885~1976年)は、明治43(1910)年に友人・志賀直哉らと雑誌『白樺』を創刊し、以後、60年余にわたって文学活動を続けた。小説「おめでたき人」「友情」「愛と死」「真理先生」、戯曲「その妹」「ある青年の夢」などで、一貫して人生の讃美、人間愛を語り続けた。大正7(1918)年には「新しき村」を創設し、理想社会の実現に向けて、実践活動にも取り組んだ。(調布市武者小路記念館ホームページより)
有島武郎
1878(明治11)年、東京生まれ。学習院中等科卒業後、札幌農学校に進学。アメリカに留学したり、ヨーロッパを遊学したりする。札幌農学校の後身である東北帝国大学農科大学にて教職に就く。またこの時期、武者小路実篤、志賀直哉、弟で作家の里見弴らとともに『白樺』同人となり、作品を発表しはじめる。 1916( 大正5)年、妻と父を相次いで亡くし、翌年には農科大学を退職。この時期を境に、『カインの末裔』『小さき者へ』『生れ出づる悩み』『或る女』『一房の葡萄』などの作品を発表し、文壇に作家としての地位を確立。(有島記念館ホームページより)
志賀直哉
□雑誌「白樺」創刊
「清兵衛と瓢箪」
「城の崎にて」…冒頭「山の手の電車に跳ね飛ばされて怪我をした」
「和解」
…父との長年の不和が解消した体験を小説化
□祖父・直道は、足尾銅山の開発に携わった。足尾銅山は深刻な鉱毒問題を引き起こし、直哉は現地視察を計画したが、実業界の大物であった父・直温はこれを引きとめた。この父子の衝突は、以後長年にわたる対立の発端となる。
「暗夜行路」
…人間として成長していく主人公・時任謙作
□お金に腐心する作家が多いなか、その心配がなかった志賀直哉。父は鉄道会社や生命保険会社の重役で、財界の重鎮。直哉は初等科から高等科まで学習院、その後、東京帝国大学に入学している。
創作に行きづまった芥川龍之介が志賀に相談した時のこと、アドバイスとして、「冬眠してゐるやうな気持で一年でも二年でも書かずにゐたらどうです」というと、芥川は、「さういふ結構な御身分ではないから」と答えた。二人の境遇の違いがわかるエピソード。
【新現実主義】
第一次世界大戦を背景として、「現実」に目を向けた作風。「新思潮派」と「奇蹟派」の二グループがある。
●第三・四次「新思潮」…芥川龍之介・菊地寛・久米正雄(「受験生の手記」「破船」)
山本有三(「女の一生」「路傍の石」)
●奇蹟派…雑誌「奇蹟」によった人々。後の、新早稲田派。私小説の流れ。広津和郎「神経病時代」・宇野浩二「蔵の中」・葛西善蔵「哀しい父」
菊地寛
雑誌「文藝春秋」創刊。芥川賞・直木賞創設。
戯曲「父帰る」…家を捨てた父が二十年ぶりに帰る
「恩讐の彼方に」
□豊島未来文化財団ホームページより
菊池寛は、『父帰る』、『恩讐の彼方に』など人間洞察の深い作家として出発し、文壇の大御所として、「芥川賞」・「直木賞」を創設した雑誌「文芸春秋」を中心に、映画会社の社長もつとめました。
しかし実家は貧乏で学資にも事欠くほどでした。彼の逸話で最も有名なのは、一高時代、友人の窃盗の罪を被って退学させられたことでしょう。あるとき、菊池と友人は金が必要になって、友人が「借りてきた」というマントを持って質屋で金を借りたのですが、じつはこのマントは友人が無断で持ち出したものと分かって大騒ぎになってしまいます。窃盗ということになれば犯罪で、そうなれば退学処分となります。菊池はそんなことを知らなかったのですが、菊池は自分の行為として認めてしまいます。それで菊池が処分されることになってしまいました。事実を知らされた級友が校長に訴え出たのですが、菊池は態度を変えず退学処分を受けます。友人の家庭事情に同情して、などと言われていますが、本人は「自分の学費の支払いに窮していて、どうせ学校を辞めざるを得なかったからだ」と言っています。苦労して生きてきた分、人の痛みに敏感でした。菊池が売れない文士に懐のくしゃくしゃのお札をそっと握らせたという話は山ほどあります。菊池はいつも相手に気遣いをさせないように、わざとくしゃくしゃにしたお札を用意していたといいます。永井荷風は逆にそんな菊池の行動に反発して悪口を並べています。江戸趣味の荷風には田舎紳士の鼻持ちならない行動に見えていたのでしょう。仲が悪かったようです。
芥川龍之介
□新現実主義(新思潮派)・新技巧派
第三次・四次「新思潮」主宰
「羅生門」
「鼻」…長い鼻を持つ僧の苦心。漱石が激賞
「戯作三昧」…滝沢馬琴の創作の悩みと解放
「地獄変」…絵仏師良秀は娘が焼かれる様を描く
「藪の中」…藪の中で死んだ侍の死因について、関係者の証言は食い違う
「侏儒の言葉」…芸術・人生に対するアフォリズム(警句)集
「河童」 …河童の目を通した人間批判。芥川の晩年の代表作で、芥川の命日7月24日は「河童忌」
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芥川が描いた河童
「文芸的な、余りに文芸的な」
…小説に芸術性は不要で、「話らしい話のない小説」が最も詩に近いと主張する評論。それは、自身のそれまでの小説を否定するものでもあった。
□芥川龍之介は東京帝国大学英文科卒業後、英語教師をしながら専業作家を目指していた。楽な暮らしではなく、妻となる文子へのプロポーズの手紙に次のように書いている。
「僕のやってゐる商売は今の日本で一番金にならない商売です。その上僕自身も碌に金はありません。ですから 生活の程度から云へば 何時までたっても知れたものです。」
のちに人気作家となるが、家族、兄弟、実家も養わなければならず、生活のために執筆を続けていた。晩年は、放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられた義兄が自殺し、金銭的にも精神的にもたいへんな苦労をした。
【プロレタリア文学】
大正の末から昭和の初めにかけて、社会主義運動・労働運動の高揚に伴ってプロレタリア文学運動がおこり、「種蒔く人」・「戦旗」などの機関誌が創刊された。これらの雑誌には、小林多喜二の「蟹工船」や徳永直の「太陽のない街」など、労働者の生活に根差し、階級闘争の理論に即した作品が掲載された。
葉山嘉樹
□雑誌「文芸戦線」に参加
「淫売婦」
「海に生くる人々」
…室蘭の石炭船の労働者たちが、組織的戦いに立ちあがる
「セメント樽の中の手紙」
発電所を建設するコンクリートを作るため、一日に11時間、セメントが入っている樽を空けるという厳しい労働に従事する松戸与三は、ある時、樽の中に小さな木箱を見つける。木箱の中に入っていたのは、恋人を失った女性からの手紙だった。恋人は、セメントの材料を作る作業中に破砕機に巻き込まれて粉々になってしまった。そのセメントの使い道を尋ねる内容が手紙には書かれていた。
小林多喜二
「蟹工船」
…北洋の蟹工船の中で、虐待による死に直面した労働者たちは団結して闘う
「党生活者」…共産党員の息の詰まるような日常
【芸術派】
大正末期から昭和初期にかけて、プロレタリア文学と対立し展開。
新感覚派と新興芸術派がある。
【新感覚派】 現実生活の断面を、感覚的に表現
横光利一
川端らと雑誌「文芸時代」創刊。
「頭ならびに腹」の冒頭は、当時の文壇を驚かせた。
冒頭「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。」
「日輪」…邪馬台国の女王卑弥呼を日輪(太陽)に見立てる
「蠅」…さまざまな事情を抱えた人々が乗り合わせた馬車が崖から転落する様子を見ていた蠅の目を通して、人の運命の不安定さを描く
「機械」…機械のように動いてやまない人間の心理
川端康成
ノーベル賞受賞
「伊豆の踊子」
…一人伊豆に着た私は、旅芸人の一行と道連れになり、踊子に心ひかれる
「雪国」…越後湯沢の芸者・駒子と葉子
冒頭「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」